八王の乱とは、中華を平定し三国時代を終結に導いた晋王朝(西晋)が崩壊するきっかけとなった内乱である。
簡単な概要
290年、三国時代を統一した皇帝司馬炎(武帝)が崩御し、跡を長男の司馬衷(恵帝)が継ぐ。継いだ時点で衷は32歳と幼くはなく、本来ならば政治家として脂が乗ってくるような年齢だったのだが、衷は意志薄弱で暗愚な人物であり、権臣や妻賈南風らに政務の実権を奪われていき、皇帝の権威は失墜していった。
そんな中で宮中闘争は公然と司馬一門の諸王の中から簒奪を企てるものすら現れ、武力でもって気に入らぬ人物を捕えて粛清を行うという泥沼の状況へと突入していき、晋の統治能力の低下は領内に移住していた南匈奴や氐など異民族の独立を続々と招く「永嘉の乱」を併発するという負の連鎖を生み出し、中華の統一はごく短期間で崩壊し収拾不能な戦乱の時代、五胡十六国時代が到来した。
八王の乱そのものは司馬衷の崩御と司馬熾(懐帝)の即位によって一応は終結したと区切りが付けられているが、この乱がきっかけとなった異民族勢力の猛威を晋王朝に治める力は残されておらず、大きな歴史のターニングポイントとなった。
八王の紹介
※個別の経歴は各人物名ページを参照ください
司馬防 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
司馬朗 | 司馬懿 | 司馬孚 | 司馬馗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
司馬師 | 司馬昭 | 司馬亮 | 司馬倫3 | 司馬瓌 | 司馬泰 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
司馬炎1 | 司馬攸 | 司馬顒 | 司馬越 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
司馬衷2 | 司馬瑋 | 司馬乂 | 司馬穎 | 司馬熾4 | 司馬冏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
司馬遹 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
司馬臧 |
八王の乱とは言うが、この乱は文字通り8人の王が同時に覇を競い合った…という訳でもなく事情が大変覚えにくい。
乱暴ではあるが、「8人の王で悪目立ちしてしまった者から順番に脱落していく乱」だったと認識すれば多少はわかりやすいかと思う。
詳細
※ここからは事に至った仔細も書くが、司馬という姓がウンザリするほど頻出し、覚える気力を萎えさせるので司馬姓の人物は姓を省略して記載する。また、八王の登場人物のみ専用色を付けて区別する。
第一の王、亮(リョウ)
290年に武帝炎が崩御した際に、炎は後事を「楊駿(炎の皇后楊芷の父)と汝南王亮の二人に任せる」という遺詔を書いたが、楊駿はこれを持ち去って隠し、「後事を楊駿一人に任せる」という偽命を発して恵帝衷が即位すると朝事を掌握した。
しかしながら、楊駿は皇族の外戚であるという事以外ろくな功もなく、人望に乏しい上に無能であり、自身の立場を脅かす存在であった声望ある皇族の長老格の亮の存在を危惧して中央から遠ざけ、更に機会あらば抹殺しようと策を練っていた。
一方で、宮中では楊一族の専横を憎んだ賈南風が動き、亮に楊一族抹殺の企みを持ち掛けたがこれを断られたため、次に楚王瑋に持ちかけると喜んでこれを承諾。291年の3月夜半に東安公繇と瑋の軍勢は宮中に雪崩込んで楊一族や(とばっちりで)文鴦などを捕えて抹殺した。
この宮中クーデターの後、恵帝衷は亮と衛瓘に朝事を任せることとし、両名が国家の方針を左右する立場となった。しかし、亮は数千人規模で爵位を濫発して諸侯の懐柔を広く図ったが、「これでは楊駿と大して変わらない」と諸侯を失望させた。
第二の王、瑋(イ)
楊駿排除に功のあった楚王瑋もまた、衛将軍・侍中へと累進したのだが、粗暴であった瑋は亮と衛瓘に危険視されており、兵権の剥奪や領国への帰藩をさせようとしたが、賈南風がこれらの企みを妨害し、瑋を中央に留まらせた。こうした事があったので、瑋は亮と衛瓘を憎むようになっていった。
一方で賈南風もまた亮と衛瓘が朝事を裁断していることが不満であり、利害の一致した賈南風と瑋は亮と衛瓘の排除を目論む。賈南風は恵帝衷に「亮と衛瓘が謀反を企てている」と讒言して詔を発行させ、この詔を元に瑋は亮と衛瓘を逮捕し、両名を即日処刑した。
しかし、一日明けると今度は瑋が危険分子になったと感じた賈南風は張華と謀って先の詔を偽造であるという事にして、瑋の逮捕を諸将に命令した。一夜にして亮と衛瓘殺しの全責任をなすり付けられ、独断で凶事を働いた事にされた瑋は詔が間違いなく恵帝衷の直筆であると泣きながら冤罪を訴えたが、ろくに申し開きの機会もなく刑場の露と消えた。
これにより、賈一族の近親者が要職に入って権勢を欲しいままとする時代が到来したのだが、張華や裴頠ら優秀な官僚も重用して取り立てたので、ひとまず混乱は治まる事となる。
第三の王、倫(リン)
しかし、この束の間の安寧を破壊したのもまた賈南風であった。恵帝衷と賈南風の間には4人子が出来たが、いずれも女子であり、皇太子には別の女との子である遹が立太子されていたが、賈南風はこれと折り合いが悪かった。
いずれ恵帝衷が崩御すれば賈一族が今の立場を失うと考えた賈南風はなりふり構わず皇太子遹の排除を図り、泥酔させた遹に恵帝衷と賈南風の排除を企んでいる内容の書状を書かせ、これを恵帝衷に見せて遹を庶人へと落とさせ、後日暗殺したが、この雑な計画は宮中で賈南風を良く思わないものに格好の排除の口実を与える事になった。
賈南風に取り入って宮中に入り込んでいた趙王倫は斉王冏らと語らってクーデターを敢行し、恵帝衷の勅令と偽って宮中へと軍勢を率いて押し入り、賈一門はもちろんのこと倫を軽んじていた張華らも三族滅に処して宮中を掌握した。しかし、倫は学問の名家に生まれたにもかかわらず学問を軽んじ、成人しても文盲だったという無能であり、諸事は側近の孫秀に聞かねばほとんど何も出来ぬという有様で、これに頼り切りであった。
倫はやがて簒奪を考えるようになり、もはや実権が無に等しくなった恵帝衷は圧力に屈し、九錫を倫に与えて上皇へと追いやられ、皇太孫臧(遹の子)は殺された。皇帝となった倫は諸侯の懐柔のために爵位を濫発したが、自分の即位を援助した者であれば芸人や百姓、果ては奴隷ですらにも与えるなど尋常ではないバラマキを行って国庫を傾け、中央の人事は混乱し、倫から爵位を受けるのは恥であると言われるまでになった。
一方、明確な簒奪者となった倫を討つべく動き出そうという者たちも居た。諸王の中でも強大な軍権を持っていた斉王冏は成都王穎、河間王顒らに呼びかけて共に倫を打倒するよう呼びかける檄文を書いた。倫が皇帝の器に非ずと思っていた諸侯は続々と討伐軍に合流し、20万を超える大軍となり洛陽へと向かった。
倫の軍勢は迎撃に出て緒戦こそ善戦したが、伝令の不備や指揮系統の混乱などから劣勢になっていき、やがて朝廷の内部から倫を捕えてしまおうという動きが出て、倫や孫秀はあっけなく捕縛された。捕縛された倫は死を賜り、「孫秀が我を誤らせたのだ!」と慟哭しながら金屑酒(毒酒)をあおって死んだ。死後、倫の皇帝への即位は僭称であったとして無かったことにされ、皇位には恵帝衷が復位し、大盤振る舞いされた爵位はほとんど免官となり、中央は空位が大量に発生して官僚システムが崩壊した。また、この洛陽を巡る諸王の抗争で10万人が亡くなったという。
第四の王、冏(ケイ)
こうして今度は冏が朝事を裁断する立場となったのだが、冏は豪邸を建てて豪奢な暮らしを満喫するなど地位に思い上がり、更に入朝すらせず自分の邸宅に官僚を呼び出して政務を行い、皇帝に全く了承を仰ぐこともなく人事を自在に行うなど傲慢極まる振る舞いが目立つようになった。また、恵帝衷の孫たちが死に絶えて直系が途切れたので自身に都合の良い子供を立太子し、その後見人に自身はなった。
冏は河間王顒と折り合いが悪くなっていたが、この事に気付いた顒の側近は身の危険を感じて長安へと逃げ、冏を討つべきであると讒言した。顒の策は「長沙王乂に挙兵を促し、地盤の弱い乂が冏の討伐にしくじった後にそれを口実に洛陽を攻め、成都王穎を立太弟する」というものであった。
冏討伐の謀有りと顒から持ち掛けられた乂は「望む所であった!」と言わんばかりにすぐさま100人余りで挙兵して宮中に殴り込み、3日に及ぶ攻防の末に首尾よく冏を捕え、処刑した。
第五の王、乂(ガイ)
一躍、皇帝に近侍する立場となった乂ではあったが瑋の同母弟であった事が災いしてか政治地盤は弱く、野心を見せずに恵帝衷へと忠誠を誓い、その次期皇帝には皇太弟となる成都王穎を宛てようと予定していた。
しかし、思惑を外された顒と権力を我が物としたい穎、両名からしても恵帝衷に近侍して睨みを利かせる乂は邪魔者であり、彼らは結託して乂の排斥へと動き始める。顒と穎は乂を弾劾する文書を恵帝衷へ送り、討伐の承認を求めたが、恵帝衷は顒の私欲による行動であると断じ、逆に顒の討伐を乂に命令し自身も出馬すると宣言した。
しかしながら残った王の中でも2大勢力と言っても過言ではない顒と穎の連合軍は20万にも及ぶ大軍で洛陽へと攻め上がり、これを包囲。万事休すかと思われた乂であったが、土俵際から驚異的な粘り腰を発揮し、陸機(陸遜の孫)や張方らを大破して、包囲軍に大打撃を与えた。
洛陽内は食料や水が欠乏して危機的な状況であったが、乂は軍をよく兵を統率して維持し、包囲軍の被害は甚大で6万~7万にも及んだが、乂の協力者であった東海王越は兵糧の欠乏具合を加味して最終的には乂に勝ち目はないと判断し、密かに刺客を放って乂を捕縛して降伏を選んだ。
しかし、開城してから城外の包囲軍の戦意の低さを見知った官軍は「乂の身柄を奪還して再度戦えば勝てるのではないか?」と考え始め、不穏な気配を察した越はこれ以上の交戦を断念させるために急ぎ乂を生きたまま焼き殺した。
第六の王、穎(エイ)
こうして次は穎が皇太弟、丞相へと累進しして宮中では穎と折り合いが悪いものは処刑されるかあるいは左遷されたが、自前の武力を維持したい穎は洛陽には留まらず鄴に拠点を置いた。しかし、穎は日増しに増長して既に自らが皇帝であるかのように振る舞い、豪奢な生活を送ったためにすぐに人心を失っていった。また、穎も文盲であり、実務は家臣に丸投げしていたという。
穎の振る舞いに呆れた東海王越は早くも穎の排除を謀って宮中で密談を重ね、恵帝衷自らが出馬しての穎討伐軍を組織した。10万人規模の討伐軍に穎は怯え、逃亡しようとしたが占い師が「動くことなかれ」という宣託を与えたので一転して交戦を選び、配下の石超に5万の兵で官軍を蕩陰の地にて迎え撃たせ、「穎は既に人心を失っている」という報告を受けて油断していた官軍は恵帝衷を生け捕りにされるなど目を覆いたくなるような大敗を喫してしまい、越は任国へ慌てて逃亡した。
穎は恵帝衷を鄴へと留まらせ、改元を独断で行うなど国事を思うままにし始めたが、これまでの戦乱で一切動くこともなく不気味な沈黙を保っていた幽州の王浚を畏れていた。穎は王浚の暗殺を目論見たがこれに失敗し、逆に王浚は越と結んで兵を出して幽州全域と冀州にまでその勢力は伸長した。王浚との対立が決定的になってきた穎は焦り、軍事力増強のために南匈奴の王子劉淵を取り立てて、五部に分割させられていた南匈奴の兵力を結集させる事に承認を与えてしまった。
やがて王浚の軍勢は穎の駐屯する鄴へと向けて進撃を開始。穎はこれを迎え撃とうとしたが、北方異民族と同盟していた王浚の兵の強烈な騎馬突撃に散々に打ち破られて敗北して鄴は陥落。穎は命からがら恵帝衷を伴って洛陽へと逃げたが、この時点で失脚した。
また、劉淵は王浚との決戦に参陣しないばかりか離石の町で「漢王」と名乗り、漢(後の前趙)の建国を高らかに宣言し、晋王朝からの独立を図るという事態にまで至る。更には中央での政争にかまける内に、封国の本拠である成都までも氐族の李雄によって陥落させられ、こちらも後に大成(後の成漢)の建国を宣言して晋王朝の中華統一は完全に崩壊してしまった。
第七の王、顒(ギョウ)
しかし、このような深刻な事態が起きているにも関わらず、晋王朝は一致団結して事に当たれない政治情勢に置かれていた。
続いて朝廷の実権を掌握した顒は越や王浚の勢力が迫る洛陽から長安への遷都を決定し、恵帝衷(ついでに穎も)の身柄も長安へと移させた。また次期皇帝には穎を廃位して熾(炎の末子)の立太弟を決定した。顒は越との対立を早く解消しようと、要職を与えて長安へと呼ぼうとしたが、越はこれを受けず対立は長引いた。また、穎を長安で軟禁状態に置いていたが、穎の旧将公師藩が穎の復権を求めて挙兵して数万の勢力になったので、やむなく穎を復権させて鄴へと戻す他無かった。
越は王浚と結んで顒討伐の兵を挙げ、顒は穎と協力してこれと戦おうとしたのだが連戦連敗し、窮地に追い込まれる。顒は敵わぬと見て越と和議を結ぼうと考えたが、張方という家臣が強く反対していてこれを煙たく思ったので殺してしまう。顒は張方の首でもって和議を結ぼうとしたが、敵方の軍事の中核であった張方の死を知った越陣営はかえって攻勢を激しくし、最終的に顒は長安すら追われて敗亡し、再び洛陽へと遷都が行われ恵帝衷もそこに戻された。
ほどなくして穎と顒の両名は殺害され、八王の乱は東海王越の勝利で幕を下ろしたのだが、内乱に気を取られる内に漢の勢力は日増しに強くなっており、難題は山積したままであった。
第八の王、越(エツ)
307年、恵帝衷が崩御して懐帝熾が即位。越は朝事を輔弼する立場へと累進したのだが、懐帝熾は政治への参画に意欲的であり、思い通りに出来ぬ事に不満を持つ越との対立が徐々に深まっていく。
思い通りに行かぬ越は洛陽を出て許昌に兵力を持って駐屯し、兄弟に強大な軍権を持たせて各地に配備するが、中原には劉淵・王弥・汲桑らが割拠していてこれらの勢力から洛陽を守るのが精一杯であった。
漢の勢力は王弥や石勒ら有能な将を迎えて更に強大化していき、越はかろうじて洛陽に攻めて来る敵を退けてはいたが、中原における晋の支配域はどんどん削られていき、洛陽では食糧が欠乏するようになってきたので諸将に協力を求めたが、ほとんど応じるものは居なかった。
焦りを感じた越は漢の石勒を討つべく討伐軍を組織し、4万の兵力を抽出して多くの官僚も許昌へと置いたが、懐帝熾のいる洛陽では護衛の兵が不足し、宮中ですら堂々と殺人が起きるなど治安が維持できなくなった。越に怒った懐帝熾は越と敵対していた苟晞へと越討伐の勅令を出したが、この計画は露呈して越は先手を打って軍勢を送ったものの、これを苟晞に散々に打ち破られ、石勒討伐の為の兵力に戦う前から被害を出してしまい、ほどなくして越は病を得て憤死した。
状況が状況であっただけにしばらく越の死は極秘とされたが、この機を漢は見逃してはくれず、311年に漢の総攻撃によって洛陽は陥落し、懐帝熾は捕虜として平陽へ連行された上に洛陽に居た司馬一族は軒並み抹殺され、晋王朝の華北における支配力は死んだも同然の状況へと追い込まれる。
年表
年 | 月 | 備考 |
280年 | 3月 | 晋王朝(西晋)の初代皇帝炎(武帝)が呉を滅ぼし、 およそ100年ぶりに中華を統一する(三国時代の終焉)。 |
290年 | 5月 | 武帝炎、崩御。嫡子の衷(恵帝)が後を継ぐ。 |
291年 |
3月 | 宮中クーデター、楊駿が楚王瑋らに討たれる。 |
6月 |
宮中クーデター(3か月ぶり2度目) 汝南王亮・衛瓘らが瑋に討たれる。 翌日に瑋も逮捕・処刑される。 |
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294年 | ?月 | 趙王倫の領地、関中で異民族の反乱が発生。 |
296年 | 5月 | 倫、乱を鎮圧できず関中守備より解任。中央入りする。 |
299年 | 12月 | 皇太子遹、賈南風の策により廃太子される。 |
300年 | 3月 | 元皇太子の庶人遹、賈南風に暗殺される。 |
4月 | 宮中クーデター(8年10ヶ月ぶり3度目) 倫・斉王冏らが賈南風一族を粛清。 倫が朝政を内覧する立場となる。 |
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8月 | 宮中クーデター(未遂) 淮南王允、倫の抹殺を謀るが失敗に終わり、殺される。 |
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301年 |
1月 |
倫が帝位を簒奪。皇帝に即位する。 皇太孫臧が暗殺され、衷は上皇位に退く。 これに反対する冏・成都王穎・河間王顒が挙兵。 |
4月 |
宮中クーデター(1年ぶり4度目) 倫の不利を察した百官が倫を逮捕・のち処刑される。 惠帝衷が皇帝に復位し、冏が朝政を内覧する立場になる。 |
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302年 | 12月 | 宮中クーデター(1年8ヶ月ぶり5度目) 長沙王乂が冏を処刑。朝政を内覧する立場になる。 |
303年 | 8月 | 穎・顒、乂討伐軍を編成して朝廷に承認を求める。 惠帝衷、逆に乂に穎と顒の討伐を命じる。 |
304年 | 1月 | 宮中クーデター(1年1ヶ月ぶり6度目) 東海王越、乂を捕縛して穎・顒に降伏。乂は処刑される。 穎が皇太弟・丞相となって朝政を内覧する立場に。 |
7月 | 越、惠帝衷と共に穎討伐軍を結成。 穎討伐軍は蕩陰の戦いで惨敗し、惠帝衷は捕虜になる。 |
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8月 | 越、王浚と同盟して再度穎と戦闘。 穎は大敗して鄴を失陥し、顒の本拠長安へと落ち延びる。 惠帝衷の身柄も長安へと移る。 |
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10月 | 劉淵、西晋からの自立を宣言し漢(後の前趙)の建国を宣言。 李雄も自立を宣言し大成(後の成漢)の建国を宣言。 西晋の中華統一が崩れる。 |
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12月 | 顒、穎を皇太弟廃位。 代わって熾(炎の二十五男)を立太弟する。 更に顒は長安への遷都を宣言するが越は受け入れず。 |
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305年 | 7月 | 越、王浚らとともに顒討伐軍を編成して戦闘を開始。 顒は穎を大将軍に任命して鄴に帰らせる。 |
越、洛陽を奪還する。 穎は西へと撤退を開始する。 |
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306年 | 王浚配下の祁弘が顒の本拠長安を攻略。 顒は山中に身を隠す。 |
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顒が越の置いた代官を殺して長安を回復する。 しかし、顒配下の将は全て越に降伏する。 |
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10月 | 捕縛されていた穎、刺客により絞殺される。 | |
惠帝衷が崩御。 皇太弟熾が後を継いで即位する(懐帝)。 |
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短い期間の間に結構な頻度で宮中クーデターと戦争が繰り返されているのがお分かり頂けるだろうか。国が疲弊し、亡ぶのもさもありなん。
どうしてこうなったか
要因に関して簡潔にまとめる事は難しいが、原因になったであろう西晋時代の問題点はいくらか挙げられるので一部を紹介する。
まず、司馬炎は皇族に強い軍権を持たせることを嫌った結果、有力な家臣であった司馬懿に簒奪を許した曹魏の反省から、皇族を広く各地に封王したが、これは意志薄弱な司馬衷が皇帝となり、後継者も不在となっ後に、嫡流に近い者ならば公然と簒奪を狙えるという混沌とした状況を生み出し、完全に裏目に出た。
また、この時代を批判した標語で「上品に寒門無く、下品に勢族なし」とされたように、能力ではなくほぼほぼ生まれた家の格で地位が決まるようになり、有能な人材を地方より推挙するという九品官人法の理念が完全に根腐れを起こしてしまっていた。そんな中、中央に取り立てられる事は絶望的な寒門出身者は地方各地の王となった司馬一族に仕えたが、この内乱で仕えている王が躍進すれば、本来決して手の届かぬ高位まで出世する事が可能であり、八王の乱後期になると王の側近たちは諌めるどころか進んで内乱の拡大を煽る有様となった。
次に三国時代に異民族の華北への流入もあった。特に南匈奴は後漢時代からオルドス(現在でいう内モンゴル自治区)の辺りに居住を許されていたが、三国時代に曹操は南匈奴を五部に解体した上で、慎重に并州や冀州に住むことを許した。この政策は晋の時代も維持されたが、居住区はもはや洛陽にほど近い地域にまで南下しており、危機感を持った者から「異民族を元々の居住区へと移し、防備を強化すべき」という上表もあったのだが、実行に移されることはなかった。
と、言うのも晋の時代には匈奴の人口は既に100万人を超え、烏桓や鮮卑も北部に移住し始めており、更に蜀の旧領にも羌や氐の移住が進み、もはや武力によって追い立てて癒着を解決できる段階はとうに過ぎていたのである。4世紀になると寒冷化によって北での生活が難しくなった異民族が更に南下を進めてむしろ人口はより増加し、加えてこのタイミングで内乱に明け暮れていた晋の諸王は軍事動員の為に異民族に集合・武装の機会を中華の内部で与えてしまい、疲弊した晋は有力な指導者を頂いた異民族国家によってあえなく華北の各地を失陥していく事となった。
題材にした作品
…だったのだがThe Creative Assembly社制作のリアルタイムストラテジーである「Total War: Three Kingdoms」の新DLCである「Eight Princes」が2019年8月に実装された。これによって、初めてこの事件までをクローズアップした三国志のゲーム作品となった。
ちなみに難易度は
…となっている。割と謎だが概ね退場が早かった王の難易度は高めの傾向にあるようだ。
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