北条政村(1205~1273)とは、鎌倉時代に活躍した武将である。
概要
北条義時と伊賀朝光の娘・伊賀氏との間に生まれた義時の五男。政村流北条氏の祖。
畠山重忠が討ち取られたまさにその日に生まれる。1213年に三浦義村を烏帽子親として元服し、北条政村となった。1221年の承久の乱で兄・北条泰時、北条朝時らが大将軍となっていったが、このとき17歳の政村の活動は不明である。1223年には九条頼経の近習番となった。
1224年、父親・北条義時が急死する。そこで母親・伊賀氏はその兄伊賀光宗と陰謀を巡らせる。三浦義村を抱き込み、娘婿一条実雅を将軍に、そして政村を執権に付けようとしたのだ。しかしこの陰謀は北条泰時の機敏な鎌倉下向や北条政子の工作によって失敗に終わり、政村は兄・泰時の厚情により連座を免れた。このことがのちの政村に大きな影響を与えたかもしれない。
その後、しばらくは官位の上昇くらいしか記すことがない。1240年に評定衆として幕政の最有力メンバーの一人へとついに選ばれたようだ。このころ北条泰時は息子の北条時氏、北条時実をすでに失い、孫の北条経時に執権を継承させるために、北条時房の息子の北条資時、大仏朝直、弟の北条重時、北条政村の4人を主に頼りにしていたともいえる。その結果がこの抜擢につながったようだ。
その後1246年の宮騒動や1247年の宝治合戦で政村は北条時頼を支持。幕政の安定に伝えた。このころにはまだ原型がようやく作られた寄合衆、1249年に新設された引付衆にも加わっている。さらに1256年には出家した兄・北条重時を継ぎ、連署につき、陸奥守、1257年には相模守に任じられる。
1264年に赤橋長時が亡くなると、得宗流の北条時宗がまだ幼かったため、ついに北条政村が執権となる。時宗の庶兄・北条時輔や名越流のメンバーら反主流派を念のために二月騒動で討ち取り、宗尊親王の更迭や、引付衆の廃止などの重要問題に、北条氏の長老格として取り組んでいった。そして1268年に執権の座を時宗と交代し、再び連署に戻る。蒙古襲来という未曽有の危機に取り組むため、政村は時宗のサポート役として重んじられた。そして1273年に病によって亡くなった。
また政村は和歌にも優れ、勅撰集にもたびたび選ばれている。
関連項目
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