- プロ野球選手一覧 > 吉田豊彦
吉田豊彦(よしだ とよひこ、1966年9月4日-)とは、大分県出身の元プロ野球選手(投手)である。現在は高知ファイティングドッグスの監督を務める。
愛称はトヨさん。
概要
高知ファイティングドッグス #84 監督 |
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吉田豊彦 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 大分県国東市 |
生年月日 | 1966年9月4日 |
身長 体重 |
174cm 78kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右左投右左両打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1987年ドラフト1位 |
引退 | 2007年 |
経歴 | |
選手歴
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野球選手テンプレート |
国東高等学校、本田技研熊本を経て、1987年ドラフト会議で南海ホークスから1位指名(立浪和義の外れ1位)されて入団した。南海ホークス最後のドラフト1位選手である。ちなみに、スカウトから「君の評価は3位。だから契約金も年俸も3位としての額しか払えない。」と値切られたという哀しいエピソードがある。
1年目の1988年からリリーフを中心にフル回転し、チームが身売りして福岡ダイエーホークスとなった翌1989年は開幕から先発ローテーションに定着して初の2桁勝利(10勝)をあげた(ただし防御率は5.32)。
ホークス時代は在籍10年間で3度2桁勝利を記録し、1994年には防御率リーグ8位に入るなどの活躍を見せたが、11年目の1998年には開幕から1軍出場がなく、シーズン途中に阪神タイガースに金銭トレードされた。
タイガースには4年間在籍したがはかばかしい成績を残すことは出来ず、2001年のシーズンオフに戦力外通告を受け、テスト入団で大阪近鉄バファローズに移籍することとなった。
移籍1年目の2002年は42試合に登板し、初の防御率2点台を記録した。翌2003年は60試合に登板し2年連続の防御率2点台を記録する。
2004年も56試合に登板するが、過投が祟ってか防御率が4点台に悪化し、6敗を喫した。この年のオフ、近鉄がオリックスブルーウェーブとの合併を発表し、チームが消滅する事態となってしまう。吉田は分配ドラフトにより、新規参入球団の東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍することとなった。
すでに40歳手前のベテランながら、2005年は50試合に登板して2勝12ホールド1セーブを記録して存在感を示した。翌2006年も41試合に登板して10ホールドを記録する。
しかし、2007年には怪我の影響もあって不振に陥り、9月30日についに現役引退を表明した。ヒゲがトレードマークだったが、野村克也が楽天の監督に就任後、ヒゲを剃った(剃らされた?)。しかし、引退試合を行う数ヶ月前、監督に直談判してヒゲを生やすのを許された。
引退セレモニーの第一声が「まだまだ投げたいっ!!」と、彼らしくとても熱い、そして重い言葉であった。
2007年時点で、南海ホークス出身の現役選手(投手)の最後の一人であった。野手では3歳年下で同期入団の大道典良が居たが、こちらも3年後の2010年に引退し、南海に在籍経験のある現役選手は誰も居なくなった。
南海ホークスの身売り、大阪近鉄バファローズの消滅、東北楽天ゴールデンイーグルスの参入に全て立ち会った唯一の選手でもある。
チームを去った翌年にホークス、2年後にタイガースが優勝し、優勝の翌年にバファローズに入団するなど間が悪く、現役時代一度も優勝を経験することが出来なかった。
引退後
そのまま楽天の二軍投手コーチを務めたが、2011年をもって退団。
2012年からは四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスで投手コーチに就任した。2019年までコーチを務め、2020年からは監督に就任。
成績
通算投手成績
通算:20年 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 619 | 184 | 49 | 5 | 81 | 102 | 17 | 23 | .443 | 1596.0 | 640 | 1075 | 845 | 776 | 4.38 |
関連動画
関連項目
外部リンク
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