呂範とは、三国志に登場する人物である。
孫家の親しき友にして誠実な大司馬
若い頃は県の貧乏役人だったが、その風采が只者でないことを見た豪族の劉氏が渋る妻を説得して娘を娶らせた。
戦乱を避けて寿春(安徽省六安市)にいた頃に孫策と知り合い、臣従を申し出た。徐州に孫策の母を迎えに行ったが徐州牧の陶謙に袁術の配下と間違われ投獄され拷問される目に遭っている。呂範の配下らが役所を襲撃して呂範を救出して、この難をかろうじて逃れた。
孫河(孫桓の父、孫韶の叔父)と共に孫策の左右として覚えがめでたかった。孫家の勢力拡大に伴い劉繇や厳白虎、山越らとの戦いで功績を上げる。孫権の代になってもその働きぶりは変わらず、赤壁の戦いでは周瑜らと協力して曹操の軍勢を打ち破った。
劉備が孫権の妹との結婚のため呉を訪れた時はそのまま留め置くよう進言して、のちに孫権はその言葉に従わなかったことを後悔した。219年の関羽との戦いの時は建業で留守を守り、222年に曹魏が攻めてきた時は洞口(湖南省邵陽市)で徐盛、全琮、孫韶らを率いて曹休、張遼、臧覇らに当たる。この時は自軍の船団が暴風雨に襲われ数千人の被害を出している。
順調に出世していた呂範は228年に大司馬に昇進するも印綬を受ける前に病没。孫権は心から哭礼し、のち彼の墓を訪れた時は字で呼びかけたきり言葉を発せずに咽び泣いたという。長男は早世したため次男の呂拠が跡を継いだ。
逸話
- 孫策から会計を任されていた頃、孫権がよく金をせびりに行ったが呂範は必ず孫策に許可を取ってからでないと金を与えなかった。一方で帳簿を書き換え孫権に都合よく便宜を図る会計係もいた。孫権はこの会計係の方を好んだが、自分が君主になると呂範を忠実であると評価して重用し、後者の会計係はあてにならない人物として退けた。
- 厳畯は孫権に「主上は魯粛を鄧禹、呂範を呉漢のように重用し過ぎではないでしょうか」と言ったことがあるが、孫権は「光武帝は鄧禹、呉漢を重用したがきちんとした根拠があった。魯粛も呂範も彼らのように多大な功績があったから用いたのだ」と理路整然と説明して厳畯も納得している。
- 晩年は格式張った態度を取るようになり、賀斉のように豪奢で派手好きな性格になった。それでも孫権の寵愛が薄れることはなく、呂範もきちんと仕事をして法を守っていた。陸遜や全琮も必ず呂範に対しては丁重だった。
各メディアにおける呂範
三国志演義
もとは袁術に仕えていたが、孫策と朱治が旗揚げの密談をしているのを聞きつけ仲間に加わる。
劉備が孫権の妹と結婚のため呉に訪れたところを賈華を使って謀殺しようとし、失敗すると賈華に責任をなすりつけている。
関羽を攻めた時は占いで関羽の退路を的中させている(正史では呉範)。
三国志大戦
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関連項目
- 三国志の登場人物の一覧
- 孫策 / 孫権
- 呉(三国志)
- 呂拠
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