- プロ野球選手一覧 > 吉川輝昭
吉川輝昭(よしかわ てるあき)とは、佐賀県出身の元プロ野球選手(投手)である。
概要
日本文理大学 ピッチングコーチ | |
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吉川輝昭 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 佐賀県東松浦郡相知町 |
生年月日 | 1981年11月13日 |
身長 体重 |
184cm 92kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 2003年自由獲得枠 |
引退 | 2013年 |
経歴 | |
選手歴 コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
佐賀県東松浦郡相知町(現:唐津市)出身。厳木高校から日本文理大学に進み、エースとして全日本大学野球選手権初優勝の原動力となる。大学の同期に脇谷亮太がいた。2003年のドラフト自由獲得枠で横浜ベイスターズに入団。
横浜では1年目のキャンプに体重が100kg超、体脂肪率30%以上という状態で現れコーチに怒鳴られた。1年目から主にリリーフとして一軍登板し、初先発初勝利も飾るなどローテーション候補として期待される。150km/h以上の重いストレートは評価されていたが、決め球に欠け、また突如制球が乱れることも多かった。 そのため、2005年は開幕ローテ入りするもののすぐに中継ぎに降格。防御率8点台と結果を残せなかった。
2006年からは低迷、二軍暮らしが続く。崖っぷちの覚悟で臨んだ2008年、シュートを習得し終盤に覚醒の気配を見せたが、2009年は防御率11点台に終わり期待を裏切った。
2010年、開幕後に井手正太郎とのトレードで福岡ソフトバンクホークスへ移籍。
入団会見時には「大変なところに来てしまった」という謎のコメントを残す。当時、チームの先発6人が全員左投手という事態もあり、右の先発候補としての獲得だった。が、夏場に中継ぎとして7試合に登板するのみに留まった。
2011年は怪我で出遅れた藤岡好明の代役として、主に敗戦処理・ロングリリーフ要員として開幕一軍をゲットするが、初登板でいきなり李承燁に2ランを食らい一死もとれずに降板。その後はチームが好調だったため、ずっと一軍にいたにも関わらず丸一ヶ月登板が無かったりした。
しかし5月の終わり頃からビハインドの場面でコツコツと好投して信頼を得、競った場面での1イニング限定という起用が増える。金澤健人とともに、森福允彦やブライアン・ファルケンボーグへ繋ぐ役割を任されるようにもなった。後半戦は少し調子を落として出番が減ったものの、最終的に初めて1年を通して一軍に定着。自己最多の40試合に登板、勝敗はないものの、6ホールドを挙げ防御率2.41、WHIP 0.83の好成績を残した(WHIPだけなら森福允彦やファルケンボーグよりも低かった)。
2012年は、先発転向のつもりでオフに準備していたらしいが結局中継ぎでスタートすることに。それが影響したのかどうかは定かでないが、開幕から不調で、僅差のビハインドで出てきては点差を広げられて帰っていくというのがパターンになった。6月には二軍落ちし、その後は一軍と二軍の往復。8月には先発機会も与えられたが3回途中でKOされ、最終的に25試合で0勝1敗0ホールド、防御率5.29と期待を裏切る結果に終わった。オフに多村仁志・神内靖とともに江尻慎太郎・山本省吾・吉村裕基との3対3のトレードで横浜DeNAベイスターズへ移籍。3年ぶりに古巣へ復帰することとなった。背番号13。
DeNAでの2013年はリリーフとして期待されたものの出れば打たれるような投球が続き、21試合で防御率7点台と大きく期待を裏切ることに。この年に60本塁打を放ったウラディミール・バレンティンとは3回対戦し全て被弾、3本塁打を浴びた。オフに戦力外通告を受け、トライアウトも受けたがオファーは無く現役引退。その後、ともに戦力外となった同僚の内藤雄太、ホークス時代の同僚の中西健太とともにスポーツ用品店に就職した。
2018年からは、母校の日本文理大学で野球部のピッチングコーチを務める。
横浜時代は制球にムラがあったものの、移籍後はコントロールが向上。重い直球とシュートを低めに集める投球が持ち味。
通算成績
通算:10年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 160 | 0 | 0 | 3 | 9 | 0 | 9 | .250 | 232.0 | 92 | 141 | 164 | 154 | 5.97 |
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関連項目
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