概要
平治の乱で敗れ、近江を逃れ相模の渋谷重国のもとに居候していた父親に従い、家族そろって同地にいた。そこで源頼朝挙兵を知り、初戦で堤信遠、山木兼隆らの攻略に加わった。ただし、石橋山の戦いで敗走したのちは、再度渋谷荘でかくまわれている。
その後源頼朝の再起に伴い多くの合戦で活躍し、備前児島では平行盛相手に壮絶な戦いを行って称賛された。これらの功績によって左兵衛尉となり、伊予・越後の守護となった。
源頼朝が死んだとき出家して西念を名乗り、以後上野国磯部に住んでいる。越後で城資盛が反乱した時もこれを治め、板額御前を捕らえたのも彼である。
この後は建仁3年(1203年)に依然として延暦寺とひと悶着あったことから佐々木経高とともに追討に向かったこと、牧氏の変の時に平賀朝雅を佐々木広綱、佐々木高重とともに破ったことなどが知られるが、佐々木四兄弟の中では没年が全くわからない。ただし、承久の乱では代替わりをすでにしているため、おそらく佐々木経高よりは先に死んだのだろう。
関連項目
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