「前波吉継」(まえば・よしつぐ 1541 ~ 1574)とは、戦国時代の越前国大名・朝倉家に仕えた武将で、織田信長の前に降伏した後は、朝倉家に代わって越後守護代を務めた人物である。
別名は「桂田長俊」
概要
朝倉家の奉行を務めて京都から越前へと下向してきた公家達に対する宴の席に参加したり、外交面で指示を出す等していた。
織田氏と浅井・朝倉連合軍による姉川合戦にも参加したが、越前を出発して布陣した後、両軍の間で小競り合いが発生する中を、白昼堂々その足で織田信長の陣へと駆け込むと、織田信長に対して降伏を直訴して認められる。
その後、織田信長の朝倉氏討伐に参加して越前の道案内を務めて、朝倉義景自刃の後も、立て篭もる朝倉景鏡を攻撃して降伏させる等して稼いだ功績により、織田信長より越前守護に任命された。
※「信長公記」には「仮の守護」とはっきり書いてあり、監視役も配置していた事から、織田信長としては「朝倉家の奉行」と言う肩書きを利用したものと考えられる。越前の土一揆が前波の圧政のせいとされるのもあるいは織田家の統治への不満の矛先をその肩書きにぶつけられたに過ぎなかったのかもしれない。
裏切りの理由
朝倉家の奉行職を務めた前波吉継が、戦場において敵陣に駆け込んで裏切った理由としては、
- 朝倉義景が鷹狩を行った際に遅参して下馬せずに前を通ってしまった事が朝倉義景の勘気に触れて勘当されてしまった為
- 前波吉継の嫡男が織田信長に内通していると讒言され朝倉義景の怒りを買っていた為
- 兄・前波景当の跡目を望んだ事が朝倉義景の勘気に触れた為
といった説があるが、何にせよ前波吉継が盛大な裏切り行為を行ったのは事実である。
朝倉義景のたたり
織田信長に降伏して越前攻略の先導役を務めた事から、朝倉家に代わって一乗谷に入って越前守護となり、織田信長と共に上洛した際に名を「桂田長俊」と改めた前波吉継だったが、京都から越前への帰国途中に眼病を患って失明してしまう。
失明後、同じ旧・朝倉家臣の富田長繁が一向一揆と手を結んで攻撃してきた際に前波吉継は戦死してしまうのだが、失明→落命のコンボが決まってしまった事を当時は「朝倉義景のたたり」と噂されたと言う。
※同じく朝倉義景を裏切った朝倉景鏡や魚住景固も一向一揆との戦いで戦死したり暗殺されたりと生き残りに成功した後滅亡している事も噂を広めた要因ではないかと思われる。
※その他「前波吉継」の詳細についてはWikipeidiaの該当記事参照の事。
関連動画
※春香さんは「ブス」よばわりするとは・・・愚民に暗殺されてしまえ!
補足
「信長の野望」(PC)シリーズにおける前波吉継(桂田長俊)の能力一覧。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | 64 | 戦闘 | 55 | 智謀 | 42 | 政治 | 59 | 野望 | 68 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 100(C) | 智才 | 84(C) | 政才 | 138(B) | 魅力 | 59 | 野望 | 68 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 45 | 智謀 | 43 | 政治 | 66 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 48 | 戦闘 | 33 | 智謀 | 30 | 政治 | 55 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 18 | 智謀 | 21 | 政治 | 43 | 野望 | 39 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 18 | 知略 | 56 | 政治 | 46 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 18 | 知略 | 54 | 政治 | 48 | 教養 | 48 | ||||||||
革新 | 統率 | 20 | 武勇 | 24 | 知略 | 64 | 政治 | 54 | ||||||||
天道 | 統率 | 20 | 武勇 | 24 | 知略 | 64 | 政治 | 54 | ||||||||
創造 | 統率 | 26 | 武勇 | 38 | 知略 | 63 | 政治 | 54 | ||||||||
大志 | 統率 | 29 | 武勇 | 38 | 知略 | 63 | 内政 | 54 | 外政 | 58 |
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関連項目
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