公暁(1200~1219)とは、源頼家の息子で、鎌倉時代の僧侶である。
概要
源頼家の息子の一人で、叔父・源実朝らを暗殺したことで極めて有名な人物。なお、従来は「くぎょう」と称されてきたが、近年では園城寺が漢音で読む慣例があったことから、「こうぎょう」、あるいは「こうきょう」とされている(ルビが残っているわけではないので、厳密には不明)。
鎌倉殿になるはずだった存在
源頼朝死後の正治2年(1200年)に生まれた。幼名は善哉。なお、母親は、『吾妻鏡』によると、源為朝の孫・賀茂重長の娘で、源頼家の正室「辻殿」とされている。『尊卑文脈』では賀茂重長は満政流清和源氏の出身で、賀茂重長の祖父・浦野重遠は源義家の娘婿となり、孫の代の賀茂重長が源為朝の娘を妻としていた、ということらしい(ただし、『尊卑文脈』は賀茂重長の娘が生んだ源頼家の息子を、禅暁と混同している)。
なお、この賀茂重長、その兄・泉重光らは、源頼朝の弟・義円らとともに墨俣の戦いで討ち死にした存在である。なので、美濃源氏の足助一族の生き残りと、源頼朝の利害関係が一致し、嫡子である源頼家の正室に選ばれた、と考えられている。というわけで、本来源頼朝がさっさと死ななければ、比企氏出身の若狭局より格上の辻殿から生まれた彼が、三代目鎌倉殿に選ばれた可能性が高いことが指摘されている。
しかし、源頼朝はあっさり亡くなり、比企能員の乱で比企氏、および兄の一幡が殺され、その後父・源頼家の殺された結果、元久2年(1205年)12月2日に鶴岡八幡宮二代別当・尊暁の弟子とされた。さらに建永元年(1206年)10月20日には源実朝の猶子とされ、祖母・北条政子の計らいで父を失った存在ではあったものの、鎌倉殿の係累として熱く後援されていたのであった。
そして、建暦元年(1211年)9月22日、鶴岡八幡宮三代別当・定暁に伴われて上洛。園城寺の公胤の弟子となり、頼暁からここで公暁と名前を改めたのである。
しかし、建保4年(1216年)に公胤が、翌建保5年(1217年)には定暁がなくなり、北条政子は定暁の後継者として、公暁を呼び寄せた。ところが、公暁は四代別当になったものの、とある「宿願」のため参籠を始めてしまい、仕事をすることはなかった。
そして、子供のいない源実朝の後継者として後鳥羽院の親王を迎える計画が着々と進んでいる中、建保7年(1219年)1月27日、源実朝を鶴岡八幡宮で殺害。乳母父の三浦義村を頼ったが、北条義時の命を受けた三浦義村に殺された。
なお、ここで古くから様々な陰謀論が言われてきたが、北条義時らにとって源実朝が殺されるのはデメリットしかなく、作家・永井路子が提唱したことで人口に膾炙しすぎてしまった三浦義村黒幕説も決め手に欠ける。なので、最近では、本来は鎌倉殿になれるはずだったのが、遠ざけられてしまった、彼本人の暴走だったのではないか、というのが主な見解とされている。
関連項目
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