吉田麻也(Maya Yoshida,1988年8月24日 - )とは、日本の有名ブロガーサッカー選手である。
アメリカ・MLSのロサンゼルス・ギャラクシー所属。元サッカー日本代表。
189cm78kg。サッカーをするときのポジションはDF(センターバック)。利き足は右足。
概要
アルベルト・ザッケローニ監督に抜擢されて以降、日本代表のセンターバックとして定着し、2014年、2018年、2022年とFIFAワールドカップに三度出場し、いずれも全試合にフル出場している。2018 FIFAワールドカップ終了後には、代表を引退した長谷部誠の後を継いでキャプテンに就任。2022 FIFAワールドカップではキャプテンとしてチームを牽引した。2019年11月には、国際Aマッチ100試合出場を達成している。
オリンピックには日本人選手として唯一3度出場しており、オーバーエイジ枠で出場したロンドン五輪と東京五輪ではキャプテンを務め、いずれもベスト4に進出している。
クラブレベルでは長年海外でプレーしており、イングランド・プレミアリーグ、イタリア・セリエAといったトップリーグで活躍。サウサンプトン時代には、後にリヴァプールでチャンピオンズリーグを成し遂げたサディオ・マネ、フィルジル・ファン・ダイクとチームメイトだった。
若い頃は致命的なミスが目立ち、ファンやメディアから批判されることが多かったが、経験を重ねていくにつれて安定したプレイヤーと成長しており、日本の中でも歴代トップクラスのDFと評されている。
経歴
生い立ち
長崎県長崎市出身。3人兄弟の末っ子として誕生し、2人の兄とは年が離れていることもあり常に可愛がられながら育っていた。父親が活発で社交的な性格であり自宅に自分の知人を招待することを好み、兄の友達もたびたび招かれて食事をしていたため、幼少期から年上と接することが多かった。ちなみに吉田家のルールでは、外泊は禁止されていた。
小学2年生のときに、地元長崎市の南陸FCに入団し、本格的にサッカーを始める。小学6年生の頃、家族で名古屋を訪れたついでに名古屋グランパスのユースのセレクションを受けるとまさかの合格。家族は元より本人も合格すると思っていなかった。ちなみにこのとき、70人近くが受験し、合格したのは吉田を含めて4人だけだった。
以後、家族で愛知県に移住し、U-15世代から名古屋グランパスの下部組織に所属。当時のポジションはボランチだった。高校は愛知県立豊田高等学校に進学し、高校時代はスポーツ万能、成績優秀で有名だった。名古屋グランパスU-18時代にアンダー世代の代表に呼ばれるなど頭角を現し、2006年の全日本ユースではキャプテンとしてチームを準優勝に導く活躍を見せ、翌年名古屋グランパス・トップチームへ昇格。
名古屋グランパス
2007年の開幕前に名古屋のDFが相次いで退団したチーム事情もあってセンターバックへコンバートされ、第9節の大分トリニータ戦で公式戦初出場を果たす。ルーキーイヤーからJ1リーグ戦19試合に出場。武器である高さでは手ごたえを掴めたものの、スピードタイプのFW相手になると未熟さが露呈されていた。
2008年シーズンに就任したクラブのレジェンドであるドラガン・ストイコビッチ監督からの信頼を得てセンターバックのレギュラーに固定されると、J1第22節の鹿島アントラーズ戦でプロ初ゴールを記録。このときチームは決定力不足という課題を抱えており、シーズン終盤には高さを買われてFWとして起用されることもあった。年間を通してバヤリツァとのコンビで最終ラインを支え、この年3位と最後まで優勝争いを演じたチームに貢献。
2009年からは引退した大森征之から継承する形で背番号4をつけ、完全に名古屋の主力となる。初めてAFCチャンピオンズリーグに出場した年でもあり、第1節の蔚山現代戦ではヘディングで同点ゴールを決め、チームの逆転勝利に貢献。途中怪我もあって出場は25試合となったが、名古屋のDFの軸といえる存在にまで成長。自慢の高さを活かし、大事な場面で貴重なゴールを決める場面も見られた。12月28日に念願だった海外への移籍が決定。2010年1月1日の天皇杯決勝ガンバ大阪戦が名古屋での最後の試合となり、敗れたものの試合後涙を流しながら、サポーターに世界の舞台での活躍を約束する。
VVVフェンロ
2009シーズン終了後、2シーズン前まで本田圭佑が所属していたオランダ・エールディヴィジのVVVフェンロに完全移籍。ところが、移籍直後の練習中に左足首を骨折する重傷を負ってしまいシーズンを棒に振り、海外での挑戦は大きな挫折からのスタートとなる。
2年目となった2010-2011シーズンは背番号を「3」に変更。前年に負った怪我からの回復が間に合わず開幕は出遅れたが、2010年10月30日のフローニンゲン戦に途中出場し、ようやく念願の公式戦デビューを果たす。その後、出場機会を増やすが、完全にレギュラーに定着とはいかず、リーグ戦20試合の出場に終わる。
2011-2012シーズンは、プレシーズンでのアピールに成功し、開幕からレギュラーを奪取。2011年9月11日のエールディヴィジ第5節PSVアイントホーフェン戦では、見事なジャンピングボレーによるスーパーゴールを決める。このゴールは、後にオランダのサッカー情報番組における視聴者投票によるシーズンのベストゴール第1位に選出。以降、現地での評価が上昇するようになり、チームの守備の要として存在感を増すようになる。2012年3月13日、エールディヴィジ第24節NACブレダ戦では、チームメイトのカレン・ロバートとの日本人によるアベックゴールが実現。初めて年間を通してレギュラーとして活躍した3年目のシーズンは、本職の守備だけでなくチーム2位の5ゴールを記録するなど攻撃面でも貢献し、チームのエールディヴィジ残留の立役者となった。
サウサンプトン
ロンドン・オリンピック出場後の2012年8月30日イングランド・プレミアリーグのサウサンプトンFC(セインツ)への完全移籍が決定。9月15日の第4節アーセナル戦でプレミアリーグ初出場を果たす。だが、加入間もない時期だったのに加え、負傷者により前半29分に急きょ出場したこともあり連携面で苦戦し、アーセナルに6ゴールを奪われて大敗する屈辱的なデビューとなった。だが、その後チームからの信頼を得たこともあってセンターバックのレギュラーに定着するようになり、1年目にして公式戦32試合に出場する。また第24節のマンチェスター・ユナイテッド戦では、香川真司とのプレミアリーグ史上初となる日本人対決を実現させている。
2013-2014シーズンは、新加入のデヤン・ロブレンとのポジション争いに敗れ、控えのセンターバックという位置づけになる。出場機会が恵まれない中、2014年2月22日のプレミアリーグ第27節ウェストハム戦でプレミアリーグ初ゴールを決める。しかし、3月に練習中に左ひざ靭帯を損傷し戦線離脱。シーズン終了までに回復することはできず、この年の出場数はわずか8試合に終わる。
2014-2015シーズンはロブレンが退団するが、今度はトビー・アルデルヴァイレルトが加入。またしても控えという位置づけになる。ロナルド・クーマン監督は本職ではない右サイドバックで起用したり、3バックを採用した際はスタメンとして起用していたが、状況が劇的に変わったわけでもなく、便利屋というイメージで使われていた。結局、リーグでのスタメンは18試合とシーズンの半分ほどだった。
2015-2016も、後に世界最高のセンターバックと称されるようになるフィルジル・ファン・ダイクとのポジション争いが待ち受けており、キャプテンのダビド・フォンテとファン・ダイクの牙城を崩すのは厳しかった。右サイドバックとして出場したプレミアリーグ第6節マンチェスター・ユナイテッド戦ではバックパスを奪われて失点に関与する致命的なミスを犯す。第14節のマンチェスター・シティ戦でもやはり失点に直接絡むミスを犯しており、出場機会はさらに減ってしまう。
2016-2017シーズン前半もセンターバックの3番手という立場だったが、2017年に入って事態が好転。1月にフォンテが移籍し、さらにファン・ダイクが負傷によって長期離脱したことでセンターバックの定位置を掴むと、チームの危機を救う活躍を見せる。この頃から地元メディアやサポーターからの評価も上昇。キャプテンマークを巻いて出場するなど、チームからの信頼も厚くなり、クロード・ピュエル監督も吉田への信頼を強調するコメントを発するようになる。4月15日の第31節クリスタル・パレス戦でシーズン初ゴールを決めると、4月29日、第35節のハル・シティAFC戦では日本人選手として初のプレミアリーグ100試合出場を達成。シーズン終了後、地元紙によるサウサンプトン年間最優秀選手投票では2位となり、「吉田は今季セインツで成長を遂げた。ジョゼ・フォンテの移籍とファン・ダイクの長期離脱の後、センターバックの頼みの綱となった」と評価された。
2017-2018シーズンは開幕からレギュラーとして出場。開幕直後にクラブとの契約延長に合意し、コンビを組んだ若手のCBを経験値で引っ張るなどディフェンスリーダーとして上々のパフォーマンスを続ける。9月30日、第7節のストーク・シティ戦でシーズン初ゴールを決めると、12月13日のレスター・シティ戦でシーズン2得点目をマーク。ちなみに、この試合ではレスターの岡崎慎司もゴールを決めており、プレミアリーグの歴史で初めて複数のアジア人選手が得点した試合となった。年明けに左膝を負傷し戦列を離れ、チームも不振に陥り降格の危機に直面するが、この期間に待望論が出たことでかえって存在の大きさが再認識される。終盤に復帰すると、チームのプレミアリーグ残留に貢献。
2018-2019シーズンは、開幕から出場機会が与えられずカップ戦要員に降格。シーズン初スタメンとなったプレミアリーグ第8節チェルシー戦では、自身の不用意な判断ミスから失点を献上してしまう。チームは14試合でわずか1勝しか挙げれず降格圏に低迷。12月に監督のマーク・ヒューズが解任となり、ラルフ・ラングニックが新監督に就任。3バックが基本となったことで出場機会が増え、シーズン終盤にはレギュラーに定着。プレミアリーグ残留に貢献する。
2019-2020シーズンは、すっかりチームでも古参となる。しかし、2019年10月25日第10節レスター・シティ戦に出場するも、この試合で9失点を許す歴史的大敗にかかわることに。以降、若返りを図るクラブの方針もあって構想外となり、出場機会が激減。8年間所属したチームから放出されることが確実視されるようになる。
サンプドリア
冬の移籍マーケット最終日にあたる2020年1月31日イタリア・セリエAのUCサンプドリアへのレンタル移籍が発表される。3月8日セリエA第26節のエラス・ヴェローナ戦でイタリアでのデビューを果たすも、直後に新型コロナウィルスの感染の被害によってリーグは中断される。リーグ戦再開後は、主力に定着。過密日程の中、10試合連続でスタメンで起用され、セリエA残留に貢献する。この働きが認められ、シーズン終了後にサンプドリアへの完全移籍を果たす。
2年目となる2020-2021シーズンもベテランとしての豊富な経験を活かして守備の中心の一人として活躍。チーム事情もあって右サイドバックで起用されることもあったが、CBのときと同じように堅実な守備とフィードで無難にこなす。チームからの評価も高く、2021年1月には契約を2022年まで延長する。1月24日セリエA第19節のパルマ戦では、左足でセリエA初ゴールを記録し、チームの勝利に貢献。1月30日のユヴェントス戦では、チームは敗れたもののクリスティアーノ・ロナウドの決定機をタックルで阻止したプレーがイタリアメディアから高く評価される。スタメンを外れる時期もあったが、34試合中25試合でスタメンを務め、サンプドリアのシーズン9位フィニッシュに貢献する。
2021-2022シーズンでは、東京オリンピック出場によって合流が遅れながら開幕戦からスタメンで起用されると、2021年9月13日のセリエA第3節インテル戦でシーズン初ゴールを決める。このゴールはチームのシーズン初ゴールとなった。9月26日、第6節ユヴェントス戦でもシーズン2得点目を決める。シーズン前半戦は苦戦するチームの中で上々のパフォーマンスを続けるが、2022年1月6日のカリアリ戦で右太ももを負傷し、2か月ほど戦線を離脱する。復帰後はパフォーマンスが大幅に低下し、致命的なミスで失点に絡んだこともあり控えに降格。一時は契約延長確実と見られていたが、2022年6月30日に契約満了により退団が発表される。
シャルケ
2022年7月5日、ドイツ・ブンデスリーガのシャルケ04への移籍が発表される。背番号は「4」。これまでの豊富な経験とリーダーシップが買われ、加入後すぐに副主将に任命される。ブンデスリーガデビューとなった8月7日の開幕戦1.FCケルン戦でキャプテンマークを巻いて出場する。しかし、昇格組であるチームは大量失点を重ねて苦戦。自身も失点に直結するプレーが見られ、厳しい評価を受けてしまう。その後も低迷するチームで悪戦苦闘する日々が続くが、ワールドカップ後は安定した守備を披露するようになり、4試合連続無失点、7試合無敗を記録。開幕から28試合連続フルタイム出場を継続していたが、2023年4月に左太ももを負傷して離脱。復帰した5月13日のバイエルン・ミュンヘン戦で痛恨のバックパスをミスして失点を献上してしまうと、最後の2試合は起用されず。チームは2部降格となってしまい、6月7日に退団が発表される。
LAギャラクシー
2023年8月4日、アメリカ・MLSのロサンゼルス・ギャラクシーに入団することが発表される。契約期間は2024年シーズン終了までの1年半。背番号はシャルケ時代と同じ「4」。新天地でのデビュー戦となった8月27日のシカゴ・ファイヤー戦で早速アシストを記録。9月16日の第32節ロサンゼルスFCとのLAダービーではセットプレーからヘディングでの初ゴールを決める。シーズン終盤にはゲームキャプテンを任されるなど守備の要としてプレーしたが、チームはウェスタンカンファレンス13位と低迷。
2024年シーズンは代表でチームメートだった山根視来がチームに加入。2月25日の第2節ではリオネル・メッシ擁するインテル・マイアミと対戦し、終盤まで無失点で抑えていたものの試合終了間際にメッシに同点ゴールを決められ、勝利を逃す。3月16日の第4節セントルイス・シティ戦では試合終了直前にチームを敗戦から救うシーズン初ゴールを決める。4月21日、第9節サンノゼ・アースクウェイクス戦でシーズン2ゴール目を決める。
日本代表
ユース年代から代表に呼ばれてはいたが、この頃は候補止まりで終わっている。U-23世代では、2008年の北京オリンピック代表に選出され、グループステージ第3戦のオランダ戦に出場した。
A代表デビューとなったのは2010年1月のアジアカップ最終予選・イエメン戦である。若手中心のメンバーで臨んだこの試合で吉田は先発フル出場し日本の勝利に貢献、上々の代表デビューとなる。
その後、AFCアジアカップ2011において、中澤祐二、田中マルクス闘莉王といった南アフリカW杯まで日本代表を支えたセンターバックの後継候補として召集されると、アルベルト・ザッケローニ監督からレギュラーに抜擢される。初戦のヨルダン戦では痛恨のオウンゴールを犯してしまうも、後半ロスタイムに自ら同点ゴールを決めミスを帳消しに。その後も準々決勝のカタール戦で退場になるなど苦しみながら今野泰幸らと共に日本のゴールを守り続け、出場停止となった準決勝の韓国戦を除く5試合に出場し、最終的には日本代表のアジアカップ優勝に大きく貢献することになった。
アジアカップ以降は日本代表のセンターバックとして定着。当初は軽率なミスが目立ち、失点に絡むことも多かったため批判を浴びていたが、ザッケローニ監督が吉田のポテンシャルを見込んで辛抱強く起用し続けたことで成長を見せる。2011年9月2日の2014年ブラジルW杯3次予選の初戦では、北朝鮮戦では後半ロスタイムに決勝ゴールを決める活躍を見せた。
2012年ロンドンオリンピックでは本大会でオーバーエイジ枠として選出され、2大会連続でのオリンピック出場を果たす。キャプテンとして若いチームを牽引し、グループリーグ初戦のスペイン戦では堅い守備を見せ、優勝候補相手に1‐0の勝利(グラスゴーの奇跡)に貢献している。
その後も予選リーグでのチーム無失点への貢献、さらに決勝トーナメント1回戦のエジプト戦では2点目のゴールを決めるなどのハイパフォーマンスを見せ、最終的に4位となった日本代表に大きく貢献した。
フル代表では常連メンバーとして定着し、2013年のワールドカップアジア最終予選でも日本の最終ラインを支える。2014年5月に開催された2014 FIFA ワールドカップに出場し、グループリーグ3試合にスタメンで出場するも、大きな期待を集めたチームはコンディション調整に失敗したこともあって低調な出来のまま1勝もできずにグループリーグ敗退。自身は試合終盤に前線に上がってパワープレー要因となることもあったが、結果に結びつかなかった。
ザッケローニ監督退任後の4年間では、2度の監督交代という混乱があったが、いずれの監督からも信頼を得てコンスタントに出場を続ける。2017年頃から長谷部誠が不在のときにはキャプテンマークを巻くようになるなど、チームでの立場も大きくなる。ロシアワールドカップアジア予選では、三次予選、最終予選を通して全試合フル出場を果たす。
2018年6月に開催された2018 FIFAワールドカップで2大会連続の代表選出。グループリーグ3試合、決勝トーナメント1回戦にフル出場し、ディフェンスリーダーとして日本の2大会ぶり3度目となる決勝トーナメント進出に貢献。その初戦でベルギーに2点のリードをひっくり返される悔しい逆転負けで終わったものの、イギリスメディア「Sky Sports」でベルギー戦のMOMに選ばれた。
ロシアワールドカップ後、長谷部誠が代表引退したことで日本代表キャプテンを引き継ぐ。若返ったチームの中でベテランとして引っ張る立場となり、若い冨安健洋とコンビを組むことが多くなる。2019年1月から開催されたAFCアジアカップ2019に出場。決勝のカタール戦では、1点ビハインドの後半37分に不運なハンドの判定により、決定的な3失点目となるPKを与えてしまい、日本は準優勝に終わる。2019年11月14日カタールワールドカップアジア二次予選のキルギス戦において、日本代表では8人目となる国際Aマッチ100試合出場を果たす。新型コロナウィルス感染拡大のため1年ぶりの代表戦となった10月と11月の欧州遠征でも4試合全てにキャプテンとしてフル出場し、冨安とのコンビで堅実な守備を披露。あらためて代表に欠かせない存在であることを示す。
2021年7月に開催される東京オリンピックに出場するU-24日本代表にオーバーエイジ枠として選出され、自身3度目のオリンピック出場となる。さらに、自身2度目となるキャプテンを務めることになる。大会直前におこなわれたU-24スペイン代表との親善試合後、無観客での開催が決まった大会について「観客を入れることを再考して欲しい」というアスリートとしての本音を涙ながらに訴えている。本大会では、チーム最年長ながらも過密日程にもかかわらず3位決定戦までの全6試合にフル出場し、守備の要として若いチームを引っ張り続けたが、3位決定戦でメキシコに完敗。ロンドン五輪同様ベスト4という結果に終わり、悲願のメダル獲得はならなかった。
2021年9月からスタートした2022 FIFAワールドカップアジア最終予選では、最初の3試合で2敗を喫してしまう苦しい序盤戦となる。アウェイでのサウジアラビア戦後、差別的なジェスチャーをしたサポーターに対し怒りを現し、観客席に詰め寄る一幕があった。チームが苦しい時も連勝街道に入ったときも常に先頭を切り、キャプテンとして牽引。2022年2月の中国戦とサウジアラビア戦を怪我で欠場したが、ディフェンスリーダーとしての仕事を全うし、ワールドカップ出場権獲得の責任を果たす。最終節のベトナム戦では、代表ではおよそ2年半ぶりとなるゴールを決めている。しかし、6月14日のチュニジア戦で3失点全てに絡みチームは0-3で完敗。ファンやメディアから激しいバッシングを受け、一時はWikipediaの記事が荒らされてしまう。
2022年11月にカタールで開催された2022 FIFAワールドカップにはキャプテンとして出場。不安視されていた不安定なプレーが大会中にも随所に見られ、グループリーグ第2戦のコスタリカ戦では自らのパスミスが失点に直結して敗北してしまい、批判を浴びる。それでも、チームリーダーとしてドイツ戦、スペイン戦での二度のジャイアントキリングに貢献。ラウンド16のクロアチア戦まで4試合をフル出場するが、ラウンド16のPK戦では3人目のキッカーとして失敗し、ベスト8進出はまたも果たせなかった。
余談だが、名前を正確に表記してもらえないことが度々ある。
FIFA公式サイトのマッチレポートで安田理大と間違えられ、さらには名前を"Maja Joshida"と誤記されたことも。
ロンドン五輪でゴールを決めたエジプト戦後のエジプトのニュースでは”Saori Yoshida"(吉田沙保里)と誤記されてしまった。ニュース写真のキャプションではちゃんと”Maya"となっていたにもかかわらず。
ついでに、酒井は二人(酒井宏樹と酒井高徳)いるはずなのにどっちも間違われていない。
さらにその試合では、中東系の放送で"Maya Uchida"になっていたり、
Goal.comの英語版においても"Toshida"と誤記されていたという…
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2007 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 19 | 0 | |
2008 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 22 | 1 | |
2009 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 30 | 4 | |
2009-10 | VVVフェンロ | エールディヴィジ | 0 | 0 | |
2010-11 | VVVフェンロ | エールディヴィジ | 20 | 0 | |
2011-12 | VVVフェンロ | エールディヴィジ | 32 | 5 | |
2012-13 | VVVフェンロ | エールディヴィジ | 2 | 0 | |
サウサンプトン | プレミアリーグ | 32 | 0 | ||
2013-14 | サウサンプトン | プレミアリーグ | 8 | 1 | |
2014-15 | サウサンプトン | プレミアリーグ | 22 | 1 | |
2015-16 | サウサンプトン | プレミアリーグ | 20 | 1 | |
2016-17 | サウサンプトン | プレミアリーグ | 23 | 1 | |
2017-18 | サウサンプトン | プレミアリーグ | 24 | 2 | |
2018-19 | サウサンプトン | プレミアリーグ | 17 | 0 | |
2019-20 | サウサンプトン | プレミアリーグ | 8 | 0 | |
サンプドリア(loan) | セリエA | 14 | 0 | ||
2020-21 | サンプドリア | セリエA | 32 | 1 | |
2021-22 | サンプドリア | セリエA | 26 | 2 | |
2022-23 | シャルケ | ブンデスリーガ | 29 | 0 | |
2023 | LAギャラクシー | MLS | 12 | 1 | |
2024 | LAギャラクシー | MLS |
プレースタイル
世界最高峰のリーグであるイングランドのプレミアリーグで長年プレーしていることもあり、日本人史上最高のセンターバックという呼び声も高い。189cmの長身ということもあって空中戦に強く、ハイボールの処理は世界レベルでも十分にストロングポイントになれ、アジアレベルなら競り合いで負けることはほとんどない。空中戦の強さはセットプレーからの得点力にも活かされている。ライン統率力にも長けており、スペースのカバーやポジショニングセンスも高い。
左右両足でのキックも得意であり、前線へのロングフィードの精度も高く、プレミアリーグに移籍してからは左右にボールを散らす技術が向上し、ビルドアップでも貢献できる近代的なセンターバックである。
一方、前述したように足は遅くないもののアジリティ(俊敏性)や瞬発力が不足しているため、スピード勝負に持ち込まれると簡単に振り切られたり、簡単に裏を取られることが弱点である。また、特に若い頃に頻繁に見られた集中力を欠いてしまうことも課題であり、いわゆる「やらかし」として大きなミスを犯すことがある。また、ビルドアップが得意な分、安易に縦パスを選択してしまう傾向があり、ボールを掻っ攫われてカウンターのきっかけを与えてしまうことがある。
エピソード
VVVフェンロやサウサンプトンでは長年背番号3と付けているが、日本代表での背番号は代表デビューしたときからずっと22である。
福岡ダイエーホークス、日本ハムファイターズ、阪神タイガースなどで活躍していた元プロ野球選手の下柳剛は、母親の実弟であり、吉田の叔父にあたる。下柳がイギリスを訪れ、ご飯をおごってもらった際の2ショット写真がツイッターにあがっている。
小学校の頃、三度交通事故に遭っている。そのうちの一度は10mほど吹っ飛ばされたがかすり傷程度で済んでいる。
2012年9月26日名古屋グランパス所属時代から交際していた一般人女性との結婚を報告。内田篤人の関係を祝福していた人々にショックを与えた。2016年には第一子となる長女が誕生。
好きなサッカー選手には、リヴァプールのレジェンドであるスティーヴン・ジェラードの名前を挙げている。
日本テレビの「サッカーアース」において「吉田麻矢の欧州か!?」というレギュラーコーナーを持っていた。これがきっかけで、ロンドンオリンピック準々決勝エジプト戦でゴールを決めた際のゴールパフォーマンスとして、タカアンドトシのタカの持ちギャグである「俺だ!俺だ!俺だ!」を披露。この姿がサッカーマガジンの表紙を飾り、「メダルだ!メダルだ!メダルだ!」というコメントが載せられた。
スピード不足が弱点というイメージが強いが、イングランドプレミアリーグの2016シーズンにおける選手の走行最高速度で、時速34.78kmを記録し、プレミア屈指のスピードスターといわれているアーセナルのセオ・ウォルコットと並んで8位に入っている。
今でこそ日本代表キャプテンという立場で高いリーダーシップが際立っているが、基本的に弄られキャラであり、ムードメーカーである。
2022年4月1日より、海外でプレーする現役選手でありながら自信がパーソナリティを務めるラジオ番組「吉田麻也のチャレンジ&カバー」(JFN38局ネット)がスタートする。
有名ブロガーとして
公式ブログを早くから開設しており、更新頻度も高く、そのコミカルな文章から女性人気も高い。
ブログには副業であるサッカーについての話題の他、オランダでの普段の生活について書かれることも多い。吉田と同じくサッカー日本代表で、現在はドイツブンデスリーガのシャルケ04に所属する内田篤人が、ブログに物凄く高い頻度で登場することで知られる。腐女子歓喜。
吉田はイングランドへ移籍したのでドイツの内田とはこれまでより遠距離になってしまったが
これからの展開やいかに!?
その後、2人とも結婚したためこの論争には終止符が打たれた。
2012年には自らのブログの内容をまとめた初の著書、「サムライDays、欧州Days」が発売されている。この本で吉田は自らを「プロサッカー選手兼プロブロガー」と述べてもいる。知ってた。発売三カ月で10万部を超えるベストセラーに。
日本代表メンバーによる人物評
「かなり年下ですが、サッカー観も似ていますし、よく話しますね。彼も人懐っこいですね。でも、あの風貌ですから、あまり年の差を感じませんね。」
〜中村憲剛〜「シュートコースを変えるのをやめてもらいたいですね……(笑)。」
〜川島永嗣〜「麻也は顔が長いだけですよ(笑)。ブログは面白いらしいですが、トークは全く面白くないですからね。ブログが面白いというのも僕らは納得してないですけどね。みんな、騙されてるんですよ。文章だと面白いというだけです。たぶん、笑いの才能はないですよ(笑)」
〜遠藤保仁〜
関連動画
さらにこのシーズン5点を挙げるFW顔負けの大活躍
↓内田との恋人並みの仲の良さを示す動画。もう結婚しちゃえばいいよ
著書
- サムライDays、欧州Days(2012年3月6日、学研プラス)
- 増刊! マヤニスタ(2013年6月14日、ベースボール・マガジン社)
- 旅するサッカー(2014年5月10日、ソル・メディア)
- 吉田麻也 レジリエンス――負けない力(2018年6月1日、ハーバーコリンズジャパン)
関連項目
外部リンク
- 吉田麻也オフィシャルブログ(旧)(http://maya.blogzine.jp/)
- 吉田麻也オフィシャルブログ(新)(http://ameblo.jp/mayayoshida)
- MAYA YOSIDA(@MayaYoshida3) - 公式ツイッター
- Maya Yoshida(@mayayoshida22) - 公式インスタグラム
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