北勝海(1963年6月22日)とは、北海道広尾郡広尾町出身の大相撲力士で第61代横綱である。本名は保志 信芳(ほし のぶよし)。得意技は押し、左四つ、寄り。愛称は「ポチ」、「ブルドッグ」。
概要
昭和38年生まれで、横綱・双羽黒、大関・小錦、関脇・琴ヶ梅、関脇・寺尾(1学年上の早生まれ)、さらには同部屋の小結・孝乃富士(後のプロレスラー安田忠夫)などと同じ「花のサンパチ組」の一人。
中学生時に北の富士から勧誘され九重部屋に入門し、1979年3月場所本名の「保志」で初土俵。師匠の九重(北の富士)曰く「素質ではその辺の力士と変わらないが、稽古熱心さでは100人に1人の素材」であり、ちゃんこ番などの雑用を免除されるほどだった。
兄弟子の横綱・千代の富士との猛稽古で鍛えられ1983年9月場所新入幕、1986年3月場所関脇で初優勝した。この場所は本来の春場所会場である大阪府立体育会館が工事中のため大阪市立中央体育館で開催、千代の富士が途中休場し3年ぶりの横綱不在になるなど異例の場所であったが、保志延芳(1場所だけ改名していた)は史上初めて関脇以下での5大関総なめを達成(後に把瑠都も記録)するなど13勝を挙げた。
その後も三役で好成績を続け同年9月場所大関となる。大関昇進時に四股名を付ける際、当初は「十」の字を入れるつもりだったが、九重が「10勝止まりになりそうだからやめたげてよお!」と発言したため「十」を読みは「と」のまま「勝」に換え「北勝海」とした。1987年3月場所は旋風を起こした白いウルフこと益荒雄を大関以上で唯一退け12勝3敗で優勝、翌5月場所も全勝の大乃国には敗れたが13勝2敗、連続優勝はならなかったものの稽古熱心さや品格の良さが横綱審議委員会に評価され横綱に昇進した。
千代の富士が休場した場所を中心に優勝8回を記録し、2人合わせて10場所連続優勝するなど九重部屋黄金時代を築いた。1989年7月場所には史上初となる同部屋横綱同士の優勝決定戦も経験している(結果は敗戦)。
しかし持病の腰痛や怪我に泣かされ1992年に28歳の若さで引退、以後曙の昇進まで横綱が空位となった。1993年に年寄・八角を襲名し間もなく八角部屋の師匠となった。九重部屋からの独立という見方をされるが、建物や部屋付き親方は北の富士が師匠を務めていた頃の九重部屋からそのまま受け継いでいる(千代の富士は九重部屋継承後に部屋を新築した)。そして海鵬、北勝力、隠岐の海などの関取を育てながら、日本相撲協会の理事を務めるなど千代の富士を凌ぐ順調な出世街道を歩み、2015年12月には第13代理事長に就任した。
弟子には現役時代の四股名の「北勝」や「保志」「海」を与えることが多い。一番弟子の北勝力だけ北勝(ほくとう)なのは北勝海の北勝は「ほくとう」だからと語ったことがある。実際「勝」の字を「とう」と読ませることはあるので「ほく・とう・み」と区切ったほうが無理はない。
同じ十勝地方出身で1学年上の大乃国とはライバルと言われ、後援会長もそれぞれ鈴木宗男と中川昭一が務めるという因縁があった。北勝海が親方となった現在も、鈴木は八角部屋の後援会長である。
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