内衆とは、
である。ここでは2の意味について説明する。
概要
室町幕府の中で細川京兆家は事実上ナンバーツーといっていい存在となったので、そこである意味プチ幕府ともいうべき家政機構と庶流家の掌握手段を擁していた(ぶっちゃけ足利氏も鎌倉時代プチ幕府みたいになってたし、でかくなると必然的にこうなるものなのだろう)。それらの機関を運営し、また庶流の家に派遣されて彼らの監視要員みたいなポジションについていたのが内衆である。
そのメンバーであるが
- A・奉行人:清氏、波多野氏、飯尾氏、斎藤氏など
- B・細川氏の家中で評定衆だった人々・安富氏、寺町氏、秋庭氏、一宮氏、香川氏、内藤氏、薬師寺氏、上原氏など
- C・評定衆ではないがほとんどBと同じだった人々:庄氏など
- D・譜代ではない人々:赤沢氏など
の4タイプに分かれていて、狭義の…というか一般的にイメージされる内衆はこのうちBとCである。
彼らは細川京兆家で奉行などを務める一方で、守護代や又守護代として分国支配も担っていた。さらに庶流の家にも押し付けられて似たような仕事を本人やそれぞれの一族の人々が担っており、細川氏全体の一体感を高める働きをしていた。
同じく管領を務めた家である斯波氏や畠山氏が少数の家臣に大規模な権限を与えた一方、細川氏は権限を多数の家臣に分散させることによって、他の2つが守護代同士の争いであっけなく後継者争いに突入し家が割れたにもかかわらず、応仁の乱が終わってからもほとんど無傷といってもいい状態だったのだ…そう…だったのだ…
後期室町幕府研究のエポックメイキングだったために、さすがに今は明応の政変以降の室町幕府が魔法管領テングちゃん細川政元率いる京兆家に完全に掌握されていたというのはその後研究が進んで、いやいやいやいやさすがにそこまでは至ってないからね!将軍様頑張ってたからね!…みたいな扱いになっているが、何はともあれほとんど無傷同然の細川氏に当主である細川政元の能力の高さもあってリーダーシップを発揮していたのは事実である。
ただし、細川政元が新参を取立てたため内衆の対立が激化、内衆内部でも畿内系と四国系などの対立が顕在化、いい加減好き勝手やりたい分家の強大化、といった事態が次第にあらわれていったのである。おまけにこれに細川氏から一定の距離を置きたい足利義澄の介入もあって、それが関係しているかはどうかはよくわからないが細川政元の奇行も目立つようになり、とうとう後継者争いが武力抗争レベルにまで陥ってしまった。
その末にとうとう細川政元本人が命を散らすこととなり、ようやく和解しようとした両畠山すら再びぶり返すレベルで畿内がgdgdになっていき、最終的に分家の家臣でしかない三好に全部持っていかれるのである。
その後の内衆は畿内戦国史で国人レベルとしてたびたび見かけるので、もし見つけたときはあのころは…と懐かしんであげよう。
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