内村鑑三(うちむら・かんぞう 1861~1930)とは、明治~昭和時代のキリスト教の布教家・思想家・神学者である。
福音主義信仰に基づき、教会よりも聖書を重視した無教会主義を唱えた。出身地である群馬県では、上毛かるたで「心の灯台」と呼ばれ親しまれている。
概要
上野国高崎藩の武士・内村宜之の長男として生まれる。生まれたのは江戸であったが、5歳の時に父が左遷されたため高崎へ移り、この地で明治維新や廃藩置県を迎える。13歳の時に内村は上京して、東京外国語学校に入学。ここで彼は、新渡戸稲造(旧五千円札で知られる教育者)・佐藤昌介(北海道大学初代総長)・宮部金吾(植物学者)らと出会い、生涯の友人となる。新渡戸稲造の伝記に内村は必ずと言ってもいいほど登場するのは、このためである。
1877年、内村は同期の新渡戸・宮部と共に札幌農学校(現・北海道大学)へ進学、同学校の二期生となる(先述の佐藤は一期生)。「少年よ大志を抱け」の名言で知られる札幌農学校の教頭・クラーク博士は、内村らと入れ替わりに帰国したため直接会うことは無かったが、クラーク博士の影響を受けて札幌農学校はキリスト教の教育に力を入れていた。厳格な武士の家で育った内村は、当初キリスト教を嫌っていたが、一期生の先輩である大島正健の勧めを受けて、翌年洗礼を受ける。内村・新渡戸・宮部・佐藤・大島ら、当時の札幌農学校の生徒達で結成された札幌バンドは、熊本バンド・横浜バンドと共に日本におけるプロテスタントの三大源流となり、カトリックが中心であった日本のキリスト教に新風を巻き起こした。
札幌農学校の卒業後、アメリカに留学した内村は、日本のプロテスタント布教の第一人者だった新島襄と出会う。内村は、かつて新島が単身アメリカに留学(実際には密航だったが)した時に世話をしてくれたジュリアス・シーリーに教えを請い、伝道者としての道を歩むこととなる。アメリカ留学中も、帰国後も内村は神学を勉強したが、彼は次第に当時のキリスト教教育に疑問を抱くようになり、これが彼の人生を大きく変えることとなる。
1888年、内村は新島の仲介で新潟県北越学館の仮教頭となる。しかし、平民主義を唱えて学校の独立性を主張する内村は、学校の方針に反対して同学校の成瀬仁蔵や宣教師たちと激しく対立。案じた新島は、弟子の横井時雄(横井小楠の子、山本覚馬の娘婿)を派遣して和解させようとしたが、内村と大学の溝は埋まらず、内村は赴任してからわずか4ヶ月で学校を去った(北越学館事件)。
その後学校を転々とした内村は、1890年に第一高等中学校の委託教師となったが、ここで彼は大事件に巻き込まれることとなる。翌年の教育勅語奉読式で、本来ならば明治天皇の親筆に最敬礼しなければならなかったのだが、内村は軽く会釈するに止まった。近年問題になっている、日教組の君が代・日の丸を確信犯的に侮蔑する言動と異なり、内村の場合は別に明治天皇を軽んじる考えは微塵も無かった。しかし、彼の行動を同僚の教師や生徒は激しく非難し、口コミでじわじわと拡散した。現在と異なり当時は極右だったマスコミは、内村を不敬罪・非国民と一斉に名指しで批判し、激しく誹謗中傷し、結果彼は学校を追われる身となってしまう(内村鑑三不敬事件)。
この前年には、これまでなにかと内村を支えてくれていた新島が他界しており、事件の直後には妻を病で亡くした内村は憔悴しきっていた。そんな彼を支えたのが、新島の教え子であった熊本バンドの徳富蘇峰や先述の横井時雄らであった。当時国家主義が世論を支配していたため、世間からの風当たりも厳しかった内村だったが、田中正造の足尾鉱毒事件に協力するなど、社会運動に身を投じることとなる。また、日露戦争では世論が圧倒的にロシアとの戦いを主張する中非戦論を説き、一時期は幸徳秋水らの社会主義運動にも携わるが、後に訣別している。
キリスト教の伝道者ではあるが、キリスト教の既存の権力構造に対して常に反発していた内村は、無教会主義を唱えた。元々内村にとってキリスト教の原点である札幌バンドは、宗教改革でカトリックと教会の腐敗を糾弾したマルティン・ルターによるルター派の流れをくんだメソジストであり、内村の無教会主義はある意味、日本版宗教改革と言えるものである(後に、新渡戸稲造が所属したクエーカー派もこれに近い)。
その後も、内村は独自の路線で日本のキリスト教を大いに牽引し、1930年に70歳で亡くなる直前まで精力的に活動を続けた。世間の荒波にもまれながらも、持ち前の反骨心で戦い続け、キリスト教教育に尽力を注いだ彼の精神は、今なお多くのキリスト教信者に受け継がれている。
その生涯を見ても分かる通り、内村は対立する敵が多かったが、その一方で人脈もかなり広かった。徳富蘇峰と共に日本最初のジャーナリストであり、名作「レ・ミゼラブル」を邦題「ああ無情」で新聞に連載したことでも知られる黒岩涙香は、内村を新聞社の仕事に加えて共に社会運動で活動し、作家の有島武郎は内村のキリスト教の弟子であった。また晩年は、アフリカで医療活動を行い密林の聖者と呼ばれた神学者、アルベルト・シュバイツァーの社会事業を支援している。
著書「代表的日本人」と「余は如何にして基督教信徒とないし乎」はもともと英文で書かれたもので海外でも評価されている。代表的日本人はタイトルに対して人選がおかしいという意見がある。
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