全国統一とは、以下のいずれかを指す。
- 行政・体制・事柄などを全国各地で一元的、一律的に行うこと。今日では「全国~~」と省略されて使用されることも多い。ex.全国統一学力テスト
- 日本全国を一つの勢力の傘下に治める事。一般的には天下統一と同様の使われ方がされる。ex.豊臣秀吉の全国統一。この記事で主に記述。
前提
歴史上、無数の国家が興亡しており、国家はそれ以前の国家から領土だけでなく歴史や民族も引き継いできた。その結果、それぞれの地域で一定の領域を自分の国家・民族その他に属する土地と見做すようになっていった。
それぞれの国家・民族はそれらいわゆる『伝統的な領土』を全て単一政権の支配下に置くことを願うことが多く、それを達成した時に「○○統一」ということがある。ex.始皇帝の中華統一、東西ドイツの統一。
しかし、統一政権も時代を経ると勢力が衰え、地方への影響力を失うのも歴史の常であり、そうなると再び地方は中央の統制を離れ、統一は崩され国家は分裂する。そしてその分裂した勢力の内から強大になり周囲をまとめ統一を成し遂げるものが現れ再度統一する、と言うのもやはり歴史の常であり、人類の国家は統一と分散を繰り返して成長してきた。
何故統一と分裂を繰り返すのか
何故国家が分裂するかと言えば、突き詰めてしまえばコストパフォーマンスの問題である。中央集権を成立させた国家は大きな力を得るが、それを維持するためのコストも相応にかかる。中央から遠く離れた辺境の防衛のための兵力の駐屯は言うまでもなく、徴税などの国家としての日常業務でさえ、中央から遠く離れた土地にまで徴税官などの人員を派遣・配置しなければならず、その人的経済的負担は国土が大きくなればなるほどに増大していく。
中央政権が力を失った際に、この地方維持のコストを軽減しようとすると一番手っ取り早いのが現地の人員に大きな裁量を与え丸投げしてしまうことである。この「地方の細かい事は全て任せるが、しっかり中央に税を送れ」という体制は確かに中央の負担を減らすことにはつながるが、同時に地方勢力に大きな権限を与え、ついには独立勢力化する事さえあり、そうすれば国家は分裂する。
前近代では中央が目を光らせられる範囲にはどうしても限界があり、地方に大きな裁量を任せるしかなかった。その妥協の結果として打ち出されたのが封建制などの緩やかな支配体制である。近代になると技術の発展により交通・通信技術が進化し、それに伴って中央政府の影響が届く範囲が広まるにつれ、それぞれの国家は統一を推し進め近代中央集権国家を打ち立て、国民に国家への帰属意識を持たせる近代国家へと変貌していく。近代中央集権国家への脱皮に成功した国はヨーロッパに多く、この波に乗り遅れた国々は列強からの脱落を余儀なくされた。
日本における全国統一
上記の流れは日本でも同様であるが、日本の場合の特異な点として古代からの王朝(天皇家)が一度も変わらないままそのまま継続していることが挙げられる。歴代の政権は朝廷の役職などに任じられ天皇の代理として政治を司ることが多く、統治体制はともかくとして日本は「国家」としてはずっと統一状態であるという見方もできる。
しかし、歴代の政権の統治方法については一つとして同じ物は無く、飛鳥時代の公地公民制、平安時代の公地荘園制、中世の封建制、江戸時代の幕藩体制、そして近代での中央集権など、時代によって大きく様変わりする。特に『全国統一』という言葉が最も多く用いられるであろう戦国時代においては名目上は『日本』という一つの国であってもその内実は独立した領主たちの争いの時代だった。
そして、もう一つ覚えておきたいのが日本における『全国』という言葉の定義である。現代においては全国とは日本列島(北海道・本州・四国・九州)およびそれに付随する島々のことを指すが、歴史上の『全国』という言葉はこれらの領域の一部が含まれない事も多い。逆に大日本帝国期では朝鮮半島や台湾など日本列島の外の領域も領有していた。そのため、一口に『全国』と言ってもその時代時代によって指し示す領域は異なる。
それを踏まえて以下では日本の各時代の統治体制を見ていく。
天皇中心の政治の始まりと終わり(古墳時代~平安時代)
弥生時代に各地に現れたクニはやがて大王(おおきみ、後の天皇)を中心とする豪族の連合であるヤマト王権による一応の統一を見た。しかし、この時のヤマト王権の勢力範囲は九州から関東程度までとみられ、以後、ヤマト王権は九州地方の熊襲や東北地方の蝦夷などに征服を繰り返してさらに拡張していく。
ヤマト王権はやがて日本と名乗るようになるが、有力な豪族はトップに立つ天皇をしのぐほどの力を得て、その存在を脅かすこともあった。これに対して天皇中心の政治を行おうとして様々な試みがなされた。聖徳太子の制定した十七条の憲法や冠位十二階などは有名である。また、有力豪族排除のために中大兄皇子により起こされたクーデターが乙巳の変であり、その後に行われた大化の改新で豪族の力をそぎ天皇の力を増すためにすべての土地と人民は天皇に属するとした公地公民制を敷いている。さらに律令制のもとで制度を整え、全国の支配体制を確立させた。
この時点での支配体制は中国の郡県制を参考にしており、本州四国九州と一部の離島に設置された66か国の律令国に対して中央から国司を派遣して統治にあたらせた。民には戸籍の記載にのっとって公地から口分田を貸し与え、その代わりに租庸調その他の税を取る仕組みだった。
しかし、奈良時代になると墾田永年私財法の執行に伴い、貴族や寺院などが私有地である荘園を広め、公地公民制は揺らいでいく。平安時代になってもさらにその流れは続き、荘園制と呼ばれる広大な私有地が存在する体制が確立され公地公民制は完全に破たんした。以降は中央の管理は行き届かず、地方の収税などはその地方に赴任した国司など大きな権限が与えられるようになり、緩やかな支配に移行する。
また、荘園制が確立すると各地では荘園を都の大貴族に寄進し、都に滞在するその貴族に代わって自らは荘園の管理者の役割を与えられるものが生まれる。これがのちの武士の原型となっていく。
荘園制が成立した時点で公地公民制による全国統一体制は崩れているが、天皇を頂点とした名目上の国家としての統一は変わっていない。
この時代には「一所懸命」という言葉も生まれ、個人の土地への執着がいかに強くなっていたかが分かる。
武士の時代(鎌倉時代~南北朝時代・室町時代)
各地で生まれた武士の中でも平氏と源氏が力をつけ、太政大臣平清盛の平家政権を経て、源頼朝の鎌倉幕府が成立する。征夷大将軍と言う権威を以って武士を統率する時代の始まりである。
鎌倉幕府では将軍と御家人はいわゆる「御恩と奉公」の関係によって結ばれ、御恩は主に土地の所有権を認めることによって成り立っていた。また、各地に存在する荘園ごとに地頭を、国ごとに守護を置き、武士の土地支配を強化していった。地頭は荘園の支配権を本来の持ち主である中央貴族から奪うこともあり、中央からの統制がますますきかなくなっていった。後鳥羽上皇による承久の乱に朝廷側が敗れると鎌倉幕府の力は西国にもおよび、逆に朝廷の力はより減衰し全国の実効支配権は武士へと移動した。
元寇などで疲弊した鎌倉幕府を倒して後醍醐天皇が建武の新政を始めると、統治体制は一時的に天皇中心の中央集権体制に戻るが、すでに大きな勢力となっていた武士の力を無視する事は出来ず、武士から大きな支持を受けた足利尊氏によって後醍醐天皇は廃され光明天皇(北朝)が立てられた。また、足利尊氏によって室町幕府も立てられ、武士政権も復活した。しかし、後醍醐天皇は奈良の吉野に移るとそこで南朝を立て北朝に対抗し、二人の天皇二つの朝廷が並立する南北朝の時代が訪れた。ある意味、日本が国家としても統一が崩れ分裂した時期である。南北朝の争いはその後半世紀以上も続くが、最終的には室町幕府第3代将軍足利義満によって終焉を迎え、朝廷は再統一された。
室町時代になると武士による各地の荘園の蚕食はますます進み、荘園公領制に大きなダメージを与えた。また、各地の守護に与えられた権限が強化され、守護大名へと成長した。これらの守護大名は室町幕府の要職も務め、室町幕府は実質守護大名の連合政権であった。
群雄割拠から天下統一へ(戦国時代~安土桃山時代)
歴史を語るうえで全国統一という言葉が最も多く登場するのがおそらくこの時代である。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑による全国統一の完成により、現在の日本の形がほぼ確定したといえる。
応仁の乱で室町幕府の力が衰え、中央からの統制が難しくなった地方ではより現地勢力が勢力を強めた。そして生まれたのが守護大名よりもより地方に根付き、強力な力を持つようになった戦国大名である。
名目上の天皇を頂点とする国の体制は存続しているものの、この当時の朝廷はもはやまともな儀式を行う経済基盤すら残っておらず、支配体制としての全国統一は完全に崩れている。
今川家や武田家などに代表される『分国法』も中央による支配から抜け出し、地方のことは地方で決めるという目的の法律であり、下剋上の風潮も相まって全国は多いに乱れていた
その中で全国統一に乗り出したのが知らない人はいないであろう織田信長であり、その政権末期にはいよいよ全国統一が近い事を思わせる内容の手紙などが残されている。
しかし、織田信長は全国統一を目前にして本能寺の変で倒れ、その統一事業は信長の家臣である豊臣秀吉が引き継ぐことになる。秀吉は関白に就任するなど失われていた朝廷の権威も復活させて利用し、最終的に関東の北条家を滅ぼすことで1590年に全国統一を成し遂げた。
秀吉の全国統一は各地の大名の上に軍事的経済的に上回り、朝廷の官位という権威も備えた秀吉が君臨する形で成立しており、大名は秀吉に臣従する形で存続した。中央政権による地方への影響力は奥州征伐などの軍事力や徳川家康の関東転封などの形で表された。しかし、秀吉の死後はこの体制が崩れ、豊臣家の内紛を経て、家臣の筆頭であった徳川家康が大きな力を握ることになる。
全国の領域の広がり
室町時代から津軽海峡の北海道側に本拠地を置いていた蠣崎氏が、秀吉によって本領安堵されている。
幕藩体制の成立(江戸時代)
1600年の関ヶ原の戦いで家康が勝利すると、1603年には征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開く。さらに1615年に大阪の陣で豊臣家を滅ぼすことによって徳川家による全国統一が成し遂げられた。江戸幕府の全国統一も秀吉の体制を踏襲しており、各地の大名の上に軍事力・経済力で上回る江戸幕府が君臨する形は継続した。江戸幕府と各地の大名は臣従関係を結び、この体制を幕藩体制と呼ぶ。
江戸幕府は大名・武士に対しては武家諸法度、公家・朝廷に対しては朝廷並公家諸法度を出し、全国の統制を強めた。また、大名の取りつぶしや転封などによって直接的な地方への影響力も確保している。
しかし一方で、この時代でもなお各地の大名たちは一定の自治権を保持し続けており、藩札と呼ばれる独自紙幣の発行、口止番所と称した関所の設置なども行われていた。
この体制は非常に安定しており、以降260年にわたり平和な時代が続くことになった。
全国の領域の広がり
北海道南部で蠣崎氏から名前を変えた松前氏が松前藩を設立した。しかし、北海道全体はいまだ蝦夷地と呼ばれ、日本に組み込まれたとは言えない。江戸時代後半になると間宮林蔵などによる探検も進められた。
また、沖縄の琉球王国を薩摩藩が支配下に置いたが、琉球王国としても存続させ中国などとの中継貿易が行われた。
近代国家日本(明治時代~現代)
ペリーの黒船来航から始まる幕末の争いを経て、日本は明治政府によって支配される体制へと移行した。さらに版籍奉還と廃藩置県によって各地の大名も消滅し、全国は一律的に中央政府に支配される体制となる。
以降、140年以上に渡り、太平洋戦争後のGHQによる体制を経つつ、一つの中央政府が日本全国を支配する体制は維持されている。
全国の領域の変遷
北海道が完全に日本の領土として組み込まれた。北海道の名前自体、律令制の五畿七道に新たに加えられた一道としてのものである。これ以降、全国は五畿八道となった。
また、沖縄も琉球藩を経て沖縄県として日本に正式に組み込まれ、琉球王国は解体された(琉球処分)。
大日本帝国期の戦争を経て海外領土を得たこともあるが、太平洋戦争の敗北に伴いすべて失った。また、太平洋戦争後には小笠原諸島や沖縄などがアメリカの統治下におかれたこともある(後に復帰)。
全国統一の恩恵
実効支配が可能な全国統一体制の最たる恩恵としては一元的な命令系統と、一律的な制度、体制の導入などが挙げられる。
特に、災害や戦争といった有事の際における全国統一体制の恩恵は非常に大きなものがあり、例えば一部の地域が地震などにより大きな打撃を受けても全国からの援助によって復興が容易になる。これは現代日本においても例外ではないと言われている。
現代では大地震などが起こると直ちに内閣によって対策室が設置され、国家規模で補給物資の輸送体制や自衛隊の派遣などが実施されるようになっている。また、江戸時代に起こった富士山の宝永大噴火の際には領地での噴火の被害があまりに大きく自力復興が不可能だと判断した小田原藩が幕府に領地を返上し、幕府側は幕府直轄領となった地域を全国の藩から復興資金を徴収して復興にあたったという例もある。
戦争においても国の力のすべてを一方向に向けることができ、実際に全国統一後に行われた豊臣秀吉の朝鮮出兵などでは尋常ではない数の兵士が海を渡っている。明治・昭和に行われた対外戦争でも全国統一体制であったからこそあれだけの戦力を抽出できたといえる。
また、経済的な恩恵も大きい。
豊臣秀吉の全国統一の際には全国に豊臣家直轄の太閤蔵入地が設定され、交通の要所や商業の中心地を押さえたほか、全国の特産物などを収集する拠点となった。ここで集められた富は豊臣政権の経済の基盤を支えた。
江戸時代でも同様の幕府直轄の天領が置かれたが、それ以上に東廻海運や西廻海運と言った海路や、五街道などの陸路による流通網の整備により経済の発展が起こった。また、江戸時代には幕府が全国の主要な金山銀山を管理するようになったおかげで全国で通用する貨幣の流通が出来るようになったのも経済発展に拍車をかけ、各地の藩も大阪に蔵屋敷を置き、各地の特産物を運びこんで売買する事で収入を得た。
これらの事は実効支配可能な全国統一体制により可能となった事である。
明治時代になると版籍奉還と廃藩置県により全国の税収が明治政府に一括して納められるようになり、予算は拡大してより効率的な国家運営が可能となった。
全国統一の弊害
全国統一は中央政府が大きな力を持つ中央集権よりの政体になるのとほぼ同義であり、地方の権限は抑制される。こうなると本来ならば地方の力だけでやれていた事業さえ中央政府の顔色を窺いながらでしかできなくなる。
また、同様に一度中央政府を通さなくてはならない事で隣り合った地方ごとの連携の欠如や、実情への対処の遅れなどが発生しやすくなる。
近年では地方分権、地方自治の強化、道州制の議論などによる、従来の「緩やかな支配体制」の再評価なども行われている。
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