公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族、官人のことを指す言葉でおじゃる。
公家を「こうか」とか「こうけ」と読めば「朝廷」や「天皇」を指す言葉になるでおじゃるが、「くげ」も元々「朝廷」「天皇」を指す言葉でおじゃった。大元は「おほやけ」という言葉でおじゃり、漢語を用いて「公家」と申すようになったのでおじゃるが、のちに転じて「帝の家来として仕えた家」や「その家の者」を指すようになったのでおじゃる。
以下に帝の家来たるやんごとなき公家の概要を特別に申してつかわす。心して聞くが良いぞ。
概要
公家、という雅やかな呼称は高貴なる貴族の家系に対して使われるのじゃ。即ち、帝や朝廷に神事や事務・雑事・学問その他をもって仕えるのが公家でおじゃって、幕府や将軍に仕え賎業を生業とする武家とは違うのでおじゃるぞ。
さらに、御所の殿上に昇殿することが許され高官となることが出来る公家を「堂上家」、昇殿することが許されず下級官人にしかなれぬ公家を「地下家」と申すのじゃが、一般には「堂上家」を公家とすることが多いでおじゃる。
藤原北家の台頭が顕著になったころから公家の概念が徐々に生まれ始める。家制度の源流もこのあたりでおじゃろう。藤原北家は摂家を確立し、平安時代末期頃から公卿(朝廷の高官)となることが出来る家柄が固定されつつあったのじゃ。現に幕末に堂上家であった家の半分以上は藤原北家を源とする家柄の出身でおじゃる。おまけに平安時代末期は武家が台頭してきた。貴族は武家に押され始め鎌倉幕府が成立したのは知っての通りでおじゃろう。
ここに朝廷や帝の家来たる公家と幕府や将軍の家来たる武家という、相反する概念が生まれたのでおじゃる。我ら雅なる公家は武骨なる武家に圧迫され、やがて公家の権限は有名無実化していったでおじゃる。公家は多くが山城国(現京都府)に居住しておじゃったが、中には北畠氏や伊予西園寺氏、土佐一条氏のように、地方に出向いては算盤勘定のおぼつかぬ武家の家政を取り仕切ったり、果ては武家の如き勢力を掌握して戦国大名となる公家もおったのでおじゃる。それでも荒夷たる武士とやんごとなき公家とは全く違うということを、いとおかしげなる麻呂の眉毛にかけて、どうか解っておいてたもれ! 麻呂との約束でおじゃるよ!
さて、しばらくは武士による世が続いてきたのでおじゃるが、明治の維新を経て再び皇家が権勢を取り戻し新たな朝廷の世となった。維新に貢献した公家も三条実美や岩倉具視を始め少なくないでおじゃる。京から東京へと奠都することになり公家は華族となったでおじゃる。名門の摂関家や清華家は伯爵や侯爵、家格の低い家であっても最低で子爵。明治維新後に分家した公家は男爵となって、公家はよく取り立てられたのでおじゃる。
家ごとに家道、すなわち代々伝えられてきた技能・芸能がおじゃった公家はそれぞれの家道の歌道や蹴鞠、書道や学問などなどを持って日本文化の発展にも尽くしてきたのじゃ。また、公家が使う公家言葉(御所言葉)は所謂京言葉に影響を与えたり、家紋を初めて使ったのは公家とされておじゃったり、その他公家が日本文化に与えた影響も甚だ大きいでおじゃる。これも良く知っておくが良いぞ。
公家顔・麻呂
公家は独特な装束、化粧、引眉をしておった。俗に眉毛が薄く、眉頭だけに眉毛が残った状態を麻呂眉というでおじゃる。これは公家の引眉に由来するものでおじゃる。「麻呂(麿)」は公家によく用いられていた一人称でおじゃる。詳しくは「麻呂」の項目を見ると良いぞ。
またやんごとなき顔形をしている者を俗に公家顔というでおじゃる。代表的な者はNHKアナウンサーの登坂淳一アナウンサーでおじゃるな。公家顔の者を「麻呂」という渾名で呼ぶことも多いでおじゃる。
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