力道山とは、日本プロレスの父と称せられる元大相撲力士、元プロレスラーである。本名は百田光浩。
身長176㎝、体重116㎏。息子はともにプロレスラーの百田義浩(故人)、百田光雄(今なお現役であり、引退を経験していないレスラーとしてはキャリア最長)。孫(光雄の長男)の百田力もまたプロレスラーである。
インディーマット界の台頭でやや崩れつつあるところもあるが、日本のプロレス界の新弟子育成システム・上下関係・隠語などが大相撲の影響を強く受けているのは、力士出身の力道山が日本のプロレス界を形作ったからだと言われている。
概要
1924年11月24日、長崎県大村市に生まれる。二所ノ関部屋の力士として1940年5月場所で初土俵を踏み、1946年11月に幕内へ昇進する。1947年6月場所では、羽黒山、前田山、東富士といった横綱と並んで優勝決定戦に出場(優勝は羽黒山)。1948年5月場所では殊勲賞に輝き、翌年の5月場所では関脇に昇進する。だが、1950年9月場所前に自分でまげを切って引退。通算成績は135勝82敗15休。
引退後は、力士時代から後援者だった新田新作が経営する新田建設に入るが、ナイトクラブでの喧嘩がもとでプロレスラー・ハロルド坂田と知り合い、プロレスに興味を持った力道山は坂田の勧めでプロレスに転向する。シュラナイダー・クラブ(フリーメイソン系慈善団体)でプロレスラーとしての指導を受けた後、1952年に渡米し、ハワイでの沖識名による猛特訓を受け、その後サン・フランシスコを中心としたサーキットで300戦以上をこなして大活躍を収める。
翌年帰国すると政財界の大物を訪ねて日本プロレス協会(団体としては日本プロレス)を設立。1954年に世界タッグ王者のシャープ兄弟を招聘し、木村政彦とのタッグで2月19日から3月7日まで全国14ヶ所を連戦した興行は、テレビ放送によって全国に広まり、国民の支持を受けて大ブームとなった。このブームたるやすさまじく、テレビが日本に普及したのは、力道山の試合が観たかったからだとも言われている。事実、日本テレビが設置した街頭テレビを群衆が十重二十重に囲み、テレビを設置していた飲食店や理髪店に人が群がり、挙句の果てには人の重みに耐えかねてビルの床が抜けたという。当時は「総理大臣の名前は知らなくても、力道山の名前は知っている」とまで言われたほどであった。
力道山以前にも各地でプロレス団体が勃興し、興行も行なわれていたが、テレビという新たなメディアを味方につけた力道山の日本プロレスが、しだいに全国を統一していった。
昭和の巌流島
力道山とのタッグで活躍した木村政彦だったが、力道山と袂を分かち合って国際プロレス団を設立する。しかし、興行ははかばかしくなく、やがて木村は朝日新聞に「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーだ。真剣勝負なら負けない」と豪語し、挑戦をぶち上げた。
これを受けた力道山は、1954年12月22日に蔵前国技館で日本プロレス選手権試合を開催。木村とシングルマッチで激突した。「昭和の巌流島」と称されるこの試合は、木村の急所蹴りに激怒した力道山が右拳のストレートパンチを放ち、そのまチョップの連打で木村をKOに追い込んだ。当時は勝った力道山が宮本武蔵、負けた木村が佐々木小次郎になぞらえられ、勝った力道山はさらなる国民的スターへと登り詰めた。
なお、この試合の直後に木村を兄と慕う大山倍達が力道山に挑戦を表明するが、無視されている。このエピソードは梶原一騎の「空手バカ一代」や「男の星座」でも紹介されている。
海外の強豪との戦い
昭和の巌流島以降、プロレスブームは一時的に下火となるが、1950年にキングコングを破ってアジアヘビー級王座に、1958年にはNWA世界ヘビー級王者として知られるルー・テーズを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した。このように国内制圧後は、日本のプロレス界の代表として海外から有名レスラーを招聘したのである。そうした中には、ザ・デストロイヤーやフレッド・ブラッシーといった有名外国人も数多くいた。
1963年5月24日に東京体育館で行なわれたザ・デストロイヤーとのWWA世界ヘビー級選手権試合は、平均視聴率64%を記録した。肉体的には衰えも見え始め、ケガも多くなってきたが、それでもまだその威光は衰えていなかった。
またプロレスラーだけではなく、実業家としても成功し、赤坂に高級アパートのリキ・マンション、ナイトクラブのクラブ・リキ、高級マンションのリキ・マンション、さらに渋谷にプロレス常設会場「リキ・パレス」を建設した。さらにはボクシングジムやゴルフ場を中心としたリゾート開発などにも乗り出していた。
力道山の弟子たち
力道山には数多くの弟子がいるが、その中でも有名なのはジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎の若手三羽烏だろう。プロ野球出身という知名度に加え、恵まれた体格を誇る馬場はデビュー当初からスター扱いされ、当時は出世のパスポートと言われていた海外修行にも真っ先に出された。
一方、付き人だった猪木には「靴べらで顔を殴る」「飼い犬のしつけの実験台にする」「意味も無く、ゴルフクラブで頭を殴る」「灰皿を投げつける」など、冷酷な態度をとり続け、猪木自身も本気で殺意を抱いたことは一度だけではないと語っていた。海外修行も力道山の生前には行けずじまいの猪木だったが、その山師的な性格やサイドビジネスへの野心など、ある意味一番、力道山の血を受け継いでいるとも言えよう(下手すると、実の息子たちよりも)。
第三の男、大木金太郎こと金一(キム・イル)は、力道山を慕って韓国から密入国するも、横浜で逮捕される。そんな彼を自身の後見人である自民党の大野伴睦の政治力を利用して釈放させ、大木金太郎の名前で門下生として入門させたのが力道山であった。[1]数多い力道山の弟子の中でもっともかわいがられ、かつ力道山信者として心酔していたのは大木であったと言われている。
力道山の死
1963年12月8日、赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で暴力団員と喧嘩になり、登山ナイフで刺された。病院の発表では全治2週間とされていたが、事件から1週間経った12月15日に容態が急変し、穿孔性化膿性腹膜炎で死去した。
力道山の死後、日本プロレスのナンバー2だった豊登がエース兼日本プロレス社長とした集団指導体制を作るが、豊登りはギャンブルが原因で放逐される。その後、力道山がブラジルで見出したアントニオ猪木は独立騒動に関わって追放され、新日本プロレスを旗揚げする。日本プロレスはジャイアント馬場をエースとする新体制が敷かれたが、馬場は日本テレビと図って全日本プロレスを旗揚げする。ここにおいて日本プロレスは坂口征二をエースとするも、これまたNET(現在のテレビ朝日)の働きかけで坂口らが新日本プロレスに移籍するとついに力尽きる。力道山を追いかけてきた大木は日本プロレス亡き後全日本プロレスを経て新日本プロレスへ転戦し、既に旗揚げされていた国際プロレスと合わせて三団体時代が到来したのであった。
力道山の墓は池上本願寺にあり、命日にはしばしば有名プロレスラーが墓参に参る。また、大村市にある百田家の墓所にも分骨されている。
メディアの影響
戦後を代表するスーパースターであり、生前には28本の映画に出演。そのうち8作品は主演映画である。
漫画では梶原一騎原作・吉田竜夫作画の「チャンピオン太」があり、これは実写による連続ドラマも作られている。デビュー前のアントニオ猪木が「死神酋長」というインディアンレスラーの役で出ており、実際のリングネームもその名前になりかけたというのは、古いプロレスファンの間では有名な話。
なお、梶原一騎と力道山の出会いは東京中日新聞の連載「力道山光浩」がきっかけである。
梶原一騎以降も、プロレス界のレジェンドとして実名やオマージュを問わず漫画や小説、ゲームなどでチートクラスの猛者として登場している。「餓狼伝」では力王山として松尾象山と戦い、「グラップラー刃牙」では力剛山としてマウント斗羽のエピソードに登場。夢枕獏の小説「仰天・平成元年の空手チョップ」では一命を取り留めた力道山が冷凍睡眠で平成の日本に復活し、前田日明と東京ドームで戦うというストーリーが展開された。
得意技
力道山の代表的な技である空手チョップ(空手打ちとも)は、正確には空手のものではなく、相撲時代から得意としていた張り手の応用であるが、その強靱な肉体から繰り出されるチョップは見た目にも分かりやすく、威力も絶大だった。逆水平、袈裟斬りといったチョップ攻撃は今も、プロレスの主要打撃技として多くの使い手を産んでいる。
セーバーチョップ? いやあ、あれは……。
力道山とプロレスの虚実
さて、ここまで力道山の来歴を述べてきたが、これは力道山の「自伝」(実はゴーストライターの作)などによる、いわゆる「オフィシャルストーリー」「正伝」であり、実のところ上記の内容には「嘘」、あるいは今となっては解明できない謎が数多く存在する。
そもそもの出自に関して、「プロレスラー力道山」は長崎県大村市出身の日本人とされていたが、現在では周知のとおり咸鏡南道(現在の北朝鮮)出身の朝鮮人である。力道山が卒業したとスポーツ誌に掲載されていた「大村第二小学校」なる学校は大村市には実在しない。帰化して戸籍上でも百田光浩となるのは大相撲を廃業した1951年2月のことで、自分を見出して日本に連れ帰った百田巳之助の長男となったのである。ただし、大相撲の番付には朝鮮半島出身であることが書かれていたため、力道山が朝鮮半島出身者であったことは相撲ファンなら周知の事実であっただろうし、それを知らずとも「光浩」という「本名」から朝鮮半島にルーツを持つことを読み取った者もいたようである。いずれにせよ、プロレスラーとなってからは帰化人である旨のマスコミ報道はされず、韓国へ渡航したことすらオフレコとされたほどである。家族に関する「真実」としては、義雄・光雄兄弟とは別に北朝鮮に娘がおり、連絡船上であったことを突き止めたとする書籍もある一方、その信憑性に疑問を投げかける者もいる。
プロレスラーとなった動機も嘘である。当時の新聞記事に、ハロルド坂田ら来日したプロレスラーに対して大相撲を廃業していた力道山が挑戦表明をしているものが存在することから、「酒場でケンカ→勧められて転向」というストーリーは作り話である。また、「アメリカで300戦の武者修行」に関しても、日本プロレスの同僚でありアメリカ遠征も経験した遠藤幸吉ですら疑問を呈している。更に、「世界タッグ王者」として来日したシャープ兄弟に関しても、全世界に1つしかないベルトを保持しているわけではなく、「カナダローカルの世界タッグ王者」であった[2]。経歴詐称は自分に対しても行っている。このシャープ兄弟との一戦において、実際は元関脇なのに看板の肩書きを「元大関」と位を盛っているのを指摘され、急遽訂正している。また、現在では三冠ヘビー級選手権の一部となっているインターナショナルヘビー級選手権についても、ルーテーズが保持していたものを力道山が奪取した……という体で力道山が創作したものである。その他、嘘は数限りなくあるだろうが、こうした「嘘」の中で最大級のものは木村政彦との「昭和の巌流島」である。リングを降りた直後、力道山自ら「木村の方から引き分けにしようという申し入れがあり、試合中もそう言ってきたのに突然急所を蹴ってきたので私がいかったのも当然だ」という衝撃の暴露をし、さらには事前に取り決めたという念書まで公開したのである。これにより木村は卑怯者の烙印を押され、後の人生を狂わせることとなる。しかし、関係者の証言を総合すると念書は力道山が要求したものであり、その取り決めどおりに試合を運ぼうとした木村に対し力道山が約束を違えて突然「本気の」打撃を加え木村をノックアウトしたのである(ガチンコ・ブック破り・シュートなど様々な語で言い表されるが意味するところはほぼ同じである)
更に、その死ですら伝説化されている。暴力団員(相手が力道山だとは知らなかったようである)に刺された傷が原因なのは確かだが、梶原一騎は『プロレススーパースター列伝』において力道山が回復を過信して寿司やサイダーを飲み食いしたことで病状が悪化したとしている。ところが、その後の医学的考察によると、麻酔投与の際に誤って気管がふさがれたという医療ミスが唱えられている。なお、一部には力道山が金日成にベンツを送るなどして北朝鮮に多額の援助を行う一方、極秘裏に韓国へ渡っていたことから朝鮮半島情勢(力道山の死の2年後に日韓基本条約が締結される)に絡んだCIAによる暗殺説が唱えられたこともある。ちなみに、北朝鮮で発行された力道山の伝記では「祖国の英雄」ということもあってか、米帝CIAによる暗殺説を採用している。
現在に至るまで、力道山は「日本プロレスの父」として認識されている。しかし、力道山は日本初のレスラー(ソラキチ・マツダが1883年にアメリカでデビュー)でもなければ初めて日本でプロレス興行をやったわけでもなく(1953年7月、山口利夫の全日本プロレス(ジャイアント馬場が創立し現在まで続く団体とは別団体)が開催[3])、力道山組vsシャープ兄弟が初めてテレビ中継された試合でもない(1954年2月6日、山口の試合が大阪~静岡にかけて中継)。
このように、力道山は日本プロレス界の成功者であってもパイオニアではなかった。その成功の要因は元関脇という経歴を生かし政界(大野伴睦―自由民主党副総裁)・財界(正力松太郎―日本テレビ放送網社長・林弘高―吉本株式会社社長)・スポーツ界(酒井忠正―横綱審議委員会委員長)・暴力団(田岡一雄―山口組組長)などあらゆる分野の人物と接触し、せめぎあい、利用して自分と自分の団体である日本プロレスを勝者たらしめたことにある。その過程でライバル団体のひとつであった国際プロレス団のトップであった木村をKOし、山口利夫の全日本プロレスも山口が日本ヘビー級王座に挑戦して返り討ちにし、団体を崩壊に至らしめたのである。
インターネット上では「嘘を嘘と見抜けないと(ry 」がお約束なのはいうまでもない。また、あえて「嘘」を信じ、眼前の戦いに没頭するのもプロレスの楽しみ方のひとつである。しかし、塗り重ねられた嘘の先にある何かを探り、楽しむこともまた、「底が丸見えの底なし沼」とも評されるプロレスの魅力ではないだろうか。
関連動画
関連項目
脚注
- *……と書くと金一が力道山が朝鮮人であることを知っていたかのように思えるが、この密入国騒動も力道山伝説同様に嘘である。実のところ、横浜で働いていた金が「日本人」レスラー力道山に弟子入りしたのであった。金が力道山を「同胞」であると知ったのは入門後、桔梗の花の話題で理解できなかった金に対し、力道山が他に人のいないトイレで「トラジのことだ!」と教えたからだという。
- *プロレス初心者どころかNWA全盛期を知らないプロレスファンにもわかりやすく説明するなら、「コンビニオーナーになる権利」といった感じであろうか。地域ごとに上部組織であるNWA=米国レスリング連盟に認定された、いくつもあるタッグ王座のうちのひとつである
- *1921年に来日したアド・サンテルとヘンリー・ウェーバーが靖国神社相撲場にて講道館の柔道家と対戦しており、これが日本初のプロレスと言えるかもしれない。蛇足ながら、1948年の段階で女子のキャットファイト的なものが行われており、これを女子プロレスと呼ぶなら男子の興行より早く行われていたことになる。
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