穏やかな政権運営
鎌倉幕府第14代執権にして、最期の得宗。父は北条貞時、母は大室泰宗(安達泰宗)の娘、同母弟に北条泰家がいる。『太平記』では闘犬と田楽にかまけ御内人である長崎高資の専横を招き、幕府の凋落を止められずついに身を滅ぼした行動的な暗君として描かれるが、実際は病弱で温和な文化人であったことが金沢文庫に残された書状から明らかにされている。
彼は1303年に生まれた後、1309年に元服し1311年には左馬権守、小侍所別当に就任した。父である北条貞時は御内人の得宗家公文所執事・長崎高綱、外戚・安達時顕、執権・大仏宗宣、連署・北条煕時らに後事を託し1311年に亡くなった。その後高時が親政を行えるまで執権のリレーが続き、1316年にようやく執権に就任したのである。
北条高時政権下では連署・金沢貞顕、御内人・長崎高綱、外戚・安達時顕らの寄合衆に加え高時母・大方殿によって運営されたが、彼らに共通して言えることは徹底的に先例を遵守した穏やかな政権運営を行ったことである。しかし、彼らのころの鎌倉幕府には
- 温暖期から小氷期への気候変動による寒冷化
- 文保の和談に端を発する両統迭立、さらに大覚寺統内の分裂による公家政権の内訌
- 貨幣経済の移行による御家人制の衰退
- 霜月騒動、平禅門の乱、嘉元の乱といった混乱の反動
といった課題を抱えており、言ってみれば波風を好まない人々による政権は不向きな状況だったのである。それが具体的にあらわれたのが、東北の津軽安東氏の内訌の泥沼化や正中の変の後醍醐天皇に対し何も追及しなかった穏便な解決だったのである。
しかしながらこの頃はまだ、次の世代となる中堅層にも長崎高資、二階堂貞藤、摂津親鑒といった個性的な人材がそろっており、こうした有能な官僚集団によってそつなく政権運営が行われていったのである。
分裂と滅亡
しかし1326年に北条高時の病気が重くなってしまうと、高時は執権を辞し嘉暦の騒動が起きる。
御内人五代院宗繁を外戚とする高時の嫡子・北条邦時は生後100日前後であったため、北条貞時、高時の時と同様中継ぎの執権が必要になったのである。これに対し長崎高綱は金沢貞顕にそれを依頼しようとしたが、外戚の地位を失うことを嫌った安達時顕は高時の弟・北条泰家を推挙したのである。結局貞顕が執権になったのであったが泰家派は全員出家し、身の危険を感じた貞顕は赤橋守時に執権を交代したのであった。
結局高時の病は回復したことで無用の騒動になったのだが、この亀裂が高時の求心力の低下と政権運営を難しいものにしていった。
一方朝廷では邦良親王が亡くなったことから、持明院統の量仁親王即位のために後醍醐天皇退位を要求する嘉暦・元徳の皇位継承問題が起こったのである。加えて大覚寺統内でも量仁親王の次の皇位は邦良親王の息子・康仁王と考えられており、中継ぎにすぎない後醍醐天皇の系統には皇位を継がせない方向で固まりつつあった。
一方それを対処する鎌倉幕府でも世代交代が起きており、長崎氏は長崎高綱から長崎高資という強権的な人物に、二階堂氏は二階堂行貞の後任をめぐって二階堂貞衝と二階堂貞藤の争いが表面化、貞藤は安達時顕を味方につけ金沢貞顕を敵に回す、という状況に陥り、とてもではないが皇位継承問題どころではなかったのである。
そしてついに元弘の変で後醍醐天皇の討幕の密議が明らかになるが、一方で北条高時による長崎高資を討つ陰謀が露見し、高時が主導権を失ったことが明らかになったのである。執権である赤橋守時は辞意を示し始め、連署も敏腕だった大仏維貞が亡くなり北条茂時に代わり、鎌倉幕府運営を主導する存在がどこにもいなくなってしまったのである。
こうしてついに元弘の乱が生じ、後醍醐天皇に代わって光厳天皇が即位し康仁親王が東宮になるという両統迭立が実行されたが、すでに後醍醐天皇を支持する不満分子の蜂起が相次いでいた。一度目の蜂起は鎮圧できたが、楠木正成、護良親王、赤松則村らが相次いで蜂起し、六波羅探題へ迫った軍は宇都宮公綱が対処したものの、遠征軍の総大将・名越高家が赤松軍に討ち取られる。
そして、足利高氏の離反による六波羅探題陥落、新田義貞の離反と足利千寿王(足利義詮)の挙兵による鎌倉攻略でついに、北条高時、金沢貞顕、長崎高綱、安達時顕といった人々は自害して果てていったのであった。
一方、弟の北条泰家は北条高時の次子・北条時行を連れて鎌倉から脱出していった…
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