厩戸皇子(うまやどのみこ、~おうじ)とは、飛鳥時代の皇族で、推古天皇の摂政。近年、「聖徳太子」は死後100年経ってからおくられた名前であるとして教科書などでこの名前か「厩戸王」の名前で表記されることが多いが、厩戸皇子の初出は720年、聖徳太子の初出は751年、厩戸王の初出は1963年であるため「聖徳太子」がもっとも適切である。
概要
574年に生まれる。父は蘇我堅塩媛所生である用明天皇、母は蘇我小姉君所生である穴穂部王女で、生涯にわたって蘇我氏との関係が深かった。
蘇我氏が仏教を推進していたこともあり、幼少より仏法を尊んだ。
585年に父が用明天皇として即位するものの、2年後に崩御。その後蘇我氏と物部氏が武力衝突を起こすようになり、両者による戦争へと発展した。厩戸皇子は蘇我軍に参加、四天王像を彫って祈願するなど精神的な支柱となり、勝利に貢献した。
593年に蘇我馬子が推挙する豊御食炊屋姫が最初の女帝、推古天皇として即位するとこれを支えた。この時に就いたとされる皇太子という地位、摂政という職位は当時はまだ成立していない。推古天皇もまた蘇我堅塩媛との間に生まれた王女であり、これに蘇我馬子を加えて血縁を軸とした政権運営であった。
607年には、小野妹子を使者として遣隋使を派遣する。その際の国書に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」と記した。朝貢を装いつつも、実際には倭と隋は対等関係であると示したものである。
当時の隋の皇帝、煬帝は激怒したものの、隋は高句麗からの軍勢に頭を悩ませていたため、これ以上関係をこじらせるべきではないとして関係を継続、返書には「倭皇」として同等であることを認めた。
それに対して改めて国書を隋に送り、そこで初めて、大王(おおきみ)を「天皇」 として記した。
622年に死去。後世には太子信仰が生まれ、庶民の間にも浸透していった。
法華経と維摩経と勝鬘経を解説した本を書いたとされる。十七条憲法を作ったと伝わる。観音菩薩の化身と考えられ浄土真宗の宗祖親鸞に夢でお告げを与えた。
関連動画
関連商品
関連項目
- 1
- 0pt
https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E5%8E%A9%E6%88%B8%E7%9A%87%E5%AD%90