北条重時(1198~1261)とは、鎌倉時代に活躍した武将である。
概要
北条義時と比企朝宗の娘・姫前の間に生まれた義時の三男。極楽寺流北条氏の祖。
いつ元服したかわからず、1219年の九条頼経の東下の随兵の中にその名があり、その後小侍所別当に就任したのが初見である。1221年の承久の乱の際にも、兄・北条泰時、北条朝時、叔父・北条時房が軍を率いたのに対し、おそらく鎌倉にいたと思われる。
1223年に駿河守に任じられ、おそらく1224年に父・北条義時から信濃守護職を譲られている。この信濃守護職は以後も極楽寺流北条氏に代々継がれていくこととなった。
1230年には病魔に侵された北条時氏の後任として、六波羅探題北方に就任。以後17年にわたり京都を治め、兄の泰時とともに鎌倉幕府の全国支配体制確立の基礎を築いた。また藤原定家とは親密な関係にあったなど、京の皇族や公家にも好かれていたようだ。1237年には鎌倉幕府の重職である相模守に任じられ、兄の北条朝時とは対照的に地位を向上させていった。
1247年に宝治合戦で三浦泰村らが滅ぶのも京で見守っていた。しかし息子の赤橋長時を鎌倉に下向させているなど、情報収集は怠っていなかったようだ。そして同年、六波羅探題を長時に任せ、ついに鎌倉に戻る。娘婿で新執権である北条時頼はまだ若く、そのサポートに向かったようだ。1249年には同じく幕府の重職である陸奥守に任じられている。そして1253年に朝廷から宗尊親王を新将軍として迎えた。
1256年に出家し、息子の赤橋長時が鎌倉に戻り、後任には同じく息子の常盤時茂がついた。長時はまだ幼い北条時宗の中継ぎとして執権につき、その支えとなった。一方重時はまだ年中行事には参加し、依然重んじられていた。しかし1261年、ついに病で没することとなる。
関連項目
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