円谷英二とは、特撮の神様である。本名は円谷英一(つむらやえいいち)。金星人。
概要
日本映画界に「特撮映画」というジャンルを作り上げた人物である。彼がいなければ「円谷プロダクション」は創設されず、「ウルトラマン」は誕生しなかっただろうし、「ゴジラ」も長年愛される怪獣にはならなかっただろう。また、「フェードイン・アウト」「アイリスイン・アウト」「絵コンテの制作」といった今では当たり前になった撮影・編集技術を日本で初めて取り入れた編集者・発明家でもある。
「お金が掛かってもいいから良い物を作れ」という志を持ち、それは円谷プロが今も受け継いでいる。おかげで会社が何度も潰れかけたが。
来歴
1901年福島県出身。幼い頃は絵を描く事が好きな少年だった。初めて活動写真を観た際には映像そのものよりも映写機の方に興味を持ったとか。
元は飛行機の操縦士になる事を夢見ており、家族の反対を押し切り当時としては破格の入学金を払い、日本初の航空学校である日本飛行学校に入学するが、同校唯一の飛行教官が墜落事故により死亡、もう1機の飛行機が台風で格納庫ごと流され、授業ができなくなったためやむなく退学。なおこの時学んだ技術は後年、自ら飛行機を操縦しながら撮影するという意外な形で活きる事になる。
その後は玩具を作る会社に就職し、多数の玩具を発明して特許料を稼いでいたという(映画作家として名を挙げた後年も、証明写真を撮るボックスの元になる機械を発明していた)。
その稼いだ金で会社の社員と花見に出かけたら、他の社員がよその花見客と喧嘩を初めてしまいこれを円谷が止めたところ、喧嘩相手が映画会社の偉い人だった縁で映画界に足を踏み入れる。斬新な撮影技法を多く用いるが、それを受け入れられなかった先輩カメラマンからは「ズボラヤ」と呼ばれたとか。このあだ名はかなり広まっていたようで、他の映画会社でも「ズボラヤなんかに」と理不尽な反発を受け、使いたい機材もろくに使えなかったらしい。しかし円谷はこの逆境を様々な撮影技法を用いて乗り切った。いわゆる特撮撮影の元祖であるミニチュアを用いた撮影もこの頃から始めた。
1930年に結婚。円谷一など多くの子が生まれる。1933年にはアメリカで「キングコング」が公開され、観賞して衝撃を受けた円谷はアメリカからフィルムを取り寄せて映像の研究に勤しんだという。これが後に日本で怪獣映画が作られるきっかけとなったのだろう。
1937年に東宝に移籍するが、時代は太平洋戦争の真っただ中であり、円谷も戦意高揚映画(プロパガンダ映画)の制作に携わる事になる。ここでも先進的な撮影技術を存分に発揮した映画を作り、ぶっちゃけプロパガンダの域を超えた素晴らしい出来の作品もあったがあまりにも出来が良すぎて(?)特撮映像ではなく本当に戦闘機に乗って撮影したものと勘違され、戦後に公職追放処分を受けてしまった。このおかげで一時期は東宝を退職することになった。
やがて復帰し、田中友幸と共に「ゴジラ」の原案となる企画を持ち込む。映画「ゴジラ」は1954年に公開された。翌年公開された「ゴジラの逆襲」では特技監督という世界初の肩書きを与えられる。東宝在籍中は黒澤明監督とスタジオ及び電力の取りあい合戦をしていたとか。
1963年に東宝を退社し、同年円谷特技プロダクション(後の円谷プロ)を設立。実相寺昭雄や金城哲夫など、後の特撮映画界を支えるスタッフを集めて「ウルトラQ」を監修。映画で使われた特撮技術がテレビで毎週放送されるようになる。その後はとある湖でM78星人から友情の印としてウルトラの星を受け取り、これがきっかけでウルトラマンの原案が生まれ、同作の監修を務める。この頃、長年の功績が称えられ多数の賞を受賞する。
ちなみにカトリック教徒の家庭で生まれたため、ペトロという洗礼名を与えられており、死後は同じカトリック系の墓地に埋葬され、その後、円谷プロは長男の円谷一および次男の円谷皐を始めとする彼の子孫に継承された。
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