南海ホークスとは、福岡ソフトバンクホークスの前々身球団である。
概要
関西の大手私鉄である南海電気鉄道傘下で活動していたプロ野球チーム。
本拠地は大阪球場。チームカラーは緑。
『Hawks』という緑の筆記体で書かれたユニフォームは伝統の一つで、1988年まで一度もこのネームデザインを変えなかった。また、南海伝統の緑色ビジターユニフォームもファンの間で愛され続けていた。
1938年に『南海軍』として発足した。
阪神電気鉄道の大阪タイガース(現:阪神タイガース)、阪神急行電鉄の阪急軍(現:オリックス・バファローズ)に続く、関西私鉄としては3つ目の球団であった。
1944年に、南海鉄道が関西急行鉄道と合併して近畿日本鉄道となったため、球団名も親会社に倣い『近畿日本』と改称された。1946年には『近畿グレートリング』(近鉄の母体となった大阪電気軌道=大軌より)と名乗るが、翌1947年に南海鉄道が近鉄から離脱し、球団の経営権もこちらに戻ったため、球団名は『南海ホークス』と改称された。
この名称が、球団がダイエーに売却される1988年シーズンまで使用されることになった。
パ・リーグの結成された1950年から1966年まで、17年連続2位以上、優勝9回と鶴岡一人監督の元で黄金時代を築いた。
南海ホークスは金払いが良く、高給取りの多いチームであったが、鶴岡のよき理解者であった小原英一オーナーが1959年に急逝すると、フロントは一気にシブチンに転化する。3年連続で二冠王に輝いた野村克也が減俸提示を受けたのもこの時期である。鶴岡とフロントの関係もこじれにこじれていた。
前年に阪神タイガースを下して日本一となり、2連覇で臨んだ1965年の日本シリーズであったが、読売ジャイアンツに1勝4敗で敗れてしまう(この年より巨人V9)。敗戦後に鶴岡は辞意を表明し、ヘッドコーチであった蔭山和夫の監督昇格が決まった。しかし、就任して4日後に蔭山は急逝してしまい、責任を感じた鶴岡が監督に復帰することになった。
1966年はパ・リーグ3連覇を果たすものの、翌1967年は4位に低迷する。1968年は捲土重来を期すものの、阪急ブレーブスに1ゲーム差で及ばず、鶴岡は今度こそユニフォームを脱いだ。結果的に、1964年が南海ホークス最後の日本一となった。
1969年はヘッドコーチの飯田徳治が監督に昇格する。しかし、前年352.1イニングの酷使に耐えたエースの皆川睦雄や主砲の野村克也が故障し、チームは最下位に転落する。オフに飯田は監督を辞した。
1968年よりオーナーとなった川勝傳(電鉄本社が前年と併せて「南海3大事故」と呼ばれる大事故を起こしており、経営陣が引責辞任していた)は野村克也を寵愛しており、野村の兼任監督就任を強く推した。野村は球団からの全面的なバックアップを条件に監督就任を受諾した。年俸は1億円と言われている(現在の価値で5億円以上か)。
兼任監督初年度の1970年は、ルーキーの佐藤道郎のフル回転でチームを2位に引き上げた。佐藤はほぼリリーフ専任ながら最優秀防御率を獲得し、新人王にも選出された。しかし、翌1971年は頼みの佐藤が不調で、4位に転落してしまった。その一方、2年目の門田博光が打点王に輝くという明るい話題もあった。オフに東映フライヤーズとの間でトレードが成立し、江本孟紀を獲得した。
1972年は江本が前年の未勝利からいきなりの16勝と大飛躍を遂げ、佐藤も復調して投手力が向上した。しかし打線に元気がなく、2位にゲーム差なしの3位に終わった。オフに読売ジャイアンツとの間で超大型トレードが成立し、看板選手の一人であった富田勝を放出して山内新一と松原明夫を獲得した。この時点ですでに野村と選手の対立は始まっており、長年チームを支えた三浦清弘が太平洋クラブライオンズに放出された。
1973年シーズンより、パ・リーグに前期後期制が導入された。追いすがるロッテオリオンズを振り切って前期優勝を果たすも、後期は阪急ブレーブスに0勝12敗1分の体たらくで3位に沈んだ(シーズン勝率でも3位)。しかし、プレーオフでは後期優勝の阪急を3勝2敗で下し、見事リーグ優勝を果たした(「死んだふり優勝」とも呼ばれた)。読売ジャイアンツとの対戦となった日本シリーズでは、初戦こそ獲ったもののそこから4連敗を喫して敗れ去った。結果的に、この年が南海ホークス最後のパ・リーグ優勝となってしまった。
1974年は野村が故障で欠場続きとなり、前期は4位に低迷した。後期は持ち直したものの2位に終わり、プレーオフ出場はならなかった。佐藤が2回目の最優秀防御率に輝くなど、投手力は安定していた(チーム防御率1位)。翌1975年も2年連続でチーム防御率1位になるほど投手力は安定していたが、貧打に苦しみ、ついに5位にまで転落した(前期5位、後期3位)。
この時期、野村の愛人である伊東芳枝(後の野村沙知代)の現場介入により野村と選手との溝が深まっていた。オフに江本と西岡三四郎が野村に抗議したが、結局江本は阪神タイガース、西岡は中日ドラゴンズに放出された。そして、江本との交換で南海ホークスにやってきたのが江夏豊である。
迎えた1976年、江夏は期待を裏切ったものの、新井宏昌と柏原純一がレギュラーに名乗りを上げて打線が強化され、3年連続でチーム防御率1位になるほど安定した投手力もあって2位に復調した(前期2位、後期2位)。翌1977年も江夏は相変わらずであったが、「プロ野球に革命を起こそう」と口説き落とし、6月にようやくストッパー転向を了承させた。4年連続でチーム防御率1位になるほど投手力は安定していたが、2位に終わる(前期2位、後期3位)。いや、平穏には終われなかった。
シーズン終了直前の9月28日、ワンマンオーナーの川勝がついに野村を庇い切れなくなり、「公私混同」を理由に解任を通告するに至った。この年限りで現役引退した広瀬叔功が後任監督に決まるも、野村の解任に異議を唱えた江夏や柏原が退団する騒ぎも起きてしまった。
自ら野村の首を斬ることになってしまって以降の川勝はすっかりシブチンになってしまい、チームは年々弱体化していった。年俸が高くなると簡単に放出してしまうことから、阪急ブレーブスの上田利治監督に「あれは補強やない、補弱や」と揶揄される始末であった。ドラフト会議でも、契約金の高い即戦力ではなく高校生ばかりを指名したため低迷は長引いた。
1988年4月23日、オーナーの川勝の訃報が届いた。川勝以外の経営陣は皆ホークスを維持し続けることに否定的であり、身売りが確定的とされた。8月にダイエーが買収の意向を示していることが明らかとなり、9月13日についにダイエーへの球団譲渡が正式に発表された(なお連続Bクラスはその後も実に1997年まで続いた。この20年連続Bクラス入りは日本記録である)。
の3つを条件としたが(これに球団譲渡金60億円を要求したが、半額に値切られたとされる)、杉浦は「自分の留任を条件にするな」と拒絶した。9月23日の中内功社長との直接会談で杉浦は監督留任を快諾したが、用地の買収や県や市への働きかけ、地元企業への支援を求めるためには、ダイエー側としても杉浦というビッグネームは絶対に必要だったのだという。
現在はダイエーからソフトバンクに球団経営権が移っているが、今なお「ホークス」の名は冠され続けている。
「福岡ダイエーホークス」「福岡ソフトバンクホークス」となって以降も、南海時代の球団歌『南海ホークスの歌』を歌い続ける『全国緑士グループ』という私設応援団がある。
2008年には、福岡ソフトバンクホークスが南海電鉄の協力で緑のユニフォームを復刻した。これ以降ホークスは「レジェンドシリーズ」と称して緑のユニフォームを着用する試合を不定期で開催している。
2010年オフ、大道典嘉が引退したことで、南海ホークスに所属した経験のある現役選手がついに姿を消した。
球団名の逸話
グレードリングからホークスに変わる際にすったもんだな話が多い。
まず、グレードリングからホークスに変えた理由は進駐軍の兵士から予期せぬ喝采を浴びたことで疑問に思った人達が理由を確認したところ、女性器のスラング[1]だったことと南海と近鉄の経営分離もあって、名前を変えることになった。
名前を変える際にあたって、南海の社章が「速さ」を表す「羽の生えた車輪」であることをモチーフに「鳥の名前」とすることがまず決まり、最初は「コンドルズ」という名前を有力候補にしていた[2]。しかし、決まりかけていた時に当時の南海の社長が見事にハゲ頭であったため、選考していた人達が「ハゲタカ[3]はまずい」という判断でホークスに急遽変更した逸話がある。
大阪球場
正式名称は大阪スタヂアム。
南海電鉄のターミナル駅である南海難波駅の南口に隣接していた。
狭いスペースに何とか建てた為、スタンドがやたらと急で、まるですり鉢のようであったことで有名。当然グラウンドも狭く、中西太はバットを折りながらも打球をスタンドまで運んだと言われている。「日本一狭い」と言われた球場であったが、1972年に拡張工事を行い、当時としては「日本一広い」球場となった。
関西随一の繁華街である難波の玄関口という立地は、阪神甲子園球場や阪急西宮スタジアム、大阪ドームなどと比べてもさらに頭ひとつ抜けて優れたものであり、アクセスのよさは随一であった。
が、南海ホークスが活躍していた頃は、巨人戦や阪神戦ばかりがテレビ中継で大きな人気を獲得し、パ・リーグの影が薄い時代であったため、ここまでの好立地にも関わらず、客の入りは残念なものであった。
1998年に完全に解体され、跡地は商業団地『なんばパークス』として再開発された。
このなんばパークス内に、南海ホークスメモリアルギャラリーという施設が作られている。南海の名選手の写真や手形、ユニフォームや優勝テナントが展示されており、南海時代を知る野球ファンに人気のスポットとなっている。ちなみに、選手兼任監督として活躍した野村克也だが、彼に関するものは長らく一切展示されていなかった。これは退団時に野村と球団がもめたためと言われる。野村の死後2020年10月になって江本孟紀が発起人となり、彼の遺品が展示されることとなった。
大百科に記事のある南海戦士
あ行 | か行 |
---|---|
さ行 | た行 |
な行 | は行 |
ま行 | や行 |
ら行 | わ行 |
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関連項目
脚注
- *他の説としては男性器、性行為とのことでどれを取ってもシモなネタである。
- *コンドルにした理由として「混んどる」という商売繁盛の意味合いで有力候補であった可能性が高い。一方で混むことを嫌った国鉄は国鉄スワローズ設立の際にコンドルの名前を見て「混んどるのはダメ」と冗談を飛ばしながら決めていたとのこと。
- *正確にはコンドルとハゲタカは別種であるが、見た目が似ているため
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