保元の乱とは、保元元年(1156年)7月に平安京(現在の京都中心地)で起こった戦いである。
後白河天皇と崇徳上皇間の皇位継承問題と、藤原忠通と藤原頼長間の摂関家の内紛が主な要因であり、この乱と3年後の平治の乱で中央政権での闘争に武士が動員されたため、地位が大きく上昇した武士は後の約700年に渡る武士政権へと繋がる事になる。
開戦に至るまで
皇位継承問題
「皇太弟」事件
保元の乱の15年前である永治元年(1141年)、治天の君(事実上の君主)であった鳥羽法皇は、長男である崇徳天皇に退位を迫り、自らが寵愛していた美福門院との子である当時2歳の体仁親王を即位させた。これが近衛天皇である。
しかし即位の際に、近衛天皇は崇徳天皇の「皇太子」ではなく「皇太弟」と発表されてしまった。系図上は同じ鳥羽天皇を父に持つ両者ではあるが、近衛天皇は崇徳天皇の后の養子であるため本来ではあれば皇太子=天皇の子供として扱われるものである。
自分の後継者が弟では将来院政を敷くことが不可能になってしまうために、院政を望む崇徳天皇にとってこれは重大な遺恨となった。
- 補足
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- 院政は「自身の直系の子孫に対し、天皇家の家長である上皇・法皇が後見人として政治を執る」というものであるので、兄弟間で後見となる事も、兄弟の子孫の後見となることも不可能である。これに起因するゴタゴタは鎌倉末期・後醍醐天皇の時にも起こる。
- 鳥羽法皇が崇徳天皇を疎んじたのは、崇徳天皇の父親が実は鳥羽法皇ではなく、鳥羽法皇の祖父・白河法皇であった為では?という俗説もある。個別記事も参照。
- 崇徳天皇は退位時点で23歳である。安定した院政を敷く為には、成人した崇徳天皇が政治に参加する(対立する)事を防ぐ目的で退位させる必要もあった。事実、鳥羽法皇も21歳の時、5歳の崇徳天皇に譲位させられている。(この時の治天の君は白河法皇)
雅仁親王即位
即位した近衛天皇は病弱で、久寿2年(1155年)17歳の時に崩御してしまう。若年であった近衛天皇には子供が無く、皇太子も定めていなかった。その状況で次の天皇としてもっとも有力な候補に上がったのが崇徳上皇の子供である重仁親王(当時16歳)だった。
崇徳上皇も自らが院政を敷く可能性が出てくることもあり、わが子の即位を強く望んだが、実際には別の候補であった美福門院の養子の守仁親王(当時13歳)が上がった。しかしまだ幼い守仁親王が存命の父親を飛ばして即位するのはよくないのでは?との声が上がり、守仁親王が立太子するまでの中継ぎとして一旦父親である雅仁親王(鳥羽法皇の四男、崇徳上皇の同母弟)が即位することになった。これが後白河天皇である。
この決定には、重仁親王が即位して崇徳上皇の力が強くなった場合自らの立場が危うくなる美福門院、自らの娘が崇徳上皇の寵愛から離れてしまったことを恨む藤原忠通、さらに雅仁親王の乳母の夫であり権力が欲しい信西などの多くの権力者の意図が重なりあった故の結論であった。
これにより完全に崇徳上皇の院政という望みは完全に打ち砕かれることになる。そりゃ泡吹いて倒れるわ。
摂関家
泥沼化する兄と父・弟の闘争
この時の藤原氏の氏長者藤原忠通には子供がなく、父・忠実は忠通の弟である頼長を養子にと提案し縁組をする。しかし、康治2年(1143年)に忠通に基実が生まれると、忠通は養子である頼長ではなく実子である基実に自らの地位を継承することを望み、頼長との養子縁組を解消してしまう。
久安6年(1150年)、頼長が自らの養女を近衛天皇に入内させると、忠通も対抗しすぐに自らの養女を入内させ「摂関の職についていない頼長の娘を皇后にする事はできない」と鳥羽法皇に上奏する。鳥羽法皇は頼長の娘を皇后に、忠通の娘を中宮にすることで事態を収めようとしたが両者は収まらなかった。この事件の後、忠実は摂政の地位を頼長に譲れと通告するも忠通は拒否したために、激怒した忠実は忠通の氏長者を剥奪し頼長に与え、忠通を勘当する。
さらに忠実は鳥羽法皇に対し忠通の関白を解任することを要求。しかし鳥羽法皇は忠実と良好な関係を持つ一方で、忠通が自らの愛する美福門院と良好な関係であるために両者が和解することを望んだため、やはりどっちつかずの対応に終始してしまう。結果、忠通の関白を解任しない代わりに頼長に内覧の権限を与え、摂関と内覧が両立する異常事態になった。
- 補足
「悪左府」
内覧になり実権を握った頼長は、学術の再興や政治の刷新など多くの課題に対して意欲的に取り組んだものの、周りに妥協を許さないあまりにも苛烈な性格と、理想や論理を重視した結果現実的ではない政治などを行なってしまったために、次第に周囲から孤立していくことになる。
極めつけは、従者同士の口論がきっかけで、鳥羽法皇の寵臣である藤原家成の邸宅を破壊する事件を引き起こしてしまう。その他に寺に逃げ込んだ罪人を強引に引きずり出すために流血沙汰を起こしてみたり、自分の意に介さない者への私的報復を繰り返すなど枚挙にいとまがなく、近衛天皇や鳥羽法皇からの信頼をも失っていく。
このような行いを続けた結果、近衛天皇の死は忠実・頼長親子が呪詛した結果という噂が世間に流れ、頼長は内覧の権限を停止され事実上失脚する。
乱前夜
近衛天皇の崩御により大きく荒れた政治も、後白河天皇の即位によって一旦情勢が落ち着きかけた。しかしここで急転直下の出来事が起こる。鳥羽法皇が病に倒れ、危篤に陥ってしまうのである。
治天の君である鳥羽法皇が斃れた場合、法皇の権威を盾にすることで敵対する崇徳上皇と頼長を押さえ込んでいた忠通や美福門院は体制をひっくり返される恐れがあるため、法皇を警護する北面の武士の中で崇徳上皇・頼長側に付きかねない武士には忠誠の誓約書を書かせ、美福門院に提出させた。この中には父・忠盛が重仁親王の後見人である平清盛がいる。
合戦の経過
保元元年(1156年)7月2日、鳥羽天皇が崩御。3日後には早くも「上皇と頼長が結託し謀反を起こす」と言った風聞が流れ、京中の武士の動きや軍を集める事を制限する綸旨が発令され、にわかに緊張感が高まる。
さらに、7月8日には天皇側が頼長に謀反人の疑いをかけ邸宅を接収する。
これは鳥羽法皇崩御のタイミングから早急に合戦の準備をしていた天皇側に対し、頼長は合戦の準備をしていなかったため、優位を確信した天皇側が挑発をしかけたようである。結果、追い詰められた頼長は兵を上げて事態を打開するしか無くなってしまう。
翌日夜中に上述の風聞を受け危機を感じた崇徳上皇が脱出し、新たに治天の君になることを宣言し有力な武将や貴族の味方を取り付ける事を画策する。
7月10日、頼長は崇徳上皇の宣言を拠り所に上皇を担ぐことを決意し武士を集めたものの、すでに動きを止められていることもあり、平忠正、源為義といった元々頼長・忠実と直接の主従関係のあったごく一部の人数しかあつまらず、これにより圧倒的劣勢に立たされる事になった。このため劣勢を挽回するために為義の息子である源為朝は夜襲を提案するも、頼長はこれを認めず、自らに近しい寺社勢力からの兵を待つことにした。
一方天皇側はこの上皇側の一連の動きから、平清盛、源義朝(為義の長男)といった北面の武士の中でも強大な軍事力を持つ武士を動員し、忠通もこちらに加わった。出撃に際しては義朝が「敵に弟である為朝がいるなら夜襲をしてくるに違いないので先に手を打つべき」と先制攻撃を強硬に主張したようで、忠通は当初は反対していたもの最終的には押し切られたようである。
7月11日、早朝4時頃天皇側の夜襲で合戦に至るものの、源為朝の奮戦により戦線は膠着する。このため天皇側が新たな戦力とともに上皇側の本陣の隣にあった藤原家成の邸宅に火をつけ、この火が本陣に燃え移ったことで上皇側は総崩れとなり、崇徳上皇と頼長は行方をくらました。
- 補足
戦後
翌日出頭した崇徳上皇は讃岐への配流が決まった。天皇及び上皇の配流は約400年ぶりの事である。頼長は戦の傷が元で死ぬ。
敗北した天皇側の武士の多くは死刑に処された。死刑自体350年ぶりであり疑問の声が上がったようだが、知識人である信西に対して意見する人はいなかった。
長年平穏であった平安時代において、数百年振りに中央政権の闘争が武力で発揮され、天皇が流され、そして死刑が再開されるという非常に大きな事件に、世の中が大きく変わる予感を感じた人は多かったのだと思われる、
なお結果的にこの乱で一番の被害を受けたのは摂関家であり、忠通は関白の座は死守したものの、自らの武士組織を解体され、頼長の所領を没収され、氏長者の任命権を天皇に握られてしまい、自主性を失ってしまった摂関家は以後没落していく。
反面、この戦いで裏で仕切っていた信西は以後権勢を増していく。が、そのあまり権勢が逆に貴族の反感を招き平治の乱へと突入していく。
主要人物の戦後経過
天皇方
- 後白河天皇…内部的な部分は全て信西に任せていたようで、戦自体には全くと言ってもいいほど関わっていないようである。戦後は信西に政治を牛耳られるが、これに対抗するために藤原信頼を重用したことなどが平治の乱のきっかけになる。
- 藤原忠通…即日、氏長者の宣旨をうけるものの、内部干渉を避けるために辞退する。しかし父・忠実が罪人扱いされており、事実上の摂関家総帥の莫大な所領が没収されてしまう事=摂関家崩壊の危機を迎えるため、父の放免を要求し「忠実領を全て忠通に譲渡すれば没収はしない」という形に収めた。その代わりに宣旨を受けることになり、以後藤原氏は氏長者の決定権を天皇に握られる事になる。
- 信西…乱において背後で全てを取り仕切っていた信西は、乱後に政治の主導権を握り豪腕とも言える手腕を振るうことになる。しかしその豪腕が貴族の反感を招いてしまい、大きな反信西グループを形成。これが2年後の平治の乱における直接的原因になる。
- 源義朝…右馬権頭(朝廷保有の馬を飼育する役職)に任ぜられ、昇殿が許された。清盛と異なり実の父や弟を初めとした一族が上皇側に付いたために、自らの戦功と引換に一族の助命をしたが受け入れられず自らの手で斬ることになった。また清盛と比べると恩賞にかなり差異がある事もあってこれらを不満に思い平治の乱を引き起こしたと言われていた(現在は疑問視されている)。
上皇方
- 崇徳上皇…讃岐への配流が決定後、そのまま京には帰れず讃岐で8年後に亡くなる。しかし乱から20年後の安元2年(1176年)あたりから後白河天皇に近い人が多く死んだり、翌年に大きな事件が立て続いて起こったことから「崇徳上皇の祟り」と言われており、現在に至るまで崇徳上皇=怨霊のイメージは定着してしまっている。
- 藤原頼長…合戦で深い傷を負うものの、なんとか父・忠実の元にたどり着く。が、摂関家の立場を悪くするのを恐れた忠実からは面会を拒絶され、数日のうちにその傷が元で亡くなった。崇徳上皇同様に後に怨霊となったと言われた。
忙しい人のための保元の乱
- 崇徳上皇は政治の主導を握りたいが、政府は道理を曲げてでもそれを許そうとしない
- 藤原忠実は次男・頼長が可愛くて堪らないので、政府に重用するよう促したらとんでもない地雷だった
- 政府「なんかこいつら面倒くさい・・・よしまとめて排除してしまおう。いけ武士!先制攻撃!」
- 崇徳上皇・頼長「ちょwwww俺らなんで謀反人wwww準備出来てないwwww\(^o^)/」
- 政府「悪は去った(ドヤァ」 完全な言いがかりです本当にありがとうございました
- 結果、言いがかりをつけようと提案した凄い頭のいい生臭坊主が凄い力をつけた
- 中心人物でもないのに家壊されたり燃やされたりした藤原家成さんは草葉の陰で泣いていい
(※乱の2年前に亡くなられました)
Q. ・・・で結局誰が悪いんですか?
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