双羽黒単語

フタハグロ

双羽黒1963年8月12日-)とは、大相撲力士・総合格闘スポーツ冒険ナイフ評論家プロレスラーを転々とした新人類である。得意技は右四つ、寄り、掬い投げ、裏投げ、ニー・バットローキックサンダーストーム、北尾ドリラー。

恵まれた体格を武器に相撲界で順調に出世し第60横綱に上り詰めた。しかし精面の未熟さから数々の奇行を起こし、ついには一度も幕内優勝を果たせぬまま界を弾き出され、以後マリオばりに多職業をこなした。

概要

大相撲時代

本名を北尾といい、三重県津市に建設会社取締役の一人息子として生まれる。小学生の頃から在住の立浪部屋後援会会員から導を受け、毎年立浪部屋に泊まり込みで稽古するようになる。中学校入学後は三重高校相手に無敵の強さを発揮、両親は同高校への進学を願ったが本人は入門の意思が固く「5年で関取になれなかったら帰って来る」との条件付きで中学卒業後立浪部屋に鳴り物入り入門1979年3月場所、本名の「北尾」で保志(後の北勝海)らと共に初土俵を踏む。

幕下時代から様々の伝説を持ち、特に稽古嫌い振りは広く知れ渡っていた。ある意味この頃が全盛期かもしれない。

1984年3月場所に新十両入門時の約束だった「5年での関取昇進」をタイムリミットぎりぎりで果たした。以後は9月場所新入幕、11月場所最初で最後の対戦となる北の湖から初金星1985年1月場所幕内ではそれまで8勝7敗を2場所繰り返しただけなのに番付運の良さで小結と順調に出世する。
 
小結で連続2桁勝利5月場所には新関脇となった。ところが9日から左足の怪で途中休場し、13日から再出場したものの6勝に終わる。この際部屋付きの玉垣親方(幕優勝を経験した元小結若浪)から「あれくらいの怪で休むとは何事か!!」と怒られたが「休んだから勝てたんです!」と切り返す新人類ぶりを発揮した。
 
7月場所前頭筆頭で横綱大関を総なめし12勝3敗、9月場所と11月場所は関脇でそれぞれ11勝、12勝をあげ場所後大関に昇進した。5月場所8日には関脇小錦との取り直しの一番を折りで制し、小錦に致命傷を負わせる。なお小錦本人はこれを根に持っていない模様。同場所と翌7月場所のいずれも千代の富士と優勝を争うが結局決戦では敗れ優勝次点・同点に甘んじる。それでも当時横綱千代の富士1人だったことや、保志北勝海)の昇進で大関が6人になってしまうのを防ぐため「2場所連続優勝に準ずる成績」の内規により約1名の反対はあったが横綱に推挙された。
 
ここで問題となったのは四股名である。本人は輪島同様本名の「北尾」で通すか、モンゴルっぽい(はくおう)」を考えていた。また戦前の立浪部屋師匠が現役時に名乗った「」も補に上がった。ところが日本相撲協会春日野理事長(元横綱栃錦)の「立浪部屋の横綱2人、双葉山羽黒山の四股名を合体すれば最強力士になるんじゃね?」という思いつきの一により「双羽黒」に名する。口の悪い某漫画家からは「稽古嫌いの大関羽黒に輪を掛けて稽古をしないのが由来」と揶揄された。
 
しかし昇進後は内臓疾患や靱帯損傷に悩まされ、数度あった優勝のチャンス千代の富士に阻まれてしまう。部屋で火事が起きた際「パソコン大丈夫か?」と発言したり、エアガンを撃つなどのいじめが原因で付け人が集団脱走する事件が起きたりするなどトラブルも度々発生した。エアガン騒動後の1987年11月場所は初日から13連勝、だが14日北勝海千秋楽は全勝の千代の富士に屈しまたも賜杯には手が届かなかった。
 
そして翌1988年1月場所の番付も発表された後の12月27日、立浪との若い衆に関する意見の対立から部屋を脱走、都内のマンションの一室に籠している間に業届が提出され、12月31日の緊急理事会で業が正式決定された。同日の緊急記者会見双羽黒師匠との相撲の違いにとても付いて行けない」と述べ相撲界と決別した。幕内優勝0回、横綱在位はわずか8場所(番付上は9場所)に終わった。
 
関取では皆勤負け越しが1度もなかったが、日射病食中毒など奇妙な理由で休場することもあった。また双羽黒が1度も優勝できないまま業した事実は、その後横綱昇進条件で「2場所連続優勝」が厳格に適用される契機となったとされる。しかし千代の富士には通算6勝8敗、横綱昇進後2勝3敗と健闘しており、千代の富士も後年「双羽黒業していなかったら自分がこれほどの記録を残せたか分からない」など強さを認める発言をしている。
1988年3月に都内のホテル断髪式が行われたが、大阪で行われる場所の直前だったため相撲協会員や後援会員はも出席せず、最後の止め鋏を入れたのは父親だった。

スポーツ冒険家〜格闘家時代

ボクシングアメリカンフットボールなどのオファーが来たがそれを断り「スポーツ冒険」という肩書きでタレント活動を行った。仕事アメリカプロレスラー養成所「モンスターファクトリー」を訪れたことでプロレス参戦に傾き、ルー・テールの導の下アメリカで数ヶ修行を重ね1990年2月10日新日本プロレスからデビューした。
クラッシャー・バンバン・ビガロ相手に挙げたデビュー戦のを皮切りに、対戦相手に恵まれ勝利を重ねたものの、自信満々の態度で入場して相手を挑発し、勝利して意気揚々を引き上げる態度と言動はプロレスファン失笑を買い、なかには「帰れ」コールまで起きた。やがて怪病気を理由に練習や巡業をサボるようになり、大相撲時代と同様の「練習嫌いの問題児」の悪名をかせ始めた。その後、新日本の現場責任者とマッチメイカーを務めていた長州力しく対立し「何か文句があるなら勝負(喧)して、負けたら言うことを聞く」「怖いのか?この朝鮮人野郎!」という度を過ぎた発言によって新日本プロレスから契約解除を言い渡された。
新日本からの契約解除後、大相撲先輩である天龍源一郎を頼り創立間もないSWSヘ参戦する。しかしジョン・テンタ(ジ・アースクエイク、元幕下・琴山)との試合中で反則負けになり、リングを降りて手にしたマイクでテンタに向かって「八百長野郎この野郎!!八百長ばっかりやりやがって!」と発言、さらに観客に向かって「お前ら、こんなもの(八百長試合)見て面いのか!」と叫んだ(北尾事件)。SWS側は一旦北尾に謹慎を命じたものの、内外から批判が渦巻いたことで事態を重視、ついに北尾を解雇する決断を下した。
SWS解雇後は総合格闘への転向を発表。1992年UWFインターナショナルから参戦が決まり、5月8日山崎一夫と対戦し勝利を収めた。約半年後の10月23日、北尾は日本武道館高田延彦との「格闘技世界一決定戦」と銘打たれたビッグマッチに臨むが、試合直前のルール変更やブックの不透明さもあり高田が放ったハイキックを顔面に受けダウンKO負けを喫した。しかし、総合格闘技への復帰後は以前のような態度は影を潜め、リング四方に深々と頭を下げる謙虚さを見せて、過去を知るファンを大いに驚かせた。
1994年には格闘技塾「北尾道場」(後の武場)を旗揚げし、場生と共に天龍率いるWAR戦場にした。この時期の北尾はプロレスもある程度そつなくこなせ、ファンからも援を送られるようになっており、天龍タッグを組むことも多かった。しかし、前述のジョン・テンタとの数年ぶりの再戦がWAR行にて行われた際は、終始いきり立って格闘色の際立つ展開となってしまい、呆気ない幕切れとなった。また初期のPRIDEUFCにも参戦している。
1998年5月1日に開催された全日本プロレス東京ドーム大会では、同じ大相撲出身の田上明(元十両・玉麒麟)とのシングルマッチが組まれたが、カード発表直後にキャンセル。その後「やりたいことをやり終えた」として現役引退を表明。同年10月11日PRIDE.4にて引退セレモニーが行われた。

角界復帰後

プロレス引退から5年後の2003年双羽黒横綱時代部屋を脱走したと報じられた元付け人の世話人・羽黒の要請で、日本相撲協会所属ではないフリーの立場ながら、元小結豊に代替わりした立浪部屋のアドバイザーに就任。現役時代に使用した化粧回し日本相撲協会に寄贈した。

若手力士への細かいアドバイスや新子のスカウトにも携わるなど、人間的に成長したとの評もある。

関連動画

千代の富士に勝った相撲映像はなぜかUPされていない。

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双羽黒

1 ななしのよっしん
2016/07/26(火) 00:06:34 ID: 4zFZBHBGgY
双羽黒の記事なんてあったのか

引退騒動に関して立浪側の問題に触れてないのが気になるが
2 ななしのよっしん
2016/08/01(月) 06:00:32 ID: YmdfHCx7h0
師匠の安念山は残念山と揶揄されるほど夫婦ってケチで北尾の昇進祝いや優勝賞なんかをほぼ全部自分のものにしてしまってたんだよな。
3 ななしのよっしん
2017/01/24(火) 22:29:10 ID: yTkibcDDsH
>>2
師匠も女将ごとクズなんだな
4 ななしのよっしん
2017/03/04(土) 14:29:25 ID: BvBckhNk9T
この力士のせいで後年横綱になりそこねた大関が多数生まれる事になったんだよな。

特に小錦は一番の被害者とも呼べる。
5 ななしのよっしん
2017/11/15(水) 09:07:34 ID: l11QyaxNMW
日馬富士の件で思い出した
6 ななしのよっしん
2018/12/17(月) 08:58:58 ID: 9pKB+zq5bG
全盛期千代の富士を知る者からすると、確かに強い力士だったと思う
ごくごく格下の相手にもあっさり負ける一方で、
も勝てない無敵千代の富士一互の戦いが出来た力士であった