概要
MFで、利き足は左足。
正確なテクニックやキックが持ち味のゲームメーカー。
また、周りの味方を活かすことにも定評があり、一緒にプレーした選手からは賞賛の声が多い。
中でも、中田英寿が「目を合わせなくても次のプレーが予測できた、オレの人生で最高のパートナーだった」
と評価している。
主にジュビロ磐田や日本代表で活躍。
1998年のワールドカップでは予選から本戦まで、10番を背負い、日本のワールドカップ初出場に貢献した。
1999年、イタリアのA.Cヴェネツィアに1年間移籍するも、チーム内のゴタゴタなどにより、
出場機会に恵まれず、チームもセリエBへ降格したため、1年でジュビロ磐田に復帰するも、
セリエAでの経験は伊達ではなく、直後に行われたアジアカップレバノン2000では、
チームの中心として大活躍。大会MVPに輝いた。
2001年にはジュビロ磐田は当初予定されていた「世界クラブ選手権」に出場予定で、
その対戦相手であるレアル・マドリードとの試合を想定して、
彼を中心としたフォーメーション「N-BOX」という戦術が作られた。
しかし、肝心の世界クラブ選手権がスポンサーの都合で中止になり、名波自身も右膝を怪我をし、1年の長期離脱。
2002年に復帰するも、日韓ワールドカップの日本代表メンバーからは外れた。
(後に、当時代表監督のトルシエは雑誌のインタビューに、ケガがなければ絶対に呼んでいたと話している)
2002年のJリーグでは、名波を中心としたN-BOXが復活。
華麗なパスワークや、チーム全体が連動した激しいプレスなど、
見るものを虜にさせ、当時は2ステージ制だったJリーグを史上初の完全制覇へ導いた。
そしてジーコジャパン最初の試合に召集されるも、「自分の右膝は国際試合にはとてもついていけない」とジーコに告げ、代表を引退。クラブでの試合に専念した。
その後、ジュビロのチームスタイル変更により、出場機会が少なくなり、自ら移籍を志願。
セレッソ大阪、東京ヴェルディとチームを渡り歩き、2007年には引退を決めていたが、
ジュビロ側からの強い要望により、2008年、ジュビロ磐田に戻り、ラストシーズンを過ごした。
引退後は解説者、またはジュビロのアドバイザーとして活躍している。
間違いなく、日本代表と、ジュビロの黄金期を支えた一人である。
2014年9月より、ジュビロ磐田の監督に就任した。
2014年こそ4位となり、昇格プレーオフでモンテディオ山形に敗れJ1昇格はならなかったものの、翌2015年は2位に入りJ1への自動昇格に導いた。
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