吉良満義(?~1356)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
概要
吉良氏は足利義氏の庶長子の家で、吉良満義は鎌倉時代に越前守護も務めた長氏流の西条吉良氏の出身である。
討幕の当初から足利高氏に従っており、建武政権では関東廂番に任じられ足利直義のサポートを務めた。そのため中先代の乱では足利直義軍として戦うも、渋川義季、岩松経家、小山秀朝らのように命を失うことはなかったものの、敗戦によって駿河へと直義とともに撤退している。
その後は足利尊氏軍と合流し、乱鎮圧後の建武政権への離反にも付き従い幕府創設に協力した。その結果引付頭人として幕政に関与することとなった。
彼は京都を離れて鎌倉に向かい、足利直義とともに関東支配に尽力した。しかしここで北畠顕家の二度目の上洛が起き、鎌倉から敗走。青野原の戦いでも顕家に再度敗れている。
その後の観応の擾乱では足利直義派になり、直義が逃走した際は三河で足利尊氏の進軍を妨害し、「吉良荘の凶徒」とまで言われている。
しかし他の直義派と違い、直義没後に南朝にいた時期は短く1355年には尊氏派に帰順している。そしてそのすぐ後に亡くなった。
一方息子の吉良満貞は直義の鎌倉落ちに同行するほどの直義派で、直義没後も足利直冬に従って対立を続けている。しかし家臣の一部が弟の吉良尊義を新たに東条吉良氏と分立させたうえで当主に担いで帰順してしまい、1360年に三河守護の大島義高との戦いに敗れ、ついに満貞も足利義詮に帰順した。
彼は遠江の引馬荘を与えられ引付頭人に任命されるなど、その後は室町幕府に尽くしたようだ。
関連項目
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