概要
110号艦
艦名は旧国名の信濃国が由来。大和型戦艦三番艦であり、建造番号として110号を与えられた。妹に111号艦(予定名は「紀伊」だったとされる)がいる。
先に建造が始められていた大和・武蔵をさらに洗練した戦艦として、信濃は横須賀海軍工廠で建造されていた。このとき新設された巨大な6号ドックは今も現役で、米軍の空母の修理などに使われている。
しかし建造は遅れ気味で、その間に日米開戦は決定的となる。
建造頓挫
1941年12月8日に太平洋戦争が開戦。日本軍は開戦を前にして用兵思想を戦艦から空母・航空機・潜水艦へと向けており、艦艇の保有計画に見直しがなされる。110号艦、111号艦は建造が一時停止された。
その後110号艦はひとまず船体のみを完成させて進水するよう命じられる。
要するに「そこで空母作るからさっさとどけ」という意味である。
だが、この時の帝国海軍ははまだ110号艦を戦艦として建造する方針であり、宇垣纒は「戦艦建造を第三号艦(本艦)迄とする」と綴っている。
設計変更
1942年4月、マル5計画の改定案が検討され始める。この時点で110号艦は空母への改装が決定していた。
6月5日、かのミッドウェー海戦が起こる。知っての通りこの戦いで帝国海軍は大敗北を喫し、保有していた主力空母の3分の2、赤城・加賀・蒼龍・飛龍を一挙に失ってしまう。
これを受けて空母の緊急増備が要され、改飛龍型航空母艦(雲龍型)の建造が急がれることとなる。110号艦、111号艦は直ちに建造を中止し、111号艦は即時解体。資源を伊勢型戦艦の航空戦艦改装等に回された。110号艦も解体し、雲龍型建造のためにとにかく早く第6ドックを明け渡すように計画された。
しかし既に建造が進んでいた110号艦の解体は111号艦ほど容易ではない。110号艦はそのまま航空母艦への改装が決定。7月16日、改装計画をまとめた文書が軍令部次長海軍次官に送られた。同年の改マル5計画において雲龍型航空母艦の建造計画が当初の15隻から13隻に減らされているが、これは110号艦の空母改装へのリソース割り当てであった。
工事は1943年から再開され、生を受けることのなかった妹111号艦の資源も用いられたとされる。
なお1942年9月には、大和型の主砲を呉から運搬できる「樫野」が撃沈されており、計画を抜きにしても110号艦を戦艦として建造するのは困難な状態になっていた。
空母としての信濃の設計思想は、敵の攻撃を受けても分厚い装甲で戦闘力を保持し、他の空母が損傷により収容できなくなった航空機の受け入れ先として機能させる、いわば前線での洋上航空基地というものであった。このことから同じコンセプトを持つ大鳳の拡大発展版と言えなくもない。
しかしどちらも結果的には中継基地構想は無くなり、艦隊型空母として運用することになった。
が、工事が再開されたといってもその前途は多難に満ちていた。
再開されはしたものの、松型駆逐艦や潜水艦の建造、既存の空母の改修・修理に資材と人手が回され、その上熟練工が徴兵されたため質の低下と工事の遅れが免れない事態に陥る。
しかしながらマリアナ沖海戦の惨敗を受けて空母を1隻でも多く確保したいと考えた海軍上層部は、工期の短縮を厳命。1945年2月末の竣工予定が1944年10月15日へ短縮、なんと予定を5か月近くも早めてしまった。
ただしある程度艦としての機能(自力航行可能な状態)が備わっていればよい、と命令している。とはいえ現場からすればかなり厳しい要求であったことに変わりはないだろうが。
7月1日に110号艦は「軍艦 信濃」を命名され、正式に登録される。
こうして、結局信濃が不完全ながらも竣工したのは命令より1か月遅れの11月19日であった。
進水、回航、そして沈没
この頃日本本土にB-29が飛来しはじめ、横須賀地区にも偵察機が姿を見せており近々空襲があると判断された。信濃はこれから逃れるため、まだ比較的安全な呉へ回航することになった。一部資料によっては熟練工を根こそぎ動員され、改装工事の完遂が出来なくなった横須賀が呉に工事を委託した、とされている。呉側も残りの工事を引き受けたが、この決定がのちに悲劇を引き起こす。
何とか自力航行が可能となった信濃の進水式が行われたが、ここでミスによりドックに海水が勢いよく流れ込み、甲板上にいた人が放り出され、信濃自身はバウをドック壁面に何度もごっつんこし、ソナー等を破損させてしまう事故が発生。式の後に修理する羽目になってしまった。
修理後、東京湾で公試運転を行ない、この時にいくつかの航空機の発着艦を行なっている。空母としては鈍足の信濃だったが、その巨体故に着艦はしやすかったようで、パイロットからも好評だった。なお、この際に局地戦闘機紫電の試作艦載機型である試製紫電改二が着艦に成功している。
11月28日午後1時30分、信濃は護衛の駆逐艦3隻(浜風、磯風、雪風)を伴って横須賀を出港。艦載機は載せられず、代わりに特攻兵器の桜花が貨物として積載されたという。昼間の接岸移動か夜間の外洋航海かで揉めたが、結果は後者に決定。金田湾で時間調整したのち、午後6時30分に外洋へ出た。
信濃が外洋へ出た約2時間後。米潜水艦「アーチャーフィッシュ」に捕捉される。
新型の超大型空母を見たアーチャーフィッシュは応援を要請するが、追跡続行を指示され応援は来なかった。やむなくアーチャーフィッシュは単独で信濃を追跡する。全速力で逃げていればアーチャーフィッシュより信濃の方が速かったが、信濃はジグザグ航行を行なっておりアーチャーフィッシュは余裕で追い付けたらしい。
信濃側も追跡に気付いており、浜風を向かわせアーチャーフィッシュ側を退避寸前まで追い込んだが、護衛に間隙を作らないという意図で浜風が呼び戻され、追跡が続けられてしまった。
翌日午前3時13分、アーチャーフィッシュは魚雷6発を発射。信濃右舷、浅い部分に4本が命中する。
急いで潮岬方面へ向かおうとするが、浸水により機関が停止。護衛駆逐艦に曳航を命じるも、浸水した巨艦を曳航することなど到底できずワイヤーが破断。こうして乗員の奮闘も空しく午前10時57分、信濃は潮岬沖にて沈没した。
海面には積荷の桜花が浮かび上がり、生存者たちはこれに捕まって救助を待った。特攻兵器である桜花が人命救助に役立ったことを後に知った桜花開発者は、複雑な表情を浮かべたという。
沈没の原因
本来大和型は史上最大最強の戦艦である。魚雷4本程度では十分浮いていられたはずだった。
事実、「大和」は10本、「武蔵」に至っては少なくとも20本以上被雷(+大量の爆弾を被弾)してもしばらく沈没しなかったのに対し、「信濃」はわずか4本の魚雷で数時間浮いていたとはいえ沈没してしまった。
ただし、信濃が受けた魚雷は航空魚雷よりも大型で威力のある潜水艦用の魚雷であることに留意する必要がある。戦争後期の魚雷は新型爆薬で威力が増加しており、信濃に命中した魚雷はコンクリートが充填されたバルジより浅い位置に命中していたことなども考えると、わずか4本というよりも4本も被雷したとも言える。
しかし、「大和」「武蔵」と比べ「信濃」は多くの面において不完全であったと言わざるを得ない。
その不完全さを示すエピソードとして、呉への回航中にも艦内では工事が行われていた、工期短縮のために水密試験や気密試験などの重要な試験をほぼ省略していた、などがある。
また、乗組員も艦内構造に慣れておらず、適切な対応が出来ていなかったのでは?と言われている。
更に突貫工事のツケか、注排水装置の故障や、せっかく閉めた防水ハッチも密閉が万全でなかったという不備などもあったようだ。
問題は「信濃」のみにあったわけではないが、到底敵の攻撃に耐えうる状態ではなかったということであろう。
写真
長らく、Wikipediaにある逆光で撮られたものの他、米軍が空撮した不鮮明な画像の2つしか現存しないとされていたが、近年新たに1枚の米軍空撮写真が現存することが確認された。
鮮明な写真は逆光での1枚だけであるため、信濃の外観資料は非常に乏しい。だが、この写真から迷彩が施されていたことがわかっている。
余談
信濃は「竣工から沈没まで」の世界最速記録(竣工して10日後、出航してから17時間後に沈没)と、潜水艦に撃沈された世界最大の艦(排水量6万2000トン!)、という不名誉な二つの記録を持っている。
撃沈を巡っては、アメリカ海軍内部で一悶着起こっている。「アーチャーフィッシュ」の艦長ジョゼフ・F・エンライトは「信濃」を5万トン級の空母と報告したが、海軍上層部は「そんなデカイ空母を日本が作れる訳が無い」と本気にせず、艦名から信濃川由来の巡洋艦から改装した28000トン級の空母と認定し、エンライト艦長も渋々受け入れたという。アメリカ海軍が「信濃」の実態を知ったのは1946年の事で、そこで初めてエンライト艦長は世界最大の空母撃沈の栄誉に即した。
更に余談
大和型を改造して作られた空母であるからか仮想戦記によく登場する。
空母ではなく戦艦として建造された、という設定で登場することも珍しくない。
関連動画
関連静画
関連商品
関連コミュニティ
信濃(航空母艦)に関するニコニコミュニティを紹介してください。
関連項目
- 1
- 0pt