前田利長(まえだ としなが 1562~1614)とは、戦国時代~江戸時代の武将・大名である。加賀百万石を築いた前田利家の長男。
概要
前田利家とまつ(芳春院)の長男。妻は永姫(織田信長の娘)。
豊臣秀吉に従い、秀吉没後は徳川家康と対立したが、関ヶ原の戦いでは家康が率いる東軍に味方した。
江戸幕府と駆け引きを行って父から受け継いだ加賀百万石を守り抜き、善政を敷いて繁栄の基礎を築いた。
石川県や富山県高岡市では名君として人気が高い。
当時の政界の 中心人物 |
前田利長の略歴 |
織田信長 | 織田信長の娘を妻に迎えて、エリートコースを歩む。 父親である前田利家の後任として越前国府中(福井県)に赴任。 |
豊臣秀吉 | 前田家は一家揃って秀吉から厚遇を受けた。 利長の管轄地: 越前府中(他の武将と共同管理)→加賀国小松(石川県)の大名 →越中国(富山県)の大半を統治する有力大名 →秀吉の相談役を務めた父親に代わって加賀と能登国(石川県)の統治も代行。 |
徳川家康 | 父親の領地も継承。加賀百万石の前田家が成立。 家康と対立したが、政争に負けて徳川家に従った。 関ヶ原の戦いで東軍に味方し、加賀南部を併合。130万石超えの大大名となった。 |
徳川秀忠 | 徳川家からの圧力を撥ねつけて前田家の領地を維持。 徳川家の方が根負けして方針転換し、利長が後継者に選んだ弟の前田利常を厚遇。 |
豊臣氏との絆
続柄 | ||
前田利家 | 父 | 豊臣秀吉の親友。豊臣政権では秀吉の相談役を務めて上方勤務が長く、唐入り(文禄慶長の役)でも九州名護屋まで秀吉に同行した。 豊臣政権の五大老。秀吉没後は政権の守護者となり、徳川家康の権力突出を阻止。 |
まつ | 母 | 寧々(秀吉の正妻)の親友。秀吉夫人たちの諍いを仲裁した話がある。 |
前田利長 | 本人 | 秀吉から厚遇され、父親とは別枠で有力大名となった。唐入り中に京都に長期滞在した時期があり、豊臣政権の公務の一部を担った可能性がある。 利家没後は父親の地位を継ぎ、宇喜多秀家と組んで徳川家康に対抗した。 |
前田利政 | 弟 | 秀吉に見込まれ、厚遇を受けた。 |
摩阿姫 | 妹 | 秀吉の夫人。側室ではなく正室扱いを受けた説がある。 |
豪姫 | 妹 | 秀吉と寧々の養女。養父母から大変可愛がられた。 |
宇喜多秀家 | 妹婿 | 秀吉の猶子(家名を継がない養子)、豊臣政権の五大老。豪姫の夫。 関ヶ原の戦いにおいて、西軍結成の主導者は石田三成ではなく宇喜多夫妻という説がある。 |
佐脇良之 | 叔父 | 佐脇の妻は浅井三姉妹の乳母。または賤ヶ岳の戦いの後で姉妹に仕えた。 柴田勝家の滅亡で実家を失った淀の方は、寧々の後ろ盾を得て秀吉夫人となり地位を得たが、そこには前田家からの働きかけがあったのかもしれない。 |
このように前田家と豊臣氏(羽柴家)は二重三重の縁で結ばれていた。
秀吉は豊臣氏(羽柴家)、前田家、宇喜多家の三家の関係を強化した。更に徳川家も加えた四家による親族グループの形成を図った。
事績
越前国府中の領主
父親の前田利家が織田信長の直属軍団を率いる名将だったため、織田政権において前田利長は将来を約束されたエリートだった。
前田利長は織田信長の娘婿となり、織田政権期には父が管理した越前国(福井県)府中の領主の一人になった。
前田利家は同僚の佐々成政や上司の柴田勝家と組んで越前国の劔神社を迫害した疑いがあり、激怒した信長は彼の側近に調査を命じた。
織田家の先祖は劔神社に勤務したという歴史があった。
後日前田利長が領主の一人として送り込まれた。
府中の領主となった前田利長は、しかしながら織田家北陸方面軍の主な戦いである加賀国平定戦や越後国(新潟県)の上杉家との抗争に参加した形跡は見つかっていない。
賤ヶ岳の戦い
この戦いで前田軍は戦線離脱することで味方だった柴田軍を敗北させ、秀吉を勝利させた疑いがある。
前田利家は戦後に加賀北部を秀吉から任されるという恩賞を与えられた。
しかし秀吉包囲網の時は隣国越中の佐々成政の離反を秀吉に報告したものの秀吉から信用されない、前田家が窮地の時期に前田軍の優勢を過剰に誇張して秀吉からの高評価を得ようとするなど、秀吉との関係改善に苦労した節が見られる。
一方、前田利長は父親とは別に秀吉から恩賞を与えられ、佐々降伏後はその管轄地(越中国の過半)を任されるなど厚遇を受けた。
そして利長の側近たち(越前衆)は急速に台頭し、利家に仕え続ける古参武将と肩を並べるようになった。
前田利家 | 前田利長 |
・本能寺の変の直後、管轄地の能登国の政情不安で急いで帰国。柴田勝家からの出陣要請に応えられず。 結果、北陸方面軍全体が信長の弔い合戦を行えず、利家は負い目を抱えることになった。 ・一ヶ月後の荒山合戦では、北陸諸将からの援軍を得て大勝利。 ・賤ケ岳の戦いでは最前線の天神山を守備。奇襲作戦では茂山へ進出して奇襲部隊の背中を守った。 これは北陸諸将が前田利家を信頼し、利家自身も高い戦意を持っていたことを示している。 |
・その経歴から北陸諸将との縁は薄く、信長の側近衆との交流の方が深かったと考えられる。 信長の右腕的存在だった丹羽長秀をはじめ、彼らは秀吉を支持。 つまり上司も同僚も友人たちも皆、秀吉派。 ・能登国の治安維持、越前の方が近江国に近いなどの事情から、前田父子が動員した軍勢は、利家に仕え続けた古参や能登国衆よりも、利長に従う越前衆や急募した傭兵が多数を占めた可能性。 ・戦後は秀吉から一貫して厚遇を受け続けた。 宇喜多秀家と共に、次世代のトップ。 |
秀吉包囲網
「秀吉包囲網」の記事を参照のこと。
連動して北陸で起きた前田利家VS佐々成政の戦いにおいて、前田利長は古参の将兵に加えて元柴田軍の将兵も率いて戦った。
ということくらいしか分かっていないが、戦役後に秀吉は佐々成政の管轄地(越中国の大半)を前田利長に任せた。
大抜擢である。
利長が佐々軍との抗争で活躍したか、別の件で功績を挙げていた可能性が窺える。
秀吉没後の政争
前田利長は家康と仲が良かったが、秀吉没後の政争では父利家の方針を継いで家康に対抗した。
同時期、国許で家臣の粛清を行った。利家の遺言に従って粛清を行ったとされる。
前田利長も当初は徳川家康に対抗したことから、親徳川派の家臣を粛清したという説がある。
利長は家康との武力対決に踏み切ろうとして、豊臣氏と諸大名に協力を求めた。
しかし彼らからの協力は得られなかった。
秀吉からの評価は高く人望もあった利長だが、生ける伝説だった前田利家や徳川家康の名声には及ばなかった。
前田利家と家康が対立した時は、家康派の主要人物である加藤清正でさえ前田利家に味方した。しかし前田利長に対しては、彼を陥れる側に回った。
前田利長は大坂から離れて国許に帰った=家康の権力突出を認めたのだが、家康を支持する豊臣子飼い大名の大谷吉継や加藤清正の策動で家康から嫌疑を掛けられてしまった。
後の関ヶ原の戦いでは義弟の宇喜多秀家が西軍結成の理由について、「豊臣を支える有力大名を一つずつ潰されては秀頼公(秀吉の子)を守れなくなる」とした。
所領の位置も含めて豊臣氏に最も近い前田利長は、そのため家康派から真先に狙われてしまったのだろう。
前田利長が家康に屈服した後、中央政界では大きな変化が生じた。
人物 | 立場 | 結果 | 備考 |
寧々 | 豊臣の母 秀吉に次ぐ権力者 |
大坂城から離れた 政界から一応引退 |
大蔵卿局を復帰させようとしたりと、その後も精力的に活動 |
浅野長政 | 寧々の兄弟 豊臣政権の重鎮 |
失脚 徳川領へ流刑 |
息子の浅野幸長は家康派の急先鋒。 |
大蔵卿局 | 淀の方の乳母 公務に従事 |
息子共々失脚 | 息子の大野治長は後に家康のお気に入り武将となった。 |
土方雄久 | 前田利長の従兄弟 豊臣氏に仕えた |
失脚 | 武勇の人で、大野治長と共に家康暗殺を計画したとされる。冤罪っぽいが。 |
宇喜多秀家 | 五大老 西国の有力大名 |
家康に屈服 | その後に起きた宇喜多騒動(御家騒動)の調停を大谷吉継と榊原康政(家康の重臣)に依頼。 |
毛利輝元 | 五大老 西国最大の大名 |
家康に同調 | 家康に次ぐ有力大名。前田利家や石田三成の影に回って暗躍。 |
上杉景勝 | 五大老 東国の有力大名 |
家康に同調 | 後に大坂から離れて国許へ帰り、家康派から攻撃対象にされるという、前田利長と同じ道を辿る。 |
秀吉が構築した豊臣氏を中心とする親族グループの紐帯が、豊臣政権を支えていた。その要は前田家であり、そのことを家康派はよく理解していたのだ。
前田家の協力を失った豊臣氏は関ヶ原の戦いを経た後、徳川家の西国統治に協力する下位組織の立場に甘んじて家を保つ道を選んだ。
関ヶ原の戦い
前田利長は関ヶ原の戦いでは、家康が率いる東軍に味方した。
北陸において前田軍の規模は圧倒的、さらに隣国越後と飛騨も東軍方で背後の守りも万全だった。
ところが西軍に味方した大名が多い越前国に攻め込むことで東軍を助けようとはしなかった。
前田軍は加賀南部の大聖寺城を攻略、同地域を征服した後、すぐに引き揚げた。
その帰路で丹羽長重の軍勢から奇襲を受けて敗北した。
(浅井畷の戦い)
金沢へ引き揚げた後は一月近く動きを見せず、家康から催促されてようやく出陣した。
そして向かった先はまたしても越前ではなく、加賀の丹羽領だった。
前田の大軍が丹羽軍と対峙している間に、美濃国で東西両軍の主力が激突、東軍が勝利した。
こうして関ヶ原の本戦には関与しなかった前田利長だったが、戦後の論功行賞で丹羽領も含む加賀中部・南部を領有。
丹羽長重は元々家康の支持者だったが、前田利長の都合で改易される羽目になった。
浅井畷の敗戦で、利長の戦歴には大きな傷を付けられてしまったが。
※家康は前田家と丹羽家に停戦を働きかけてこれを実現した。
その時に前田利長に送った書状の中には、「戦うなら美濃まで来て戦ってよ」という文があった。
前田利長は加賀で引き起こした局地戦に専念することで日和見をしたのではないか、と家康は疑ったのだ。
その他
- 島津家と組んで宇喜多秀家の助命運動を行い、徳川家に認めさせた。
- 没落した武将を客将として召し抱えたり、高山右近を徳川家からの追放要求も撥ねつけて匿い続けるなど、父親に似て親分肌な人物だった。
- 元上杉家臣の浪人・本多政重(本多正信の子)を五万石という破格の待遇で雇用し、人員過多の上杉家から本多を頼ってきた人々も受け入れた。
- 利長と因縁のある丹羽長重、佐久間安政と佐久間勝之(賤ヶ岳の戦いで刑死した佐久間盛政の弟たち)は江戸幕府将軍の徳川秀忠に重用されて側近を務めた。
- 徳川家は前田家の所領削減を図り越中国の割譲を要求したが、前田利長は断固拒否。利長の意を受けた家臣たちは徳川家側に屈服譲歩することなく粘り通した。
徳川家は前田家の勢力を削ぐことに失敗。前田利長の影響力を恐れて警戒を続ける一方、後継者の前田利常(利長の弟)を厚遇することで前田家を支持者に取り込もうとした。
前田利長は、利常への家督と権力の円滑な移譲にその徳川家の動きを利用した、という説が史料の発見により提唱されている。 - 妻は生涯で唯一人とされるが、高岡では現地妻がいた話が伝わっている。
前田利長は1602年に家臣の太田長知を粛清したが、原因は太田が美男で、高岡の姫の気持ちが太田に向くことを利長が恐れたからだという。
ちなみに父親の利家は長身の美丈夫。弟の利常も父親似の美丈夫。利長も同様だったかもしれない。
地方出身の女性を巡ってイケメンたちが火花を散らす、近年の大河ドラマ向きの話である。 - 前田家に元柴田家臣の種村三朗四朗という人物がいた。
種村は横山家(前田利長の側近)との間にトラブルが生じて前田家を離れたが、その後も利長は種村と交流を続けて、種村に相談事を持ち掛けることもあった。利長から種村に宛てた手紙が現存している。 - 前田利長が亡くなると、その報せを聞いた上方の人々は大騒ぎした。
当時の史料には、「これで東西(徳川と豊臣)は手切れになるだろう」という噂と、民衆が戦禍を避けるために地方への疎開まで始めたことが記されている。
徳川家が豊臣氏を滅ぼすきっかけとなった方広寺鐘銘事件は、利長の死から一ヶ月後の出来事だった。
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