千手扉間とは、漫画『NARUTO』に登場するキャラクターである。愛称は「二代目」「卑劣様」など。
概要
木の葉隠れの里の二代目火影であり、初代火影千手柱間の弟。弟子には、三代目火影の猿飛ヒルゼンや根のリーダーの志村ダンゾウなどがいる。
兄の意思を受け継ぎ忍者学校(アカデミー)の設立や木の葉警務部隊の設立など里の基盤を作り上げた。忍者としての実力も水遁の術と時空間忍術に長け、広範囲の感知能力も備えているなど作中でも最高クラス。「飛雷神」「影分身」などの多くの高等忍術の開発もしている。忍界大戦での雲隠れの里との和平の際に雲隠れの金角銀角兄弟のクーデターを受け、部下を逃がすために自らが囮となり死亡した。
開発した術の中には、木の葉崩しや第四次忍界大戦で猛威を振るった禁術、「穢土転生」も含まれており、彼の考案した時点ではまだ未完成であったとはいえ、「生きた人間を生贄にする」という非人道的な発動条件、術そのものの凶悪さなど、この術を開発したことについては作中でも非難されることが多い。
兄の千手柱間と同じく世界の平和と安定を求めて行動している人間だが、理想主義者の柱間とは違ってリアリストであり、里の脅威になりかねないうちは一族を隔離するなど卑劣な非情な行動も多々見られる。ただし、これは警察組織の独占という優遇措置を与えた上でのことであり、うちはは政治の中枢から遠ざけられながらもエリート一族として里の羨望を集めていた。うちは一族の行いを考えれば彼らに厳しい目を向けるのは当然であり、その上でなお扉間は彼らを里の中で活かす道を模索し、一定の成果を上げたといえる。また、うちはカガミのように一族であっても信頼し重用していた者はおり、彼らを警戒しながらも一律に差別的な扱いはしていない。
木の葉崩しの際に大蛇丸の穢土転生によって復活するが穢土転生の術が完璧ではなかったため実力はかなり制限されていた(というか彼や柱間は制限しないと制御を破ってしまう)。初代と共に三代目火影と戦い致命傷を与えるが、三代目の屍鬼封尽によって封印された。その後第四次忍界大戦の際に大蛇丸によって再度復活させられ、他の火影と共にうちはマダラとの決戦に挑む。
上述の通り極めて合理的かつ冷徹な考えの持ち主であり、一方で柱間の理想に理解を示すだけの情もあり、単に冷酷なだけではなく多くのために最善を考えて判断を下せる人物である。劇中で開発者として示した「穢土転生」の使い方は戦争においてあまりにも効率的な上に背筋が寒くなるようなもので、敵であった者に卑劣呼ばわりされるのはまあ事実なので仕方ないが、味方としては人格面も含め非常に頼もしく、同時に絶対に敵に回したくない存在といえる。
その人柄と忍びとしての才覚、幼少期に既に至っていた「憎しみを抑え、耐え忍ぶ」という反戦に至る思想など、読者から作中で最も忍者らしい人物とよく称されるキャラクターである。
使用術
- 影分身の術・多重影分身の術
開発者でもある。ただし扉間自身が影分身を使うシーンは多くはない。
映像のみを作り出す普通の分身とは違い、チャクラを使って実体のある分身を生み出す術。実体のある分身としては水分身やら砂分身やらいろいろあるが、特に媒介が無くてもチャクラのみで生み出せる。
術者のチャクラを等分して分身全員に分割してしまうというリスクがあるため、現在の木の葉では基本的に禁術指定されており、2~3人程度の影分身を上忍レベルが使う程度である。
上位版の多重影分身に至っては膨大なチャクラを持たなければ自殺行為となるが、ナルトが盗んだ巻物には一発目にいきなり書かれており、巻物を盗み見た者を殺す罠ではないかという考察もある。 - 飛雷神の術
開発者。この術をもって「最速」と呼ばれ、うちはマダラにも警戒された。
時空間忍術の一種で、術者によるマーキングが書き込まれた物を目標にして、自分自身を口寄せする。正真正銘の瞬間移動であり、さらにはマーキングの準備さえあれば印無しで即座に発動できるため、傍から見ている者にはすさまじく早い瞬身の術に見える。
特別上忍クラスでも数人がかりでやっと発動できる高度な術で、単独で多用できるのは他に四代目火影・波風ミナトのみ。使い手としてはミナトの方が上だと扉間も認めている。
なお、扉間とミナトが死亡してしまった今、きちんとした形で飛雷神の術を使える忍はいなくなってしまったのだが、扉間から見てミナトはひ孫弟子の世代であり師弟関係は無かった=扉間から学んだ訳では無いと思われる事を考えると、木の葉の里のどこかには飛雷神の術を記した巻物が存在しているのだろう。 - 穢土転生
開発者。二代目火影の卑劣な術と言われた忍史上最悪とも言える術。
詳しくは個別記事にて。 -
水遁
ほぼ全ての性質変化を使いこなすとされているが、作中では水遁を多用していた。
水の無い所でこのレベルの水遁
大蛇丸によって穢土転生され、三代目火影ヒルゼンと戦った時に使った水遁を見て、木の葉暗部が「水の無い所でこのレベルの水遁を…!」と驚愕しており、水遁の威力を強調する描写があった。
しかし、その後さらにそれを上回るレベルの超大規模水遁を行使する干柿鬼鮫が現れた事で、「実はたいしたことないんじゃないのか?」という疑惑が持ち上がったが…。
- 大蛇丸による穢土転生時は、柱間細胞を手に入れる前の大蛇丸で完全制御できるほどにレベルを落とした状態であった(その状態でも暗部が驚愕するほど)。
- そもそも扉間は威力と速度を重視した効率的な水遁を好み、大規模な質量攻撃は使わない傾向が強い。一方で、鬼鮫が使った大規模水遁は辺り一帯を水で埋め尽くす「フィールド作り」のための術であり、規模が違うのは当然。
- 鬼鮫は「尾の無い尾獣」という異名を持つほど、忍としてはイレギュラーと言えるほど大量のチャクラを持つ人物。しかも、サメを思わせる身体的特徴から「ただの人間」とは言い難い人物で、水遁に特化した特異体質を持っている可能性が高い。
これらの事情から、比較の方法が間違っているのでは、という声も強い。
卑劣様
ナルトス、およびニコニコの関連の動画の中では扉間は「卑劣様」の蔑称愛称で通っている。
何が卑劣なのか? もちろん卑劣様が卑劣だからなのだが、以下に卑劣様が卑劣だとされる理由を挙げていく。
- 「穢土転生」の開発者である
穢土転生は様々な人物が人道から大きく外れた外道の術だと認識している。穢土転生された二代目土影に至っては、作中で「二代目火影の卑劣な術だ」とはっきり言っている。 - 言動・思考が非常に合理的・現実的である
これ自体は別に卑劣でも何でもなく、むしろ忍として、大勢の部下をかかえる上司として有能である事の証左なのだが、おおらかで気さくで理想主義者よりの初代火影(柱間)や愛・悲しみに強く関わるうちは一族との対比で卑劣に見えてしまう。
元は回想での登場が主だった頃のコラ画像中心のネタだったが、本編で復活して以降はその活躍で大いに株を上げる一方、その戦術と言動の数々でさらに「卑劣」の風評が加速し、「卑劣様」の印象が全然覆らないどころか活躍すればするほど強まる事態に陥る。
そんな訳で、卑劣様の使う忍術は「卑遁」、卑劣様の持つ意志は「卑の意志」などと言われる。
ナルトスで作られる二代目火影関連コラも、卑劣様の卑劣な所業をまとめたものが多い。
代表的な卑遁
- 卑遁・囮寄せの術
口寄せの術の一種。何が卑劣なのかと言うと、囮にする他者を口寄せすること。 - 卑遁・クーリングオフ
こちらに向けて発射されたチャクラ弾などを、相手の元に送り返す術。
卑雷神の術の応用であるため一度は自分も一緒に飛ばなければならないのだが、悟空のような自己犠牲ではなく、卑雷神の術でさっさと離脱するか、そもそも分身を飛ばすので卑劣様自身には影響は無い。 - 卑遁・卑雷神斬り
卑雷神のマーキングをつけたクナイを飛ばし、クナイが相手に接近した瞬間にクナイの場所に飛び、相手に一気に急接近して斬る卑劣な技。 - 卑遁・掌返しの術
文字通り卑劣にも掌をすぐ返すこと。兄者以上と持ち上げたと思ったらバカと貶したり日常茶飯事。
卑劣な策略のためにやっているのか、本心でそう思っているのかは不明。
本当に卑劣だったのか
本編の話に戻るが、扉間は果たして本当に卑劣な人物だったのだろうか。
- うちは迫害の原因
本編の時代(の少し前)において、うちは一族は迫害を受けた結果クーデターを目論見、イタチによってサスケを除いて皆殺しになっている訳だが、大蛇丸がこれを「二代目の政策に端を発している」「強い権力を持つ者は嫌われ者になりやすい」と評しているが、これは正しくない。
うちはが迫害を受けるようになった直接の原因は、「九尾襲撃事件の時に警務部たるうちは一族が揃って不在だった」と言う大失態を犯したからであり、うちは一族が強権を振るって嫌われていた訳では無い。少なくとも、扉間の時代ではうちは一族はエリート中のエリートとして里中の憧れの的であった。
もっとも、この九尾襲撃事件の際の不在も怠慢からの不在などではなく、里の上部からの命令に従った結果襲撃事件に駆けつけられなかったからであり、言ってしまえばダンゾウの差し金である。扉間は関係ない。 - 穢土転生の術
卑劣様の愛称の発端でもある、二代目土影の「これは二代目火影の卑劣な術だ」との評であるが、倫理的に一線を踏み越えた術である事は間違いないのだが、扉間が生きていた戦争時代は平和な時代の物差しでは計れない。
例えばお人よしで理想主義の柱間でさえ「あまりいい術ではない」との評に留めている辺り、当時はそのような非道な手段を用いてもある程度許容されるような陰惨な戦争が続く時代であった事が伺える。 - 徹底的な合理主義
上でも書いているがこれ自体は卑劣な訳ではなくあくまで柱間との対比のせいなのだが、扉間には柱間のような里に住まう者に対する愛情が無かったのかと言うとそんな事は全く無い。
彼は覚悟や実力が無いものに無理強いをする事は決してなく、後進が育つ所を見て嬉しく思うなど、彼も柱間と同じように愛情溢れる人物である。ただ、目的達成の手段が合理さ優先だっただけであり、彼は理想と現実のバランスをしっかりと持っていた。ここを間違えるとダンゾウのようになる。
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関連項目
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