概要
古代中国・後漢時代、世は乱れていた。というのも、時の中国皇帝・霊帝は人民に重い賦役・租税を課し、官位さえも売り出して金を酒と女に費やす有様だったからである。この時に売りだされた官位を大量に買い入れ、得た官位「中常侍」を使って皇帝に取り入った宦官がいた。彼らは買い入れた役職から「十常侍」と呼ばれたのである。
三国志が始まる以前から十常侍を含む宦官は幾多の政争に勝利しており、宮中でもかなりの権勢を誇っていたが、最大の宦官排斥政争「党錮の禁」に勝利し、政敵であった清流派士人をほとんど誅滅したことにより、三国志が始まった当初の権勢は揺るぎなかった。
この頃になると霊帝も十常侍の傀儡となるしかなく、十常侍は文字通り皇帝に常に侍り、帝の詔勅を操って権力をほしいままにした。
宦官は、皇帝への忠節と貞節の証として男根を切り落として宮中に入るため子を成せない。しかし養子を取ることは認められていたため、その養子や養子の親族が地方官として送り込まれた。それらが各地で皇帝の威を借りた略奪や暴行、重税徴収などをしまくったために各地で不満が爆発、黄巾の乱の主因となる。
そして、黄巾の乱とそれに続く何進と袁紹による宦官排斥運動により十常侍を含めた宦官はほとんどが殺され、張讓・趙忠は霊帝の子を連れて宮中から逃げ出すも追手に捕まることを恐れて"自殺"。霊帝の子は"偶然"そこを通りかかった董卓により保護された。
十常侍の跳梁をして、黄巾の乱以降宦官は政治参画にかなりの制限を加えられることになるが、それでも宦官は皇帝にとって便利な人物であったため、魏が滅亡して普になるとまた国政を壟断するようになったという。
構成
正史三国志では張讓、趙忠、夏惲、段珪、郭勝、孫璋、畢嵐、栗嵩、高望、張恭、韓悝(かんかい)、宋典の12人、
三国志演義では張譲、趙忠、夏惲、段珪、郭勝、封諝、曹節、侯覧、蹇碩、程曠(ていこう)の10人が十常侍であった。
特に張譲と趙忠は両方で十常侍の顔役として名が挙がっており、霊帝から「我が父、我が母」と言われるほど重用されたという。
また演義でのみメンバー入りしている蹇碩は、正史では宦官ながら身体壮健にして武略が有るとされ、霊帝の近衛軍「西園八校尉」の筆頭に任命され、大将軍何進より上位の位に置かれた。もっとも霊帝死後何進との政争に敗れアッサリ殺害されているが。
十常侍なのに12人ということで、これこそ元祖四天王というやつかもしれない。
これは十が概数、いわゆる「サバを読んだ数字」だからである。
仮想世界において
関連動画
上述の通りまともな出演作品が三国志大戦しかないため、三国志大戦の投稿動画が本タグの大半を占める。
関連項目
- 8
- 0pt