信長包囲網単語

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信長包囲網とは、織田信長政治的・宗教的・地政学的に対立した者達が、周辺勢や各地の諸大名と結託して織田による天下統一事業を阻んだ、大同盟連合(合従連衡)のことである。

一般的に、信長包囲網と呼ばれるものは大きく分けて三つある。

  1. 第一次包囲網・・・に畿内の諸大名(三好六角朝倉など)と宗教(本願寺、延暦寺)による、対織田同盟。後に、織田と同盟関係にあった浅井長政も加わる。時期的には、信長直後の1568年(永11年)から、の戦いを制した1570年(元元年)まで。
  2. 二次包囲網・・・本願寺との戦いに苦戦していた織田信長が、元々友好であった武田信玄との外交に失敗し、危機的状況に陥ったために元々ギクシャクしていた将軍足利義昭織田信長を見限り、包囲網側に参加したことで完成した。浅井朝倉三好といった従来の大名や本願寺教団に加え、東武田信玄をも加えた、第一次包囲網よりも広大にして強大な包囲網となった。
    時期的には、信長長島一向一揆を鎮圧した1571年(元2年)から、信玄が病死した1573年(元4年)までとされている。
  3. 三次包囲網・・・第二次包囲網の瓦解により追放された足利義昭が、毛利の領へと落ち延びて再決起を図った際の大包囲網。未だ強固な勢を誇る本願寺教団と、毛利上杉といった地方の強大名を多数抱え込んだ、史上最大規模の包囲網となった。
    時期的には、義昭が毛利へ落ち延びた1576年(正4年)から、信長明智光秀謀反により本寺で死亡する1582年(正10年)までである。

推移

第一次包囲網(1568年~1570年)

織田信長足利義昭を奉じて、畿内への上を果たす。この際、信長は義昭の名代として各地に号を発し、諸大名の即時上を命じた。

だがこれに越前朝倉義景が応じず、信長朝倉へ制裁を加えるべく越前へ出兵。その途上で、それまで婚姻による同盟関係にあった北近江浅井長政が反逆。これに呼応して、三好三人衆六角義賢といった諸大名も相次いで反織田同盟への参加を決め、信長は苦しい戦いを強いられる。

1570年(元元年)のの戦いで、織田・徳軍が浅井朝倉連合軍を破る。それを皮切りに、横島の戦いや野田福島の戦いも、織田軍が有利に事を進める。だが、織田軍の優位も長くは続かず、この一連の戦いに本願寺教団が反織田側として介入してきたことで、信長一気に苦しい局面に陥った。

織田信長浅井長政朝倉義景への決戦を志向するが、浅井朝倉両氏は信長の戦術采配を警し、拒否して比叡山に籠。さらに六角義賢伊勢長島の在地勢が挙兵し、特に長島衆は信長である織田を自させ、滝川一益を防戦一方にするなど、老若男女含む数の暴力織田軍をジリジリと圧迫した。

織田信長との直接対決を避け、信長の戦をできる限り削ぐ形となった「志賀」と言われるこの戦いは、織田軍劣勢が日増しに顕著になる。一応、南近江では羽柴秀吉丹羽長秀の奮闘もあり、また山岡の協もあってやや優勢ではあったものの、摂津伊勢、尾方面では戦線を支えきるのは難しい状況になりつつあった。また森可成坂井政尚、織田といった重臣一門の戦死者も出始め、暗が漂っていた。

このまま包囲網の中で戦っていても、ジリ貧なのは明だった。そのため、足利義昭信長を救うべく外交支援を行い、朝廷とも連携して正親町天皇を動かし和を成立させた。また反信長織田との長期戦を不安視するも出始めており、利一致となった。

信長六角義賢篠原長房と、次いで浅井長政朝倉義景とも和する。三好三人衆や本願寺・一向一揆衆は諸大名との和後もある程度の交戦を続けるが、六角浅井朝倉といった有が一時的に抜けたことで包囲網は勢を大きく損なった。織田信長が体裁上折れる形でメンツが保たれた反信長がひとまず兵を引くという形で戦いは終わり、信長はこの難局を乗り越えた。

虚実あるべし。(何かの間違いではないのか!?

朝倉への遠征途中、ヶ崎織田信長が発した一言。盟友であり婿でもあった浅井長政が裏切ったと知らされ、信長しく狽しながらこう言ったとされる。
浅井長政織田を裏切ったという事実を、信長お市から贈られてきた小豆の袋によってい知ったという逸話が後世の創作では流布された。布袋の両端を紐で縛ってあった小豆袋を見て、信長は自身がこの袋の中の小豆であることを察し、上記の一言を発した。

第二次包囲網(1571年~1573年)

信長の権握によって室町幕府は一時的に再したが、将軍である足利義昭は、後見人である信長のとの関係において駆け引きや対立をしながらも協調関係を維持していた。それは戦国初期の有者と将軍との関係同様に不可避のものであった。義昭が信長に『副将軍』の地位を用意しても受けようとせず、また信長は『殿中御掟』を制定して義昭の行動を一部制限しようとした。

義昭は以前にも信長包囲網を形成した浅井朝倉六角といった畿内大名衆や、本願寺や延暦寺といった宗教や一衆、更には東の強として知られていた武田信玄信長の副状のない御内書を乱発し、独自の活動を行う。

これに対して、信長は義昭の行動を苦々しく思いつつも各地を転戦し、1571年(元2年)には磯野員昌を降させて佐和山を落とし、長島一向一揆では織田を失ったが、苛に攻め立てて一衆を封じ込めた。また、同年には延暦寺を焼き討ちしている。

1572年(元3年)には、北近江浅井長政に対して本格的な攻勢を開始。小谷を包囲したことで美濃と畿内を結ぶ兵站線が安定したため、戦況はますます織田側へ有利に傾いていった。途中で松永久秀が反旗を翻したが、信長は各方面に対して冷静に対応した。反信長連合はいよいよ追い詰められ、味方となった甲斐武田信玄にほぼ希望を託す形へとなっていた。

1573年(元4年)4月、西上作戦中だった武田信玄が病死したことで、包囲網は大きくを損なった。信長の上以来、反織田姿勢を貫いていた三好三人衆も、中心人物だった岩成友通7月に戦死したことにより、営としては崩壊する。(後に、その構成員の一人だった三好政康大坂夏の陣豊臣方として参戦しており、真田十勇士の一人である三好モデルともなった。何年潜してたんだアンタは・・・
信玄の死に勢いを得た信長は、その年の8月朝倉義景浅井久政を、9月には久政の子・長政を討つことに成功。これにより包囲網事実上瓦解することになる。

また武田織田の手切れを確認した後、1573年初頭に包囲網に遅れて参加した足利義昭は、1573年7月に槇で挙兵したが、既に時勢を得ていた信長には敵わずに槇を追われてしまっていた。(当時、義昭は信玄の死を知らずに信長の情勢は絶望的だと誤った判断をしてしまったという)

 第三次包囲網(1576年~1582年)

織田信長によって畿内を追われた足利義昭は、なおも幕府復信長への復讐を諦めきれず、護先の毛利を中心とした新たな信長包囲網の構築を論んでいた。

だが、頼みの綱だった甲斐武田は、信玄の跡を継いだ武田勝頼長篠の戦い織田信長徳川家康に大敗して以降はその勢も下火となっており、畿内にはもはや織田に対抗し得る有大名はいなかった。そこで義昭は、未だに根強い抵抗を続けていた本願寺教団と、武田と並ぶ強である越後の上杉謙信、更には瀬戸内海海賊衆にも参加をめた。また足利義昭上杉謙信武田勝頼北条氏政の三者協調を説き、一貫して信長とあたるようもくろんでいたと言われている。

こうして、本願寺、毛利上杉武田らを始めとする、史上最大規模の大信長包囲網が出来上がった。(毛利は当初、元就の方針により信長包囲網への参加には否定的だったが、元就死後は方針を転換した。)
毛利瀬戸内海賊衆と協して、当時重包囲下に置かれていた本願寺(石山御坊)への路での兵糧補給を行い、これを成功させる。(その時、毛利軍と海賊衆が織田・九軍との間で大規模な戦を行っているが、毛利軍がこれに勝利した。1576年の第一次木川口の戦いである。)

また、北陸では上杉謙信が義昭のめに応じて、加賀能登への侵入を開始。翌年の1577年(正5年)には、畿内で再び松永久秀が反逆するに及び、に反信長連合が勢を盛り返し、織田信長はその対応におわれることとなった。これに信長は各個撃破戦術で対応し、紀州雑賀衆を紀州征伐で破り、また加賀一向一揆も重鎮の柴田勝家派遣することで収束へと向かわせた。

また翌1578年(正6年)には、手取の戦いで柴田軍が上杉軍に敗北したものの、その直後に上杉謙信が病死する。また上杉はその後、後継者争いにより御館の乱が勃発して外征どころではなくなったため、事実包囲網から脱落した。また、御館の乱に伴い、武田勝頼北条氏政が対立し、北条氏政織田信長に味方した。結果、足利義昭論んだ上杉北条武田の三者協調路線は、ここに破綻することになる

北陸の脅威が消え失せ、信長は再び畿内を注視。反逆した松永久秀には嫡男の信忠をあたらせ、丹波の波多野秀治赤井直正には明智光秀をあたらせ、これも順繰りに撃破していった。

だが一方、中国地方の戦況は芳しくなく、毛利軍の東進により播磨や丹後などが脅かされていた。これに信長織田信忠羽柴秀吉らをあたらせて毛利との戦いに従事させるが、戦局着や播磨の別所長治の離反に伴い、対毛利の駒として用意していた尼子勝久山中鹿介を見捨てることとなり、二人は上の戦いで戦死(勝久は自鹿介は捕縛後殺)してしまっていた。

またこの頃、摂津では荒木村重が本願寺・毛利方に寝返っていた。また、本願寺も毛利軍による上補給を受けて勢を盛り返しており、予断を許さない状況にあった。これに信長は、新たに開発したを投入して再び上封鎖を実施。毛利軍と瀬戸内海賊衆を撃破し、本願寺の糧全に断つことに成功した。(第二次川口の戦い)

1579年(正7年)、寝返った荒木村重別所長治織田軍に包囲されて孤立し、丹波では波多野秀治が降。またその年の暮れには、備前の宇喜多直家毛利下を抜け出して信長に与したため、中国地方の戦況も徐々に織田軍有利な形勢へと傾き始めていた。

1580年(正8年)、反織田同盟の最右翼だった本願寺教団が、法顕如石山御坊退去によって事実上降し、10年近く続いた石山合戦が終結する。本願寺に協調していた雑賀衆も、雑賀孫市鈴木孫一)を中心とする信長土橋守重(土橋若太夫)を中心とする反信長に分裂することとなる

その後、信長1582年(正10年)には東の脅威だった武田勝頼を攻め滅ぼし、北陸甲信越を制圧して上杉景勝を窮地に追いやる。関東では北条氏政織田信長との連携を強めてはいるが、事実上その体制に組み込まれつつあった。また、中国地方では毛利の要衝である備中高松秀吉攻めにしており、毛利氏の背後にいる大友宗麟信長に味方して毛利氏を圧迫するなど、もはや包囲網瓦解も時間の問題となっていた。

ところが、その1582年(正10年)の6月に、織田信長明智光秀謀反によって横死。その後の織田の内乱などもあり、信長包囲網は、最大の敵であった信長が死んだこと、その後の政情混乱などもあり、その意義すらも徐々に薄れ消え行くものとなっていった。

包囲網関係者達のその後

織田は、中心人物だった織田信長だけでなく、嫡男の織田信忠や、有臣だった村井貞勝らを失ってしまったことで急速に弱体化していき、織田信雄織田信孝の権争いや羽柴秀吉の台頭によって次第に勢を衰退させていくことになる。その後、秀吉豊臣政権を打ち立て、織田秀信を始めとする織田までもが豊臣氏に臣従すると、織田信長織田を巡った信長包囲網は全に的を失った。

そのため、外交体制の一新が行われていき、反織田の最先鋒として対立していた毛利上杉は、羽柴秀吉と結ぶことでその後の豊臣政権下で重要なポストとなり、秀吉下取りを支えていくことになる。

一方、第三次包囲網形成の導者であった足利義昭は、秀吉から山に1万石の領地を与えられた。その後、将軍職を辞して受、出して余生を過ごした。(朝鮮出兵の際には、肥前まで名したりしている。)

また信長と最もしい戦いを繰り広げた本願寺の法顕如は、石山御坊を去った後は一時的に紀伊で隠遁していた。信長の死後は、秀吉と和したことで大坂城下に寺院を持つことを許され、そこに満本願寺という新たな本拠地を築いてそこへ移る。
だが、罪人を匿った疑いをかけられたことで大坂から追われ、京都七条堀川に新たな寺院を築いた。(顕如の死後、本願寺教団徳川家康の裁定により東西二に分けられることになる。)

一般的には、信長包囲網はいわゆる『旧態勢抵抗』というに言われているが、実際は織田信長外交の失敗において成立した危機という性質が強い。

織田勢力、包囲網参加勢力、主要人物の帰趨

織田信長とそれに連なる主要人物

信長包囲網参加者(信長死後も存命、信長、あるいは秀吉に概ね臣従)

信長包囲網参加者(信長存命中に敗死、または病没)

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信長包囲網

65 ななしのよっしん
2022/06/11(土) 07:46:03 ID: KuIlmeitNp
>>63
作品によっては1570年の時点で織田信長の敵に毛利元就上杉謙信がいたりする
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66 野田福島+志賀の陣兵力比較
2022/06/11(土) 09:35:29 ID: KuIlmeitNp
信長の味方

織田軍本隊:4万(言継卿記より 尋記では6万)

湯川・根来・一部の雑賀衆:2万(信長公記より)

足利義昭奉公衆最低でも2千(信長公記より)

三好義継松永久秀ら:不明(ただし満に配置して攻めもこなしてるので相当数の兵

細川信良ら:不明(敵からの降兵)
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67 野田福島+志賀の陣兵力比較
2022/06/11(土) 09:37:42 ID: KuIlmeitNp
信長の敵

三好三人衆:8千(信長公記より 尋記では1万3千)

四国三好勢:不明(↑と足して1万3千説あり)

浅井朝倉勢:3万(信長公記より)

石山本願寺:不明(ただし顕如文で「今立ち上がらないは門徒じゃない」とまで言ってるので相当数の兵

一部の雑賀衆:不明(鈴木重秀ら)

(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
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68 ななしのよっしん
2022/06/11(土) 09:40:02 ID: KuIlmeitNp
結果論だけど、三人衆単体と戦闘している時は信長・義昭軍が圧倒的に優勢で三人衆が和議を持ちかけて泣きついてるくらいだったからここで和しておけば泥沼化しなくて済んだ
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69 ななしのよっしん
2023/04/22(土) 12:25:00 ID: xEzWOVsNDi
信長の野望・新生だと、皆一斉に反信長になるのではなくある程度史実に沿ったタイミングでそれぞれが反信長になるから、各個撃破されるだけの集まりになってる。
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70 ななしのよっしん
2023/04/23(日) 12:47:32 ID: YqWlagm1Vu
松永荒木などの離反を見ると、「客観的には信長絶対負けるよね」というぐらい毛利は強かったんだろうか、と気になる
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71 ななしのよっしん
2023/05/02(火) 20:05:12 ID: 790ksloh35
毛利が強いというより、なんだかんだ足利義昭
旗頭として機していたんでしょ。
特に天王寺合戦のあたりは全に織田が受け手に回っていて
毛利本願寺足利連合から仕掛けに行った戦いだったし
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72 ななしのよっしん
2023/05/05(金) 11:15:15 ID: UZunG274TL
義昭個人と言うか、松永荒木室町幕府滅亡にはそりゃ同意しないだろなって連中だしね
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73 ななしのよっしん
2024/03/09(土) 20:17:44 ID: tlcI5VNJ8B
所詮は同床異烏合の衆だからな。
本願寺は大規模遠征してまで織田を破壊したいわけじゃないし、疲弊した朝倉はこれ以上被害を出したくない、武田は北条が背後にいるから動くべき時に動けない。

まぁそもそも信長が周囲からをつけられて狙われたのを後世が「包囲網」と呼んだだけで、同盟でもなんでもないんだから協しないのは当たり前だが。

織田はこの時点で相当な大だし、織田同盟を後世が軽んじ過ぎている。イオン相手に地元の商店たちが立ち向かうような話。
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74 ななしのよっしん
2024/03/09(土) 20:25:08 ID: b2CaI9ZGcA
まあ信長方も言うほど一丸かというのはある
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