北条貞時(1271~1311)とは、鎌倉時代に活躍した武将である。
概要
北条時宗と安達義景の娘との間に生まれた。幼名は幸寿丸。正室は従兄弟の北条宗政の娘だが、嫡子・北条高時は大室泰宗の娘との間に生まれている。
1277年に元服、1282年に左馬権頭となる。1284年に父・北条時宗が亡くなると、貞時は武蔵・伊豆・駿河・若狭・美作といった得宗分国を継承し、14歳の若さで執権に、翌年には相模守に任じられた。
父・北条時宗の弘安年間は得宗専制政治の成立期であると同時に、外様かつ外戚・後見人の安達泰盛と、御内人の平頼綱が幕府の路線と権勢をめぐって争っている時期であった。安達泰盛は時宗の死後も貞時の外祖父・後見人として「弘安徳政」を推し進めていったが、時宗の死によって既に両者のバランスは崩れていたのであった。
その結果起きたのが1285年の霜月騒動である。御内人と安達一族が戦い、安達泰盛、泰盛子息・安達宗景、泰盛弟・安達長景、安達時景らは自害・討死していったのであった。乱後、鎌倉では泰盛娘婿・金沢顕時、妹婿・宇都宮景綱、長井時秀らが流罪・罷免といった処罰を加えられた。貞時に平頼綱を抑える力はなく、内管領平頼綱の専制期へと移ることとなる。
1280年代後半、ようやく貞時が親政を始めつつある頃、依然として平頼綱の専制は続いており、将軍であり一時は源氏にも擬された惟康親王が廃され、後深草天皇の息子・久明親王が新たに迎えられたのである。
しかし、1293年平禅門の乱で、平頼綱が討ち取られた。この背景に何か陰謀らしきものがあったとは思われるが、外様勢力の動きは見いだせず、ただ得宗専制政治の強化、御内人勢力の増大につながったのである。
こうして、北条貞時が実権を握る。しかし、引付衆の廃止などは失敗し、1301年に従兄弟で娘婿の北条師時に執権の座を譲って31歳で出家してしまった。ところがその後も寄合衆を自邸に集め、依然として彼のもとに権力があったのである。
1305年、連署の北条時村が殺害され、引付衆一番頭人の大仏宗宣らが貞時の従兄弟・北条宗方をその犯人として誅殺する、という嘉元の乱が起きる。この事件には謎が多く、得宗専制を目指す貞時による庶家弾圧が失敗し、やむなく宗方を切り捨てざるを得なかったともいわれている。
ともあれ、この事件がきっかけで貞時は政務へのやる気を失い、1308年に久明親王から守邦親王へと将軍が代わったことくらいしか以後特筆すべきことはない。そして1311年、41歳で病死し、いよいよ得宗は最後の北条高時へと移っていく。
関連項目
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