「呂曠」(リョ・コウ ? ~ ?)とは、後漢末期の武将であり、袁尚に仕えた人物である。
三国志演義では呂翔の兄とされているが、正史では関係性についての記載は無い。
正史では
兗州東平郡出身で、袁紹の三男袁尚配下の大将として仕えていた。
袁紹の死後、袁尚が兄の袁譚と跡目争いを始め、平原にて袁譚を包囲していたが、袁譚が曹操に降伏した為、曹操軍が黄河を渡ったとの報告を受けた袁尚は包囲を解いたが、この時、呂曠は呂翔と共に袁尚に背いて曹操に基準し、列侯に封ぜられた。
袁譚は、偽の将軍の印綬を捏造して呂曠を自分側に引き入れようとしたものの、呂曠はこの件を曹操に密告した。
以降は史書には登場しない。
演義では
袁紹死後に袁尚と袁譚が跡目を争った際に、袁尚軍の先鋒として戦ったが、袁譚が曹操に降伏した事から呂曠も呂翔と共に曹操に帰順し、馬延らも帰順させた。
壺関の戦いでは、袁紹の甥の高幹に偽りの降伏を行って楽進らの伏兵を成功させた。
曹操が新野の劉備を攻撃した際に、曹仁の配下として従軍し、曹仁に頼み込んで呂翔と共に5000の兵をもって劉備軍にあたったものの、趙雲に一撃で討ちとられ、呂翔も張飛に一撃で倒された。
※その他「呂曠」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照
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関連データ
能力一覧 | 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 陸指 | 水指 | 身体 | 運勢 |
三國志 | 81 | 23 | 36 | 74 | 87 | ||||
三國志II | 78 | 23 | 51 | ||||||
三國志III | 73 | 25 | 21 | 50 | 68 | 27 | |||
三國志IV | 62 | 72 | 30 | 25 | 52 | ||||
三國志V | 71 | 25 | 23 | 40 | |||||
三國志VI | 60 | 67 | 27 | 31 | 30 | ||||
三國志VII | 58 | 26 | 28 | 28 | |||||
三國志VIII | 63 | 26 | 28 | 28 | |||||
三國志IX | 64 | 64 | 14 | 28 | |||||
三國志X | 55 | 63 | 17 | 29 | 24 | ||||
三國志11 | 56 | 70 | 13 | 22 | 29 |
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