升田幸三とは、将棋棋士である(故人)。実力制第4代名人。木見金治郎九段門下、棋士番号18。
概要
1918年、広島県双三郡三良坂町(現三次市)生まれ。プロ棋士になった後は名人・木村義雄、永世九段・塚田正夫、弟弟子の大山康晴らと覇を競った。当時の三冠(名人・王将・九段)独占などの輝かしい戦績に加え、「(捕虜を虐待する野蛮なゲームだとして)将棋を禁止しようとしたGHQに真っ向から反論」「名人である木村に対し、『名人など所詮はゴミのようなもの』と発言[1]」など、数多くのエピソードで知られる。
系譜
木見金治郎門下。ただし、関西棋界において、木見のライバルであった坂田三吉から後継者と目されていた。
兄弟弟子は、村上真一、中井捨吉、大野源一、角田三男、上田三三、大山康晴、山中和正、西本馨、橋本三治、二見敬三。
プロになった弟子に桐谷広人がいたほか、桐山清澄を内弟子として取っていたことがある(桐山がホームシックになってしまい関西に帰ってしまった)。桐谷から大平武洋と今泉健司に繋がり、大平から長谷部浩平が輩出されている。長谷部は升田に憧れたため、大平の弟子になったという。また、実質的な後継者は加藤一二三と目されていた。
新手一生
「プロはファンにとって面白い将棋を指す義務がある」との言葉を残し、生涯「魅せる将棋」にこだわった升田が掲げていた言葉に「新手一生」がある。実際升田が指した新手は数多く、
などを編み出した。中でも、素人騙しのハメ手とされていた早石田に独自のアレンジを加えた「升田式石田流」は、現在でもプロ棋戦でたびたび登場する戦法としてその名を残している。
その功績を記念して、新手や新戦法を編み出した棋士を表彰する「升田幸三賞」が、升田の没後3年余り経った1995年から設けられている。
「名人に香車を引いて勝つ」
広島県の寒村の農家に生まれた升田は、兄に将棋を教えられメキメキとつよくなった。とはいえ最初は棋士になるつもりはなく、剣道家を志していたが自転車の事故で足を怪我して断念。それならば、と将棋で身を立てる事を目指す。しかし、厳格な母が棋士になることを許してくれなかった為、14歳にして家を飛び出した。この時、母の物差しに書き残したのが有名な「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪へ行く[2]」の一文である。
名人、つまり当代の最高実力者に対して香落ちというハンデを負って勝つという荒唐無稽な目標だが、升田は長じてこの目標を達成することになる。
升田が木村義雄のライバルと目されるようになっていた1952年、将棋の新たなタイトルとして「王将戦」が企画された。新規のタイトル戦として話題性を求めた企画側は「三番手直り」というルールを設けた。これは、七番勝負ながら三勝差が付いた場合その時点でタイトルの獲得が決定し、以降の勝負は半香、つまり二回に一度香落ちで消化試合を行うというものだった。
制度上たとえ名人であっても格下の扱いで勝負を取らされる事が起こりうるルールであった為、升田をはじめとした将棋関係者から異論が噴出したが、木村名人の「名人ともあろうものが三番差をつけられることなどありえない」という鶴の一声でこのルールが通ってしまう。
しかし、皮肉なことに第一期王将戦において、指し込みルールに反対した升田が賛成した名人木村に三勝差をつけ香落ち戦を決めてしまう。名人がハンデを貰うと言う前代未聞の事態に日本中が騒然とするが、結果としてこのハンデ戦が行われることはなかった。対局の舞台として用意された陣屋という旅館に現れた升田が「旅館の対応が悪い」と言って陣屋での対戦を拒否してしまったのだ。升田は本当に旅館(というより棋界関係者)の対応に腹を立てていたとも、名人の権威に傷をつけない為わざと言いがかりをつけ対戦を潰したとも言われるが、結局対局が行われることはなく、この一件は日本中で議論をよんだ。これが、世に言う「陣屋事件」である。一時は升田に一年間の対局禁止処分が下されかけたが、結局この対局は升田の不戦敗、続く最終局は予定通り平手で指し、処分は木村任せという形で落ち着いた。
時は下って四年後の第五期王将戦。升田は再度名人を香落ちに追い込む。相手は弟弟子である大山康晴で、第一局から三連勝での指し込みであった。この時は通常通り対局を行い、見事香落ちで大山を破る。「名人に香車を引いて勝つ」を成し遂げた瞬間であった。
現在では王将戦のルールも改定され、公式戦において名人が駒を落とされて対局することはありえない[3]。勿論升田以前に名人と香落ちで対局した棋士もいない為、「名人に香車を引いて勝った男」は升田幸三ただ一人の為の称号となっている。
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関連項目
脚注
- *この発言に怒った木村が「じゃああんたはなんだ」と切り返したところ、「ゴミにたかる蠅ですな」と受け流した
- *「香車を引いて勝つ為」ならともかく「香車を引いて勝ったら」では意味が通らないように思えるが、これは少年時代の升田の勘違いによるもの。当時升田は(大阪名人と呼ばれた阪田三吉の存在もあり)大都市にはそれぞれ名人がいるものだと思っており、「「広島名人」に香落ちで勝てるくらいの実力になったら(激戦区である)大阪へ移る」という決意を記したつもりだった
- *ただし、名人に対する指しこみの記録は、羽生善治が第49期(1999年度)の佐藤康光(挑戦者)と第54期(2004年度)の森内俊之(王将保持者)に対し、達成している。
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