司馬懿単語

シバイ

司馬懿(しば い、179年 - 2518月5日)とは、三時代の武将・政治家である。字は仲達。

概要

4代に渡ってに仕えた臣下。首を肩よりも後ろに向けられる「顧の相」を持つことで有名(ただし「顧」にはが背後を顧みるが如く用心深いさま、という意味もある)。この"顧"の相をして曹操は「大志と野望を持つ男」、曹丕は「一臣に終わる男ではない」と評した。
その一方で学友でもあった曹丕からは遠征に出た際の留守番を任され、後継者である曹叡の後見を託されたり、その曹叡からも死の際「そなたの顔を見ずに死ぬのが辛かった」と言ってこれまた後継者である曹芳の後見を託され、曹芳もまた出の際は自ら出迎えるなど後世の印とは裏に、時の権者からは「信頼できる部下」「後事を託すに足る存在」と思われていたことが伺える。

曹操の代に取り立てられ、以後曹操曹丕曹叡・曹芳ら王・の配下として重用される。曹操からはあまりにもキレ過ぎる才を警されていたが曹丕からは前述のように信頼され陳羣・朱鑠・呉質と共に四友と呼ばれ特に重用された。

演義などのイメージから対担当と思われがちだが実際は対のほうがメインであり、本来の対担当であった曹真正史では第3次までの北伐を防いでいる)が病死したことによるピンチヒッターとしての登板であった。そのためか対最初の戦いである山の戦いでは張郃らの反対を押し切って追撃した結果敗北。その後再び張郃等の反対を押し切った挙句張郃自身に追撃を示、結果追いすがった張郃が逆に射殺されるという司馬懿最大の失敗を犯してしまっている。
とはいえ立った敗北はそれぐらいで五丈原では後述のように時間切れ判定勝ち。それ以降も馬岱の襲撃を退けている。
関羽が樊を落とした際、を利用することを提案して没落の嚆矢となったことも踏まえると名実ともに「に止めをさした男」というべきだろう
また対においては朱然諸葛恪を下し、北方公孫淵が反乱を起こした際は僅か半年で討伐、晩年王淩の反乱が発覚した際も速に鎮圧するなど中国大陸の四方八方で功績を挙げている。

なお軍師としての印ばかりが先行しがちだが、実際は地方行政官としての功績も有しており「何でもこなせる便利な人」というのが実情だった模様。 

曹芳の代に至って曹叡に同じく後事を託された曹爽によって実権を半ば奪われてしまう。そのときはおとなしく慢していたのだが、曹爽達の権に来た横暴な振る舞いを見逃せなくなったのか、とうとう249年(司馬懿70歳)に後に正始の変と呼ばれる司馬一族による政変を起こして曹爽達をを誅殺。以後の司馬一族がの実権を握るようになるきっかけを作り出した。ただし司馬懿自身は自身の行いが簒奪と見られるのを嫌がったのか丞相、相への就任要請を死ぬまで断り続け(死後、めて相の地位を追号されている)、息子たちも長男が衛将軍に任じられただけに留まっている。
死後の諡は文侯、人臣としては最高の扱いである。また少し後に太祖の広場に最上位で配置されおり、少なくとも当時の人々は司馬懿を「の臣下」と認識していたようである。
その一方で孫の司馬炎の5代皇帝・曹奐から譲を受け西を建した際、司馬懿に「高祖」「宣」と追号している。「高祖」とはそのの始祖に与えられる為、炎は「司馬懿は西の始祖」という意識が有った物と思われる。

ちなみに、妻が当時ではしく歴史書に名前が残っている(張春華・追号穆皇后)事、故郷に錦を飾った際に、後世にまで嘲笑されるレベルのヘッタクソ参考URLexit)を残していた事等が、近年のブーム三国志ブームで知られつつある。
また陰謀、謀略ではない「忠臣・司馬懿」としての再評価も一部で行われており、多な人物像を後世に残している。

兵貴拙速

五丈原でのエピソードから堅実な戦略や持久戦が得意と思われているが、実際には機動を生かした電撃戦が得意だったという。それが遺憾なく発揮されたのが、上庸で孟達が反乱を起こした際への対応である。
孟達諸葛亮と密通し上庸で反乱を起こした時、司馬懿は宛に赴任していた。反乱の報を聞いた司馬懿は上庸に丁寧な書簡を送り孟達ら諸臣を混乱させてしまう。司馬懿はこの隙に通常一カ掛かるとされた行程を八日で踏破して上庸を包囲し、諸葛亮との連絡を絶った。こうして離反者・投降者が続出する中孟達を捕縛、斬首したという。

また五丈原の戦いにおいても、勝利に導いたのは機動であった。
諸葛亮は当初短期決戦で長安を素く奪取したかったのだが、司馬懿はその意図を璧に読み五丈原に屯田を敷いて軍を待ち受け、諸葛亮が最も避けたかった戦況(持久戦)に引きずり込んでいる。この時、司馬懿は電石火の行軍で五丈原に「先に」着軍の頭を押さえたため、食糧生産が不足していた軍も五丈原で屯田せざるを得ず、諸葛亮が逝去し側が撤退するまでが優勢だったという。

そして東で発生した公孫淵の反乱に際しても、その機動を以て定に導いた。
司馬懿曹叡に対し「往路で100日、戦闘100日、復路に100日、休息に60日の計1年で定できる」と宣言。この遠征で司馬懿は時に別の場所を攻める振りをして相手を地からおびき出し、時に長に遭遇した際理に攻めを行わずが上がるまで待機したりの硬軟入り混ぜた戦術で終始公孫淵を圧倒。結果23712月に出7月公孫淵一族を討伐。宣言どおり一年後の12月陽に帰還している。

ゲーム上の能力値

KOEI三國志では、どの作品でもほぼ非の打ちどころがないを持たされやすい上、特技システムがある場合たいてい孔明に次ぐ特技を持たされるため、敵に回しても味方につけても恐ろしい男となる。
また「諸葛亮は臨機応変の才に欠けていた」と評されたためか、司馬懿は諸葛亮よりも万寄りのステータス配分になっており、特に統率と武の区別が強くなった三國志Ⅸ以降では武が倍(孔明30前後、仲達60前後)とされている。ちなみに以降の武は、一騎討ちや直接的な攻撃に強く影する。……まあ軍団の性を決める統率はどっちも高いし、アイテム抜きだと司馬懿の方が若干上だったりするので、正史の通りにされているのだろう、多分。

また同じくKOEI真・三国無双シリーズでは4までは羽扇、5では糸、6で羽扇に戻り、7ではというはたきみたいな武器を持つPCとして登場している。

家族

妻:張春華正妻)・伏夫人・夫人・夫人(後妻)
第一子:司馬師
第二子:司馬昭
第三子:司馬亮(以下8人略)
司馬昭の子:司馬炎(西武帝

…とんでもない血統である。

ちなみに司馬懿は合わせて11人の子を成しており、さらに絶倫で知られる司馬炎はその倍を越す子を成しており、その両方の血統が後に八王の乱と呼ばれる大乱を起こし、西を滅亡に追いやった。一家で他人のを滅ぼし、さらに一家で自分のまで滅ぼし直す。司馬中国を二度滅ぼした血統であり、孫皓劉禅べてもとんでもない。

作品中での司馬懿

司馬懿(三国志演義)

概ね孔明の敵としての役割である。
基本孔明の敵は酷い死に方をする演義の中ではしく「息子に見守られながら静かに死去」という死亡シーンとなっている。
なお孔明死後は彼の一族が話のメインとなるが人気が出なかったのか短縮打ち切りとなっている(演義開始から孔明死後までの50年に104回かけてるのに対し、孔明死後の46年には16回しか割いていない)
また魏延一騎打ちをするという衝撃的なシーンが存在する

司馬懿(横山光輝三国志)

横山光輝三国志元ネタである吉川三国志が演義をベースにしたびいきの物語であり、それを受けた横山三国志では孔明の権謀術数でコテパンにされる役回りになっている。
司馬懿が陰りを帯びた時代で活躍するのだが、それでも魯粛ばりに孔明の罠に驚いたり怯えたりする場面が多く、また司馬懿が宮中にいた際の謀略などがあまり描写されなかったため、曹真ほどではないにしろにおける魯粛のような役回りになっている。
特に、「これは孔明の罠だ」というセリフや、最後半での「諸葛、走生仲達」に基づいた、司馬懿に文字通り死ぬような走らせ方をさせる描写は、孔明の罠というフレーズと共に司馬懿の名を(色々な意味で)不動にした。

司馬懿の死に際の台詞諸葛孔明、なんと素晴らしい男であったか。あの世ゆっくり教えを乞いたいものだ」もまた有名。

司馬懿(北方謙三三国志)

孟達戦で先を切ったり、少々マゾっぽい性癖持ちだったりとスタンダードな司馬懿像から少しずらした描写となっている。

司馬懿(真・三國無双)

史実の謙虚さなど何処へやらの傲慢で知的な美形キャラになっており、孔明同様羽扇で殴ってビームを発射する変な武将になっている。
特に、ゲーム中でもよく使われる「移動攻撃」の際に「フハハハハハハァ!」と高笑うことから「笑い袋」などと呼ばれたり、3五丈原での「馬鹿めが、馬鹿めが!兵法を知らぬ愚め、今に見よ!」等のセリフが多いことから、MADが作られている。

無双3までは演義に立脚していたこともあり、五丈原の戦い(諸葛亮逝去)あたりで一区切りがつけられたため、諸葛亮逝去以後に活躍する司馬懿も五丈原以後が描写されず、単に「諸葛亮ライバル」以上の描写はされなかった。
また五丈原がラストという関係上、曹への造反まで描写されないため、本人は一介の忠臣として留まっている。

だが無双4で曹丕プレイヤーキャラに昇格すると曹丕EDや自身のEDで不穏な言動が出始めるようになり、無双5ではついに自身のストーリーに反旗を翻してしまう。この時期の司馬懿は全に野心・陰謀キャラである。

このまま陰謀キャラで行くのかと思いきや無双6で実装息子2人がPCに昇格、司馬懿自身も五丈原後が描写できるようになったことにより、再度内面描写が大きく変わることになる。
6以後では才至上義者で有能な者が支配する事を是とし、無能が政権を握ることを嫌悪している(それだけに史実の恵以降が皮だとしか思えない)。また司馬師は性格面が司馬懿2号とも言うべき状態になっている。司馬昭も、上に立つ者としての自覚を持ち始めるにつれ司馬懿3号と化していく。愚と高笑い司馬の血筋か。
無双7では張春華も登場。史実同様にに敷かれていている。また、ツンデレの一面も。 

なお、6までを担当していた滝下毅氏が2013年3月10日に急逝。が後釜を勤めるか注されたが、7エンパイヤーズで置鮎龍太郎氏が担当することに決定した。

司馬懿(三国志大戦)

上述のように孔明と謀戦を繰り広げ、遂にを屈せしめたたこともあり、ゲーム中では諸葛亮曹操と同じ知10を有するカードである。また、UCやRの司馬懿も過去には存在した(現在のVer3ではSRのみ)。

Ver3では2枚の武将カードと1枚の軍師カードがあり、いずれも戦局に大きな影を与えるものが多い。
ただし武将カードについてはいずれも消費コストに見合う武をもたないため、運用には細心の注意を要する。

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司馬懿

446 ななしのよっしん
2019/05/10(金) 05:48:40 ID: YC7kGVgjJo
司馬懿(Fate)
447 ななしのよっしん
2019/05/11(土) 11:08:07 ID: jcHtGPYar4
>>445
曹丕「女に憑依するとか馬鹿じゃねーのあいつwにチクったろwwドS)」
448 ななしのよっしん
2019/05/11(土) 22:42:04 ID: IsIGz2Kknf
>>444
その列挙を見て思ったけど
司馬懿や師・昭兄弟から見たら、曹爽ねぎだったんだな
449 ななしのよっしん
2019/05/11(土) 22:51:48 ID: /xKhGiDs83
司馬懿が忠臣だというならそもそも「に対しては忠臣だったのか」まで区切って離さないと話がこんがらがる
少なくとも曹三代までは忠実だったけどそれ以降の曹一族に忠実だったとは思えんし
450 ななしのよっしん
2019/05/12(日) 00:09:45 ID: tpmoPR9z2U
~の代までは忠臣やりますって、まあそれは忠臣じゃないのだが


まあ当時の人から見ればグレーが妥当だろう
費禕の言う通り、反逆とまでは行かないけどちょっと自分の地位を優先しすぎな感

後世(数~千年後)の人から見れば判定もやむなし言ったところ
息子に強権を渡す行為が、国家として相当な危険行為だとその後の歴史で分かってきたからね
451 ななしのよっしん
2019/05/12(日) 19:15:14 ID: IWg1tdCo/v
曹操司馬懿も本当は位に着きたかったんだろうが、在命中は外も内も敵だらけだからあえて形だけでも謙遜したんだろう……。
452 ななしのよっしん
2019/05/12(日) 19:23:31 ID: ehr0r4qkj6
>>451
曹操はともかく司馬懿位に着ける状況だったのかは疑問だが…
司馬昭なら曹髦殺の一件で位に着けなくなったが、司馬懿の場合は精々、政敵の曹爽を排除したくらいだし
453 ななしのよっしん
2019/05/19(日) 00:56:01 ID: jcHtGPYar4
と言うか司馬昭皇帝暗殺の一件を、賈充さえ処罰できずに
実行犯に全て押し付けたの司馬懿が見たら激怒しそうだな。
司馬昭の子孫が孫の代で根絶やしになったのはお前のせいとか言いそう
454 ななしのよっしん
2019/05/21(火) 03:15:58 ID: mdoJDm/P1H
>>444
➀『先に司馬懿を太傅という名誉職に上げて、事実上更迭したのは曹爽』。太尉から太傅に移されてはいるが、「其以太尉為太傅、持節統兵都督諸軍事如故。」と書いてある通り、持節も以前通りで軍事揮権もそのまま残されてる。息子司馬師も中護軍として軍中枢の重職に据え置かれており、排除されてすらない。

②『司馬懿達に反対されてもへの遠征を強行して負けたのも曹爽』。これについては事実だが、これは曹一族で曹爽だけが行ったわけではないし、伐ならず伐に関しては司馬が専横しはじめてからも度々行われているがどは失敗している。

③『君である曹芳を蔑ろにして、政務おっぽって色に耽ったのも曹爽』。食を贅沢に楽しんだという記述はあるが、曹芳を蔑ろにしたとか、政務を放り出したという記述はい。いくつか記述されている乱暴藉の類も陳寿の執筆していた状況(曹髦殺事件すらも直筆できない)を鑑みれば信憑性は低い。
455 ななしのよっしん
2019/05/21(火) 03:45:30 ID: mdoJDm/P1H
>>444
④『曹芳が司馬師を除こうとして失敗した後も、処刑せず皇帝から王に降格させただけ』。➀と同様にこれもダウト。曹芳は司馬師排除には関係。李豊張緝司馬を排除して侯玄を据えることで権を曹に戻そうとしたというのが事件のあらまし。

李豊らがこのような謀を行う程に司馬の専横が酷かったということであり、実際これといった理由もく(しかも兵を準備しているという脅しまでして)曹芳を位しており、叔父司馬をはじめとした多くの群臣が涙を流して嘆くような有り様だった。

やっていること自体は董卓と同レベルであり、挙句の果てには、より自身らにとって都合の良い彭王を擁立しようとするも皇太后の反抗を抑えきれず、曹芳よりはるか厄介な曹髦を招き入れることになるというオチまでつく。