北九州監禁殺人事件(きたきゅうしゅうかんきんさつじんじけん)とは、2002年に発覚した連続殺人事件である。
※この記事には残酷な行為や胸糞な場面が含まれます。ご覧の際はそれを承知の上でお願いします。
※事件の性質上、記事の編集や掲示板が荒れる可能性も高いとも思われますので、どうかその前に一度深呼吸してお願いいたします。
概要
日本犯罪史上において、最も凶悪かつ卑劣で人間性の欠片も感じられない、まさに悪魔の所業と言うべき殺人事件のひとつと断言できる。
主犯の男は自分の手を汚すことなく、内縁の妻とその家族(小学生・保育園児を含む)を精神的支配下に置いて、虐待や殺人、バラバラにした遺体の処分などの命令をくだした。その結果、妻の家族は全滅する。だが監禁されていた少女が逃亡に成功し、親戚の家に駆けこんだことで遂に事件が発覚した。
繰り返すように非常に残酷な事件であるが、そのあまりにもむごい内容からかマスコミに報道規制が敷かれたとも噂されており、事件を知らない人も多いと思われる。なお後年、2012年にも「尼崎事件」という類似した事件が発生しており、引き合いに出されることも多い。
犯人
主犯・松永太
全ての根源であり、吐き捨てるほどの邪悪。1961年生まれ。小倉に生まれて柳川に移り住んで育つ。病気と言っていいほどに虚言癖がひどく、常に自分が優れた人間であると信じており、一見すると礼儀正しく愛想のよい好人物に見えるが、その中身は虚栄心と猜疑心と嫉妬心の塊であり異常に執念深い。一方、強い相手(例えば暴力団)相手には臆病な小心者。苛烈な暴力やマインドコントロールをもって他人を支配下に置く手法を取る。
容姿や話術に優れていた為、異性からの印象が良く、純子と交際しているにも関わらず複数の女性と関係を持っていた。緒方一家の女性たちに対しても肉体関係を迫っていたという。かつて別の女性と結婚し1児を儲けていたが(松永はこの時点で既に純子を含む多数の女性と交際していた)、ここでも日常的にDVを起こしており、妻子が逃亡して離婚した。この元妻からも「口だけは大きい男」「自分を救世主だと主張するが、関係した人間は皆不幸になった」「嘘を嘘で上塗りして、自分の中では真実と思い込む」などと事件後にこき下ろされている。
多数の被害者から散々大金をむしりとっているが、その使い道に関してはよく分からない。
事件後、松永の親族は一切口を閉ざしているが、唯一、事件中に純子との間に生まれた長男が「松永太の息子」のアカウント名を称してYoutuberになっており、両親の現状について語っている。
2022年現在は福岡拘置所で死刑囚として収監されている。長男によれば糖尿病で失明したという。
従属犯・緒方純子
1962年生まれ。松永とは高校の同級生だった(早生まれのため)。地元の名士の家に生まれ、厳格に育てられ、真面目だが従順的な性格に育った。成人後は幼稚園教諭を務めていた。松永と再会後、内縁の妻となり二人の男子を産む。松永から虐待を受け、精神的な従属下に置かれ、実家と絶縁していた。
無期懲役判決を受け、長男によれば現在も収監されているという。
従属犯・少女A
1984年生まれ。不動産会社勤務の父と暮らしていた。やがて松永が彼女の父に接近して北九州市内に惨劇の舞台となるマンションを手に入れることになる。その後、弱みを握られた父共々松永の住処に移され、一連の事件に関わることになる。そして後に隙を見て逃亡し、事件の全貌が明らかとなる。
事件後、児童養護施設に送られ、現在は静かに真っ当な暮らしを送っているとされる。
松永のやり口
松永は非常に言葉巧みで信用させることが上手い。そうして信用を得ると酒の席に誘い、話術も交えて気分良くなっているところで何らかの「弱み」を引き出していた。すると以降は態度が激変し、脅しや暴力をもって金蔓とするようになる。この際も「お金を持って来い」とは言わず、「お金を持って来いと言っているんだな……」と相手に思わせる発言をして、松永自身が無理強いした印象を弱める。このやり方は後の殺人事件でも行われることになる。
家族に寄生した際も、話術や酒や肉体関係で近づき「弱み」を握るが、それを家族の前で披露したりはせず、こっそりと一人一人に教えていく事で、家族関係を自壊させ共闘体制が不可能になったところで支配下に置くという、悪魔のような手段を用いている。
そしてそういった状況を口外しない者、例えば世間体を気にする人物をターゲットにする。それを目ざとく見つけるのも上手かった。弱みを握られて支配下に置かれた者は脅迫されるがままに犯罪を犯し、すると今度はその犯罪をネタに脅迫することで負のスパイラルへと陥らせていくのである。
また「事実確認書」といった文書を提出させるというやり口も目立つ。文書を書かせたりサインさせたりすることで「それを守らなければいけない」という精神状況に追い込む(破れば当然虐待)というものである。松永と被害者がまるで対等の関係で「文書」を作ったかのように見せかけて、実際は脅しの材料でしかないのである。
こうして徹底的なマインドコントロール下に置き、奴隷以下の扱いをして、他者の不満を述べると序列が上がるという密室内での支配関係を構築していく。時には盗聴器の存在を匂わせ、松永不在の際も被害者たちが何ら行動を起こせなくしていた。被害者は皆疲弊しきっており、かつ相互不信の状態を作らされ、下記に記すような劣悪な環境に置かれ続けていたことで諦めが生まれ、思考停止へと陥らせていった。
殺人や遺体解体もそれらしき指示を匂わせることで、純子や被害者に実行させて己は一切手を汚さないという鬼畜である。後述するが、散々金をむしり取っておきながら、裁判では「自分には殺害する動機が無い」「むしろ自分は被害者」などとのたまい、上告審まで一貫して全面無罪を主張することになる。
生活制限
衣食住その他に関しても徹底的に監視下に置いた。衣服は冬でも半袖、懲罰のために下着姿にされることも多数。移動も会話も許可制。寝る時は台所に新聞紙を敷いて雑魚寝な上に昼夜逆転した生活。トイレは許可制でまず使えず基本的に小便はペットボトル、大便は1日1回で便座に腰掛けるのも禁止。外出も当然禁止で車のキーと免許は監禁の最初に没収。ドアや窓は多数の南京錠で施錠されており、仮に外出した際は松永に逐一報告を求められる。金銭も没収され、買い出しの際に必要最低額が与えられるだけ。窓は一面カーテンで覆われ、ドアのチェーンも極端に短くされ、仮に誰かが訪問してきても家の中がほとんど見えないようにするなど徹底していた。違反すれば当然虐待や通電が待っている。
純子は逮捕された後、拘置所での暮らしについて「食事もできる、風呂にも入れる、トイレにも行けるし読書の時間もある」と語っており、松永の支配下における虐待生活が如何に酷かったかを想像させる。
電気ショック(通電)
松永は気に入らない人物に対して虐待を行っていたが、特に電気ショックを与える「通電」という手法を好んで用いることになる。通電によるダメージは肉体的にも精神的にも非常に大きく、再びそのような目に遭いたくない相手を屈服させて支配下に置いていった。どれくらい痛いのかはwikipediaの本事件も参照。子供すらこの拷問のターゲットとなり、当時5歳の純子の甥のみこれを逃れていたが、幼い実子に対してもこのような行動を取ったのは松永の異常性を現わしていると言えよう。他にもここには書ききれないような様々な虐待が行われている。
事件前夜
1980年、高校の卒業アルバム(松永は不純異性交遊を起こして別の男子校に転校させられていたが、以前の同級生からアルバムを取り寄せていた)を眺めていた松永は純子に目をつけ、連絡を取ると、男性との交友経験が浅い純子を言葉巧みに誘導して交際がスタートした。
1984年、松永(この時点で既に最初の妻と結婚している)との不倫が純子の両親に知られることになった上、松永が純子の両親の資産状況を調べていた事で大きな不信感を抱かれるが、両親と直接対面した松永は温厚な好青年を演じた上、男子がいない緒方家に将来婿養子として入ると言ったため、逆に父の好意を得ている。だがその一方で純子への暴力は変わらず、遂に純子が自殺未遂を起こすと「自殺されると警察に呼ばれて迷惑になる」という自分に都合の良い理由で暴力を悪化させ、純子を幼稚園から辞めさせた上、実家との関係を絶たせるために分籍させた。
純子の母は一度は態度を軟化させたものの、「婿養子になる」と言いながら一向に離婚せず不倫関係を続ける松永に再び不信感を抱き始め、「純子と別れて欲しい」と松永に要求した。が、逆に松永の話術で良いように言いくるめられて松永は純子の母と肉体関係を結ぶ(後に検察はこれを松永による強姦であると主張している)。これがきっかけで純子と母の関係は亀裂が入る事となる。
純子が分籍し、一向に松永が婿養子にならないことから、1986年に緒方家は純子の妹がお見合い結婚して元警察官の男性を婿に迎えた。だがこの際も松永は純子に命令して、純子の実家に「財産目当てだ」などと散々嫌がらせ電話をしている。なお妹夫婦は2人の子供をもうけ、両親と同居して幸せな時間を過ごしていた。
松永は父の畳屋を引き継ぐと布団販売業に転換した。が、その実態は詐欺会社であり、顧客を脅し粗悪品の布団を高額で販売していた。ここでも松永は意に沿わない社員に対して虐待を振るっている。またこの時期、幼稚園を辞めさせられた純子が社員となるが、かつての優等生的な姿は消え、詐欺行為への抗議に逆ギレして罵声を浴びせるといった姿が見られたという。この当時はまだ最初の妻と結婚していたが、その妻や子供の前で愛人の純子を虐待するなどの異常な光景が繰り広げられた。一度は純子が入院するに至り、その暴行跡を見た医師が警察に通報し、松永が任意同行されたこともあったが、逮捕には至らず平然と帰ってきた。最初の妻は、彼女の父の死をきっかけに虐待がエキスパートしたため、子供を連れて警察に駆け込み、1992年にようやく離婚が成立した。また時を同じくして1992年、会社の詐欺・脅迫が発覚して松永は指名手配された(1999年に時効)。
また同時に松永は結婚詐欺も行っており、純子を姉、純子との長男を甥と紹介しながら詐欺で多額の現金を稼いでいた。だが、この中でも女性に対する虐待を行っており、立件はされなかったものの極めて怪しい母子死亡事故が起こっている。
第一の殺人・A父殺害
指名手配された事で松永は土地勘のある北九州市小倉北区へと移り住んだ。この逃走中に純子は長男を出産している。後に残虐な殺人事件の舞台となるマンションを借り受けたが、これを斡旋したのが不動産会社のとある男性(A父)だった。そこで松永は会社設立の計画(という嘘)をA父に語り、舌先三寸で仲間に招き入れる。そしてそれまで同棲していた女性と別れさせた上に、松永が彼の娘である少女Aを養育するからと強引に娘を引き取られた。
酒に弱いA父を酔わせて弱みを握った松永は、A父を更に脅し、事実無根の犯罪(娘を強姦した、会社の金を横領したなど)を「事実確認書」として書かせた末に退職に追い込み、社宅から松永のマンションへ移住させた。
これ以降、A父に対する虐待は激しいものとなり、純子も命ぜられるがままに虐待に参加した。だがA父はそれに耐え、まもなく次男を出産する純子にねぎらいの言葉をかけるなどしていた。また、松永は少女Aにも自らの父へ暴力を命令し、噛みついて父の身体に歯形が残っている姿を写真に撮ることで、親殺しの脅迫材料として使用した。更にろくに食事を与えないなどの行為を行った結果、1996年2月26日にA父は死亡した。
松永は純子と少女Aに命令して遺体の解体作業を行わせ、バラバラ遺体は海に捨てられた。この時陣痛が訪れ、純子は次男を出産している。少女Aは自分の父を殺害したという「事実確認書」を書かされた。
また同時期、松永はやはり結婚詐欺を行って、女性に近づいては金をむしり取って虐待し、中には先に述べたように幼い娘共々死に至ったケースもあった(刑事告訴されず)。
緒方家の悲劇の始まり
1997年、新たな金蔓を見つけられなかった松永は純子に金の確保を命じ、家族に電話して金の無心をした。だが当然拒否されたため、松永に断りを入れずに湯布院に移りスナックで働き始めた。だが純子の母を通じて湯布院にいることが松永に伝わってしまう。
松永は久留米市在住の緒方家の父・母・妹を呼び出すとA父殺害の事実を告げ、身内に殺人者がいる事で世間体が悪くなるだろうとまたもや巧みな話術で3人をコントロールし、松永の死と葬儀をでっちあげて純子を呼び戻すことに成功する。こうして純子の虐待はますますひどくなり、爪をペンチではがされたという。その後も純子は一度逃亡未遂を起こしている。
久留米の緒方家の3人はそれ以降たびたび小倉に呼び出されるようになった。その中で松永は純子との離縁を切り出した。その条件は多額の手切れ金を両親に与え、子供2人は松永が引き取るという内容であった。だが子煩悩の純子が子供を手放すとは最初から思っておらず、松永の芝居であったと言える。これで純子が離縁しないと言うと、殺人犯(お前のせいなのに何をほざいているのか)を匿う費用として金を無心した。地元の名家であり世間体を気にする3人は従わざるを得なかった。更にA父同様、酒を飲ませて愚痴を吐かせることで弱みを握っていき、金が用意できないと通電などの虐待を行って脅すようになる。また松永は、母のみならず純子の妹とも肉体関係を結んだ。毎日のように夜遅くに久留米と小倉を往復する生活に3人は疲労していた。
毎夜どこかへと出かける家族に疑問を持った純子の義弟(妹の婿養子)は、妹(彼の妻)と共に小倉へと向かった。松永は純子と血の繋がらない元警察官の義弟に対しては警戒しつつ、3人から酒で聞き出した様々な弱みを伝えた。特に妹がかつて中絶をしていたことや、妹が彼との結婚後も不倫していたという話に義弟はショックを受ける。このような話術で義弟は緒方家への不信を生み、松永への信頼を寄せるようになってしまう。遂には松永の誘導で義弟が3人に暴力をふるう事態に至った。その一方、今度は妹の愚痴を材料にして義弟を責め、妹夫婦の仲を引き裂くという工作を行っている。こうして義弟を支配下におくと、A父の殺害・遺体解体現場である浴槽タイルの交換を行わせた上で「殺人の証拠隠滅を行った」と言いがかりをつけ更なる弱みを握っていった。
こうして松永は緒方家の仲を引き裂いていく。小倉通いと金の献上は連日続き、通電などの虐待が行われ、そうした影響で仕事を欠勤するなど悪化していく。両親は借金を重ね、妹夫婦は退職金目当てで仕事を退職するに至る。
こうした異常事態に緒方家の親類が察し、更にそれが当時指名手配中の松永と純子によるものと知ると警察官を松永宅付近に張り込ませるなどした。更に純子の祖父名義の土地を父が売却しようとするが、これも親類によって食い止められている。警察が動いている事や、緒方家がこれ以上の金蔓として期待できない事から、松永は緒方家を自由にさせては危険と判断し、一家6人を小倉のマンションに監禁する。久留米には一家が突如失踪したという謎だけが残った。
第2の事件・父死亡
1997年12月21日、土地売却に失敗したのは一家の主である父の責任であると松永が断定。通電が行われた結果、父は死亡した。死体の解体中にクリスマスや松永長男の誕生日を祝うという異様な光景が広がったとされる。なおこの事件に関しては殺人ではなく傷害致死となっている。
第3の事件・母殺害
1998年1月20日、通電を繰り返した結果純子の母は奇声をあげるようになったため、松永は純子と妹夫妻に処遇を考えさせた。そして精神病院への入院などが提案されるが松永はそれを悉く却下した。そして殺害を提案すると「これは一家の決断である」とさせた(要は松永の責任逃れ)。義弟が様子見を提案するも松永は無視して殺害方法を考えさせるなどした。最終的に電気コードでの絞殺が決まり、純子・妹の2人が押さえつけて義弟が殺害を行った。遺体は同様に解体処分された(以下すべて同じ)。
第4の事件・妹殺害
1998年2月10日、一行は別のマンションにいたが、松永の命令について純子と妹の解釈が食い違うという事態が起きた。すると松永は純子に「おかしくなった」「母みたいになったらどうする」「今から向こうのマンション(殺害が行われていた場所)に行く。どういう意味か分かるな?」と明らかに妹の殺害を唆した。更に移動すると松永は「俺は今から寝る、一家で結論を出しておけ」「俺が起きるまでに終わっておけ」と再度の殺害示唆と責任逃れな言動をする。純子、義弟、姪(妹夫婦の娘)の3人は松永が殺人の命令をしていることを理解していたが、義弟は自分の妻を殺す事に躊躇していた。しかし殺害を拒否すればますます酷い虐待や通電が待っている事は明白であった。松永の意見を聞こうとするがドアに鍵がかかっており入れなかった。遂に3人は殺害を決意せざるを得なくなり、義弟が自ら妻の殺害役に名乗り出る。まだ小学生の姪に対しては「お父さんが首を絞めるから、足を押さえて最後の挨拶をしなさい」と伝えた。浴室にいた妹のもとに義弟と姪が電気コードを持って入り、計画通り義弟が妹の首を絞めた。妹の「私、死ぬと?」という最期の問いかけに「すまんな」と答え、殺人が実行された。自らの手で妻を殺してしまった義弟はすすり泣いたという。殺人に加わざるを得なかった姪はまだ小学生であった。
このような残酷な悲劇が起こる一方で、松永は一切手を汚すことなく殺人を成功させた。
第5の事件・義弟殺害
義弟も度重なる虐待、通電、食事制限で身を壊しており、嘔吐や下痢の症状が出ていた。それでも松永は彼を運転手役にして愛人に会いに行くなどの外道な行為をしていた。純子はやつれた義弟を見て病院に連れて行く必要性を感じたが、母殺害の際に松永に拒否されたため言い出せずにいた。
1998年4月13日、義弟は松永から眠気防止ドリンクと缶ビールを与えられ、それを飲みほした。その1時間後、義弟は衰弱死した。
第6の事件・甥殺害
こうして緒方家の大人は純子以外全身死亡して、妹夫婦の子2人だけが残された。少女Aは松永の子2人の世話をしていたのでさほど酷い目には遭っていなかったが、純子の甥と姪に対しては残酷な運命しか残されていなかった。
義弟の死からしばらく経って、松永は「子供に情けをかけて殺さなかったばかりに、逆に大きくなって復讐された話もある」「そうならないためには早めに口封じをしなくてはいけない」と甥の殺害意志を発言する。純子はもはや正常な思考を持ち合わせておらず、またこのまま生きていても松永に虐待を繰り返されるだけと考え、この発言に同意した。
1998年5月17日、姪が松永に「誰にも言わないから」と久留米の実家への帰宅を願い出るが、松永は「死体をバラバラにしているから警察に捕まっちゃうよね?」「弟が何もしゃべらなければ良いけど、そうはいかないんじゃないかな?」「俺や君自身に不利益が生じるが、責任が持てるの?」と脅しで返した(小学生を相手にこの対応、どこまでもクズである)。そして「甥は可哀想だから、お母さんのところに行かせてあげる?」と殺害を示唆(甥はこれまで唯一通電されていなかった)。もはや逆らえない事を悟ったのか、姪はこれを承認した。この状況を見た純子は自分が殺害すると発言するが、松永の命で姪と、これまで殺人に関与していなかった少女Aの3人で殺害することになった。少女Aが足を押さえ、純子と姪がふたり掛かりで絞殺したとされる。甥はまだ保育園児であった。
第7の事件・姪殺害
残された姪は、相変わらず虐待、通電、食事制限といった扱いを受けていた。対する松永は「あいつは口を割りそうだから処分しなきゃいけない」「あいつは死ぬから食べさせなくていい」などと、姪を死に至らすことを示唆していた。
1998年6月7日、浴室で松永と姪がふたりきりで「話し合い」を行った結果「彼女も死にたいと言っている」と死へ誘導した。純子と少女Aが横たわる姪を絞殺したが、そのとき姪は首を絞めやすいように自ら首を持ち上げたとされる。
再びの詐欺
こうして約半年の間に何の罪もない緒方家の6人を殺害した松永は、純子に対し「お前と子供たちがいるから俺は迷惑なんだ」「Aとふたりなら俺はAの父親に成りすまして、ちゃんと生きていけるんだ」と、どこまでも自分勝手な理由で子供たちとの心中を命令している。また松永は子供達に母親は悪人だと散々言い聞かせたり、幼い長男に「お前は本当の子供じゃない」「お前がいなければ純子と別れられる」などと日々罵っていたという。
そして松永はこの期に及んでまたも新たな金蔓を探し出し、夫と不仲な主婦と出会うと、離婚して自分と結婚することを提案する。更に「夫の狙いは子供だから、子供だけでも私が預かった方が良い」とまたもや巧みに言いくるめて双子の子供たちを預かり「養育費」を要求した。相手がお金を出せなくなると風俗店で働かせ、最終的に2500万円を分捕っている。ただし被害届が出されなかったため、立件されていない。
こうして双子が加わり、純子が産んだ長男・次男と合わせて4人の子供を純子と少女Aが育てることになった。
少女A逃亡
2002年1月30日、緒方家への殺人事件から4年が経った頃、松永の目を盗んで少女Aはマンションから逃亡することに成功した。その後祖父母の家に身を寄せたが、父の死の事実については黙っていた。半月ほどそこで過ごし、アルバイト先を決めたりして新生活を送ろうとした矢先に、松永の魔の手が迫る。
松永は少女Aの伯母とも交際しており、この人物から松永に少女Aの行方が漏れてしまう。松永はいつものように温厚な男性を演じながら「少女Aはシンナーを吸うなど非行行為に走っており、このままでは父に叱られる」と舌先三寸の話術を展開し、祖父母を完全に信じ込ませてしまい、少女Aは松永に連れ戻されてしまった。その間際に「おじさんの話は全部嘘、迎えに来て」と走り書きしたメモを祖父母に託した。
そして連れ戻された少女Aに対しては通電される、純子に首を絞められる、右足親指の爪をペンチではがされるといったますますエスカレートした虐待が行われ、最後には彼女の血で「もう二度と逃げません」といった血判状を書かされた。
2002年3月6日、少女Aは諦めていなかった。再び松永のマンションから逃走して祖父の下に助けを求めた事で、遂に一連の事件が公に明らかになった。翌3月7日、松永と純子が少女Aへの監禁致傷で逮捕されるが黙秘を貫いた。別のマンションに残されていた子供4人も発見された。
逮捕後
その後、少女Aが「松永と純子は父の知り合いで、最初は4人で暮らしていたが、父が行方不明になった」と証言し、数日後に「父はふたりに殺された」と証言したことから捜査は殺人事件に切り替えられていった。更に緒方家6人の殺害も証言したことで大量殺人として捜査が進められた。だが、松永が遺体解体場所のタイルや配管を新調しており、遺体はバラバラにされて海などに捨てられたとあって物的証拠が全く得られず、少女Aが殺人の現場を目撃していたケースとしていなかったケースがあったことも加わって、捜査は難航を極めた。
だが逮捕から半年以上たった10月23日に純子が証言を始めた事で、ようやく事件の全貌が見え始めた。一方捜査においては、松永が弱みを握った家族たちに書かせた「事実確認書」や、死体解体に使われたであろうノコギリなどを購入したレシート、周辺住民の証言といった間接的な証拠が集められていった。
また、保護された子供たちについては、双子は本来の親元に戻り、長男(当時9歳)と次男(当時6歳)は児童福祉施設に送られた(この二人は出生届すら出されていなかった)。
2003年7月、遺体のないまま緒方一家6人の葬儀が営まれた。
裁判
松永と純子の第一審は福岡地裁小倉支部にて2002年6月から始まった。純子は少女Aの父と自分の父については傷害致死を主張したが、それ以外の殺人については刑事責任を認めた。一方の松永は全ての事件に対して全面無罪を主張した。
松永は7人が死亡したのは「全て事故か緒方一家が殺害したことであり、むしろ自分は緒方家の騒動から避けており何の責任もない」という極めて無責任な主張を行った。内容としては
- Aの父:風呂掃除で転倒して頭を打ったから。
- 純子の父:純子が通電したから。
- 純子の母:自分と彼女が男女の仲であることを純子が嫉妬したから。純子の仕業。
- 純子の妹:義弟が妹の男性関係を恨んだから。義弟の仕業。
- 純子の義弟:肝機能障害を抱えた中で食べ過ぎたため。自業自得。
- 純子の甥:純子と姪が口封じ目的で勝手にやったこと。
- 純子の姪:純子と少女Aが口封じ目的で勝手にやったこと。
……という有様である。おまけに「そもそも自分には彼らを殺害する動機が無い」「緒方一家はそれぞれ金を稼ぐ能力を持っているので、その収入を断つ必要性が無い」などと言い出す始末であった。姪に関しては「将来京都の舞妓はんにすれば金を稼げるから収入になる」等と発言している。そして「Aの父と純子の父以外は死亡の現場に立ち会っていない」「純子の母と妹と自分が肉体関係を持っていたのに対して義弟が一方的に恨んできたので自分はむしろ被害者」等と言い出す始末である。もはや返す言葉が無いとはこのことであろう。そんな主張で殺人罪を一切否定した。また、法廷でもその得意の話術でのらりくらりと追及をかわしていた。
少女Aは「松永と純子が悪魔に見えた」と証言し、両者の死刑で父の仇を取りたいとした。緒方家親族の怒りは語らずとも明らかであり、松永への極刑を望んだ。最終的に検察は両名に死刑を求刑した。論告では「善悪のタガが外れた松永と、指示にひたすら従う実行者の純子は車輪の両輪」「金蔓として利用価値のなくなった被害者の口封じに7人も抹殺するという鬼畜の所業」と表現された。一方、純子の弁護人は死刑回避を、松永の弁護人は全面無罪を主張した。
松永の支配下に同じく置かれていた純子と少女Aの証言はほとんど一致しており、純子は自分が不利になる事も証言した。一方の松永の証言は矛盾が多く一貫性がない。よって純子と少女Aの証言通り、両者が7人を死に至らしめたと認定された。ただし純子の父については傷害致死止まりとし、残りの6人については殺人が認定された。
裁判所はこの一連の事件に対し「甚だしい人命無視」「残酷非道で血も涙も感じられない」「犯罪史上稀に見る凶悪事件」とし、松永については「事件の首謀者」「反省や謝罪がなく、犯罪性向は強固で根深く矯正の見通しは立たない」と厳しい言葉で断じた。
一方純子については「被害者に対して高圧的な態度で臨む」「主体的で積極的に関与した」としつつも「犯行を真摯に反省悔悟し、深く謝罪する気持ちを持つ」「(証言が)真相解明に関与した」「松永の指示なしに暴行・虐待は行っていない」「自ら松永との生活を選択したとはいえ、松永から度々暴行を受けたりして、決して安穏なものではなかった」「犯罪性向は矯正不可能とは言えない」といった同情すべき点が複数挙げられたが、結果としては死刑判決となった。
松永は即日控訴した。純子は死刑を受け入れる姿勢を取っていたが、弁護団の説得で控訴した。
控訴審で純子の弁護団は、純子が激しいDVの状況にあり、心神喪失で責任能力を認められないと主張した。
2007年9月26日、福岡高裁は松永の控訴を棄却して死刑を支持する一方、純子は一審判決を破棄して無期懲役とされた。元警察官の義弟すら殺害を行うなど、松永による虐待・通電は被害者の人格にまで影響を及ぼしたことを考慮すると、純子は松永の暴力支配下にあり従属的であったとされ、自白した事や反省の態度も考慮された。ただし、犯行への主体性を失っていたとは言えないとして無罪主張は退けられた。
松永は懲りずに上告。一方検察は純子の減刑に納得できず上告した。純子は上告しなかった。
松永の上告審でも相変わらず全面無罪を主張した。一方検察は以前の審議では「松永と純子は車軸の両輪」と評していたが、ここでは「松永は純子が言いなりになるよう仕向けた」「(松永は)純子と違い改悛の情は全くない」「純子より(松永の)罪が重いのは明らか」として、二人の違い、力関係を認めた。
2011年12月12日、最高裁は死刑判決を支持。ここに松永太の死刑が確定した。
一方純子の上告審については同日上告が棄却され、緒方純子の無期懲役が確定した。裁判官たちの判断としては死刑も考えなければいけない犯罪であるが、長期間の異常な虐待で指示に従わない事が難しい心理状態の中、松永に従属する形で犯行を行った事、自白が真相解明につながった事などが考慮された末の判決だったとされる。しかし、抵抗する力もない幼い子供2人を手にかけている汚点も裁判官に指摘されている。
関連項目
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