概要
平安時代の中頃、兄である冷泉天皇の系統と事実上の両統迭立のようになっていた皇統の祖。ただし結局はこちらが生き残り、彼が現在の天皇家の先祖となっている。
誕生と即位
村上天皇の第五皇子・守平として誕生した。母は藤原師輔の娘・藤原安子。藤原安子の間に生まれた3人目の男子であり、長兄の後の冷泉天皇だけではなく、7歳上の次兄・為平も存在したため、皇位からははるかに遠い存在であった。
のだが、冷泉天皇在位中、為平も後継者からは落とされ、お鉢が回ってきたのが彼だった。さらに、冷泉天皇はあっけなく天皇の座を退かされ、円融天皇としてこの守平が即位した。ただし、冷泉天皇のまだ幼い息子・師貞(後の花山天皇)を後継者としていたので、冷泉天皇の子孫が皇統を継いでいくのはこの時点では既定路線であり、あくまでも彼は中継ぎであった。
この時点では円融天皇はまだ11歳であり、はじめは冷泉天皇の代から関白の身にあった藤原実頼が彼を支えたものの、これまた8か月で死亡。おまけに跡を継いだ藤原伊尹も、2年半くらいであっけなく死んだ。彼らは前代以来の重臣であり、逆に言えば冷泉天皇の皇統を盛り立てようとした中心人物だったのである。
新たな関白
ここで新たに藤原兼通が取り立てられた。藤原兼通は藤原伊尹の弟だったが、権中納言でしかなかった。藤原氏に限っても、右大臣・藤原頼忠、大納言・藤原兼家、中納言・藤原朝成、藤原文範と、4人上位の存在がいた。藤原兼通が次男にもかかわらず軽んじられていた理由とは、冷泉天皇や藤原伊尹と仲が悪かった点である。また、その影響で弟の藤原兼家とも、『済時記』に天皇御前罵りあいをする記録が残されていたほど、犬猿の仲であった。
とはいえ、『大鏡』では藤原安子の書付を取り出せたとして、結局藤原兼通が関白に選ばれたとされる。『親信卿記』によれば、この書付が実在したことは事実らしい。ただし、この藤原兼通の勝利は、現状打破をもくろむ円融天皇の支援もあったともされる。
なお、円融天皇は『済時記』、『親信卿記』などを見ると、数えで14歳くらいのこの頃、関白が不在の間、独りで能力を発揮して切り盛りする姿が見て取れる。よって、藤原兼通の取り立ても、円融天皇の意志が働いたとも思われる。
しかも、円融天皇は中継ぎとみなされていたので、誰も入内をさせようとしなかった。生前の藤原伊尹が、『済時記』にあからさまに円融天皇に不遜な態度を取っていたことが、記録に残るレベルである。ここで、提携相手として選ばれた藤原兼通が、藤原媓子を嫁がせたことで、円融天皇と藤原兼通の連携が始まった。
ところが、貞元2年(977年)、藤原兼通は死んだ。その翌年、誰も子供を設けないまま藤原媓子が死んだ。要するに、上記試みはあっけなく失敗したのである。
藤原兼家を避ける円融天皇
さらに、九条流藤原氏の後継者争いで、藤原頼忠が関白となった。藤原頼忠は藤原遵子を嫁がせ、円融天皇の信頼を勝ち得ようとした。
また、藤原兼家と藤原兼通の争いは、『大鏡』では見舞いに来ずに関白になろうと円融天皇に申し出たような藤原兼家を、腹いせで藤原兼通が退けたことになっている。しかし、なんやかんやで藤原兼家は結局翌年には職に戻れ、藤原詮子もまた円融天皇の下に嫁いだ。
しかし、円融天皇は藤原兼家に冷淡だった。藤原兼家もまた、藤原道長が後世、一条天皇以下の円融天皇の子孫を盛り立てるので遡及されがちだが、この時点では自分の外孫であれば冷泉皇統でも円融皇統でもどちらでもよかったと思われる。実際に、居貞(後の三条天皇)にもかなり肩入れしている。
なお、藤原兼家は当初藤原安子から自分の死にあたって円融天皇を任された存在だった。のだが、ここまで疎遠なのは、円融天皇の義理の母に近い藤原登子との不仲からも読み取れる。これは、本来任された藤原兼家が、冷泉皇統とも接近していたことが影響していそうともされている。
しかし、円融天皇の皇子を生んだのは、そんな藤原兼家の娘・藤原詮子の方であった。この後に一条天皇となる懐仁の誕生は、藤原兼家に円融天皇を完全に切る選択肢を消させた。しかし、円融天皇からするとまだ藤原兼家は天秤にかけてそうな印象だったと思われ、円融天皇は藤原頼忠に接近する。
こうして、藤原頼忠の娘・藤原遵子が、皇子もいないのに皇后となった。しかし、円融天皇は長期戦の構えで藤原遵子の皇子誕生にかけたものの、皇太子・師貞の後継者誕生の方が懸念となり、ついに甥の師貞が花山天皇となった。
円融天皇はこうして15年にわたって在位し続け、退位後の花山天皇、一条天皇の時代にも存在感を残した。その生涯は33年の短いものだったものの、激動の人生であった。
関連項目
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