「吉川広家」(きっかわ・ひろいえ 1561年~1625年)とは、戦国時代~江戸時代初期の武将、大名である。周防岩国藩の初代藩主。
概要
父は西国の雄である毛利家を支えた名将吉川元春。母は猛将熊谷信直の娘「新庄局」。
父や長兄の死後に家督を継いだ吉川広家は、毛利家の重臣となり主君の毛利輝元を支えて活躍した。
(次兄はすでに他家を継いでいた)
関ヶ原の戦いでは西軍を支持する安国寺恵瓊と対立。
吉川広家は東軍に内通して決戦当日は毛利軍の参戦を阻止した。
豊臣政権の寵児
吉川広家は父や兄たちと共に、豊臣秀吉の九州征伐や九州国人一揆との戦いに参加して活躍した。
父親と同様に優秀な武将であり、秀吉の弟で当代随一の名将だった豊臣秀長からも期待された。
小田原征伐の前には軍勢を率いて尾張に駐留し、徳川家康を脅かした。
唐入り(大陸出兵)でも大活躍して、石田三成や軍監たちから賞賛を受けた。戦地で吉川広家が病気になった時、秀吉は吉川広家に書状を送って帰国を指示する気遣いを示した。
父の吉川元春と兄の吉川元長は共に九州征伐中に陣中で病没しており、秀吉は負い目を感じていたのかもしれない。
ただし吉川広家が秀吉から厚遇されるには十分な功績を挙げたのは事実である。
豊臣秀吉の期待に応えて活躍した十年は吉川広家にとって栄光の時代だったらしく、待遇が悪くなってからも広家自身は秀吉からの信頼を疑わなかった。
関ヶ原の戦い後、諸大名が徳川幕府に遠慮して豊臣家との交際を控えるようになってからも、吉川広家は豊臣家の人々と交流を続けた。
黒田家との絆
吉川元春と黒田官兵衛は、毛利家と織田信長が争っていた頃、それぞれ毛利輝元と羽柴秀吉(豊臣秀吉)の代理として度々交渉を行い、吉川家と黒田家の間では付き合いがあった。
両家の交流は吉川広家が父と兄の死後に家督を継いだ後も続いた。
1587年、九州各地で大規模な国人一揆の反乱が起こり、黒田家が治めることになった豊前国でも国人衆が各地で黒田家を攻撃した。
この時、黒田官兵衛は肥後国に出陣中だった。
豊前一揆の勢いは盛んで、留守を守る黒田長政の軍勢は苦戦を強いられた。
報せを受けた吉川広家は兵を率いて豊前へ出陣、一揆の軍勢を撃破して黒田家を救援した。
この時の吉川軍の活躍は、黒田父子だけでなく豊臣秀吉、秀長兄弟からも賞賛された。
吉川広家は黒田家を救った恩人になったのである。
1590年の小田原征伐で秀吉が天下を統一した後、毛利家では吉川広家の所領の大きさが問題視されるようになった。
毛利家が諸勢力と争っていた時代に吉川家が担った役割とそれを果たすために与えられた権益を、天下統一による海内静謐(日本の内戦の終焉)が実現した後も認めるかどうかが問題となったのである。
この時、黒田官兵衛は毛利家にとって部外者だったが、吉川広家に味方した。
黒田官兵衛は吉川家の所領を天下人である秀吉からも認めてもらおうと、働きかけを行った。
結果として秀吉の鶴の一声により吉川広家は14万石の所領を安堵された上、豊臣政権から重用され続けた。
豊臣政権の大功臣である黒田官兵衛の後ろ盾を得て、吉川広家の地位は安泰となった。
しかし吉川家と豊臣秀吉を繋ぐ取次役が黒田官兵衛から石田三成に交代すると、秀吉の吉川家に対する扱いが悪くなったらしく、吉川広家は黒田家に送った手紙に愚痴を書き記した。
その内容は、
・秀吉に会いたいと石田三成に頼んでも、なかなか会わせてもらえない。
・娘が秀吉に会う機会を作ってもらえなかった。
(天下人に御目見えすることは、娘の人生と吉川家の将来を左右する一大事)
・秀吉は諸大名に形見の品を遺し、吉川広家の分も用意した。ところが奉行たちは秀吉の死後、形見を吉川広家に渡すのを忘れていた。
また秀吉没後に吉川広家が豊臣政権の奉行筆頭である浅野長政を憎悪することになった事件があったらしく、主君である毛利輝元や毛利家の重臣たち、さらに黒田長政がその件で吉川広家に自重を促す手紙を送った。
(秀吉の形見分けの件だろうか?)
吉川広家と奉行衆の間に確執があったのか、または黒田官兵衛のおかげで吉川家に過剰な厚遇が与えられていただけなのか。
ただし当時の慣例として秀吉は取次役を通じて諸大名に意向を伝えた。秀吉と諸大名を仲介する取次役は、その恣意を大名たちから疑われやすい立場だった。
つまり秀吉が自分の意志で決めたことでも、秀吉に会う機会が少ない大名は「取次役が讒言をした」と考える場合があったのである。
ちなみに黒田官兵衛は豊臣秀次(秀吉の甥、後継者)の相談役を務めたが、豊臣秀次が秀吉に粛清されると黒田官兵衛も一度失脚した。
秀次事件の後、16名の大名や側近が秀吉に忠誠を誓う文書を連署で提出した。
加藤清正や叔父の小早川隆景など錚々たる顔ぶれに交じって、吉川広家も末席に名を連ねている。
秀吉没後に政権内で大規模な政争が生じてからも、吉川家と黒田家の交流は続いた。
黒田長政はいち早く徳川家康を支持し、毛利家を味方に付けようと吉川広家に説得を頼んだ。
さらに家康から毛利輝元に直に協力を求めたこともあって、毛利輝元は家康の支持に回った。
背後を固めた家康は諸大名の軍勢を動員して会津の上杉家討伐へ向かった。
ところが家康が東へ去ると、毛利輝元は挙兵して五万人の大軍を動員。
家康討伐を主張する宇喜多家に続いて毛利家が挙兵したことで、家康が率いる東軍に合流する予定だった西国の大名たちは、石田三成が結成した西軍へ参加した。
吉川広家は毛利秀元(毛利輝元の養嗣子。広家の従兄弟)に従い西軍の一員として畿内へ向かった。
毛利家の豹変に驚いた黒田長政や徳川家の重臣たちは吉川広家に問い合わせの手紙を送り、さらに毛利家が方針を変えるよう説得してほしいと何度も依頼した。
黒田如水(官兵衛)は豊前国に留まり息子の留守を守っていたが、強大な毛利家の圧力に晒されることとなった。
黒田如水は吉川広家へ送った手紙の中で敵味方に別れた不運を嘆いたが、黒田家と吉川家の絆は何があっても不滅であることを誓った。
『吉川家文書』が伝える関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いから二日後に、吉川広家が書いた手紙(の素案)が『吉川家文書』に収められている。
素案には関ヶ原で決戦が行われることになった経緯が詳細に記されている。
9月14日の夜、小早川秀秋が(西軍に対して)反逆した(西軍のものだった松尾山の砦を占拠)。
↓
西軍が大垣赤坂から撤退、西の関ヶ原へ急行
↓
東軍が追跡を開始。
しかし西軍を追いかける前に、南宮山の軍勢を攻撃してきた。
(南宮山にいたのは毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長曾我部盛親、長束正家の軍勢。この記事ではまとめて南宮山軍とする)
↓
南宮山麓の軍勢が応戦して東軍の先鋒部隊を撃退。
東軍と南宮山軍の決戦が始まる前に吉川広家が駆けつけて、東軍と停戦交渉を行った。
↓
交渉が成立し、本多忠勝と井伊直政が戦後の毛利家の無事を保証する誓紙を吉川広家、福原広俊宛てに提出。
(福原広俊は毛利家の重臣で、毛利秀元に従い参戦した)
↓
誓紙を受け取った後に、吉川広家と福原広俊が吉川・福原両家の関係者を人質として東軍に送った。
↓
東軍は西へ向かい、翌15日に関ヶ原で西軍と決戦を行った。
↓
決着がつくと、南宮山にいた長束軍と長曽我部軍が毛利軍に断りなく去って行った。
ここで重要なのは、
1.西軍が関ヶ原へ向かう際、南宮山軍を置き去りにした。
2.東軍が西軍を追撃するよりも南宮山軍への攻撃を優先した。
つまり西軍も東軍も、南宮山軍を味方だとは考えていなかったのである。
天下を二分した東西両軍から敵視された南宮山軍は、それまでどのような行動をしていたのか。
毛利家の挙兵後、畿内で西軍と合流した毛利秀元、吉川広家の軍勢は伊勢国へ向かった。
伊勢の西軍は東軍の津城を攻略後、北上して美濃国へ入った。
伊勢方面軍の内、宇喜多秀家の軍勢は直ちに大垣城へ向かい石田三成たちと合流した。
毛利、吉川、長曾我部、長束、安国寺の軍勢は大垣ではなく南宮山へ移動した。
石田三成は大坂にいた増田長盛宛ての手紙の中で、南宮山は孤立した土地であること、そんな場所に篭った諸軍を信用できないと批判した。
実際、南宮山はこの時点で想定される東西両軍の戦場からは遠く離れていた。
石田三成は西軍主力に合流するようにと南宮山軍に催促したが、南宮山軍は動かなかった。
南宮山軍の協力を欠いた西軍は兵数で美濃に集結した東軍に劣ってしまい、そこへ徳川家康の到着と小早川秀秋の敵対行動によって窮地に追いやられた。
西軍が関ヶ原へ向かう際に南宮山軍を置き去りにしたのは、当然のことだったと言える。
さらに毛利輝元の行動も、西軍首脳陣を不安に陥れた。
毛利輝元は毛利秀元、吉川広家たちの軍勢を東へ送り出した後、自身は毛利軍の主力を率いたまま、権力者不在の大坂城に居座った。
石田三成たちは毛利輝元に出陣を促したが、毛利輝元は大坂城から動かなかった。
(前述の石田から増田宛ての手紙も、毛利輝元の出陣を促すよう増田に依頼したもの)
毛利輝元が動けば南宮山の毛利軍も動くので、その時点で西軍の優勢は確定したかもしれないが、毛利輝元は遂に出陣しなかった。
大坂城の淀殿には毛利輝元を引き留める権力も理由もなかったことから、大坂残留は毛利家の判断だったと考えられる。
つまり南宮山軍の西軍に対する非協力的な態度は、東軍に内通した吉川広家の独断ではなく、大坂城に留まった主君の意志あるいは毛利家の総意に沿ったものという可能性も考えられるのである。
そもそも毛利秀元は吉川広家の傀儡になるような人物ではなかったので、決戦当日だけ吉川軍が毛利軍の行く手を遮るだけならまだしも、数日に渡って毛利軍の西軍合流を吉川軍だけで押し留めるのは無理な話だった。
ただし小早川軍の松尾山砦占拠をきっかけにして西軍と東軍がそれぞれ移動した結果、決戦当日になって南宮山軍は東軍を背後から襲うことが可能になった。
そこで南宮山軍(主に長曽我部軍や長束軍)が東軍との停戦(吉川広家たち毛利軍が東軍と約束した)を反故にして東軍を攻撃しようとして、毛利軍あるいは吉川広家がそれを阻止した――のかもしれない。
秀吉没後の政争の最中、天下を狙う徳川家康は毛利家に接近して毛利輝元の支持を得ていた。
しかし徳川家康が東へ去った途端に、毛利輝元は挙兵した。
「安国寺恵瓊を除いて毛利家の重臣たちは西軍への参加に反対し、吉川広家は東軍に内通して人質を東軍に送った」
というのが通説だが、人質の受け渡しの経緯が上記の9月17日付け文書に記された内容通りだったとしたら、毛利家と東軍の関係は実際はさらに複雑だった可能性が考えられるのである。
毛利家はただ挙兵しただけでなく大軍を率いて畿内に乗り込み、国許では毛利領周辺の東軍拠点を攻撃することまでしていた。
また安国寺恵瓊は彼を重用した豊臣秀吉が存命の頃も、吉川広家たち他の重臣を黙らせて毛利家を操るほどの権力は持っていなかった。
黒田長政や徳川家の重臣たちが何度も吉川広家に書状を送ったことは吉川広家が東軍に接近していた証だが、書状の内容は「毛利家が東軍に味方するよう説得してほしい」「東軍に味方する約束を守ってほしい。吉川殿を信じているが・・・」というもので、東軍諸将は毛利家の行動を不審に思い焦っていたことが窺える。
『吉川家文書』(9月17日付け文書)の内容が正しいという前提の話だが、東軍が決戦前の夜に南宮山軍を攻撃したのは、彼らが吉川広家との約束を決して信じてはいなかったことを示している。
人質の受け渡しの経緯も、「戦う前から人質を出した」と「戦った後に停戦交渉が成立して人質を出した」では大きく異なる。
さらに徳川家康は西軍との決戦に臨んで、東軍諸将の中で特に信頼を置く池田輝政と浅野幸長の軍勢合わせて1万人の大軍を後方に配置した。
これは明らかに南宮山軍への備えであり、家康は南宮山軍が襲ってこないとは信じていなかったのである。
※池田輝政は家康の娘婿。浅野幸長は豊臣子飼いの武将だったが、家康を強く支持して諸大名を東軍へ引き込んだ。また両将の所領は旧徳川領だった。
戦後に池田家と浅野家が転封された播磨と紀伊は、豊臣領に隣接する重要な土地だった。
東軍は南宮山軍が味方につくかを疑い、西軍は南宮山軍が東軍に内通していないかと疑った。
そのため東軍は背後を襲われないようにと先ず南宮山軍を攻撃して東軍に従わせようとした。
南宮山軍は西軍が救援に来ることを期待できなかったので、吉川広家は東軍の攻撃から現地の毛利軍を守るために東軍と交渉して停戦した――『吉川家文書』に記された経緯からは、そのような事情があった可能性が考えられる。
東西両軍を脅かした毛利家の意図は不明だが、第三勢力を目指したとすれば辻褄は合う。
吉川広家は安国寺恵瓊と争って主君を惑わせたのではなく、主家の戦略に沿って行動し、決戦前夜の東西両軍の移動によって戦略が狂ったため現場の判断を下したのかもしれない。
この二人の名前がよく挙げられるのは知名度があるからで、当時の毛利家の運営には他にも多くの一門衆や重臣が参加しており、毛利家を二分する派閥があって吉川・安国寺がそれぞれの領袖だったというわけでもなかった。
関ヶ原前後の諸交渉でも、吉川広家だけでなく他の重臣たちも活動した。
ちなみに毛利輝元の側近を務めた堅田元慶は、戦後に徳川家からの強い要求で江戸に抑留された。
『吉川家文書』には関ヶ原の戦いから一年後に作成されたとみられる、関ヶ原の戦いの顛末を記した文書(の素案)も収められている。
そちらは通説とほぼ一致する内容になっている。
戦後
関ヶ原の決戦後、西軍の諸将は大坂城に入らずそれぞれの領地へ引き揚げた。
逆に毛利軍は領地へ帰らず、大坂城に集結した。
その上で吉川広家は東軍と交渉を行い、東軍諸将から改めて毛利家の無事を保証する文書を受け取った。
吉川広家は、
「毛利家を西軍に参加させた罪は安国寺恵瓊一人にある。主君輝元は分別がなく、安国寺に騙されただけである」
と主張した。
その安国寺恵瓊は大坂城に入った毛利軍に同行しておらず、京都で潜伏中に東軍に捕縛されて後に処刑された。
毛利軍が大坂から退去した後、徳川家康は黒田長政を通じて毛利輝元が西軍の首魁の一人だったことを糾弾し、毛利家の取潰しを図った。
一方で、吉川広家に対しては吉川家の厚遇を約束した。
吉川広家は先の主張を繰り返して毛利家への処罰を軽減するよう家康に訴えた。
また黒田如水、黒田長政父子をはじめ東軍諸将が吉川広家のために協力した。
最後は家康も折れて毛利家への処罰は領地削減に留めた。
なお吉川広家と不仲だったとされる安国寺恵瓊だが豊臣政権時代は吉川広家に協力したこともあり、黒田官兵衛も交えて実際は三者は仲が良かったという説もある。
もしそうだとすれば、吉川広家は主家を守るために友人を生贄にして、主君には暗愚の烙印を押したことになる。凄まじい忠誠心である。
毛利家の減封に伴い周防国の岩国に移った吉川広家は、岩国領の発展に尽力した。
外では豊臣家との交流を続けた。
一方で徳川家康、徳川秀忠や幕閣からも丁重に扱われた。後の将軍たちも吉川家に敬意を払った。将軍家は吉川広家を大恩人と認識したようである。
吉川広家は毛利輝元と同じく1625年に亡くなった。
吉川家の息子たちと娘婿はいずれも長州蕃の重鎮となって活躍するなど、関ヶ原後からしばらくの間も吉川家は重用された。
しかし時代が下ると吉川広家は長州では毛利家を敗者にした戦犯と見なされ、岩国藩は幕末まで苦労する羽目になった。
関連項目
- 3
- 0pt