呉夫人とは、下記の事物を指す。
- 中国史に登場する皇妃。劉備の皇后(呉懿の妹、穆皇后)、司馬師の二番目の夫人(呉質の娘、離婚している)、唐の粛宗の皇后(子の代宗によって皇后位を追贈)、南宋の高宗の皇后、明の憲宗成化帝の最初の皇后(廃立)など。
- 三国志に登場する女性、特に孫堅の正夫人。
ここでは、2について説明する。
孫呉を支えた母
揚州呉郡呉県(江蘇省蘇州市)の人。弟に呉景がいる。
早くに両親を亡くしたので銭唐(江蘇省杭州市)に移住していたが、その時孫堅が彼女に求愛し婚姻を求めた。
呉景の親戚は氏素性も分からないゴロツキみたいな男に彼女を差し出すのを嫌がった。しかし孫堅といえば17歳の時、この銭唐で海賊退治をしたエピソードで有名である。孫堅が恨みを抱いた事を察した彼女は将来に禍根を残すべきではないと言ったため孫堅と結婚することにした。
彼女は孫堅との間に孫策、孫権、孫翊、孫匡の4人の息子を儲けた。
孫堅死後、孫策が自家の勢力を拡大していくが、その急激的なやり方を懸念していたようで、孫堅の旧知だった王晟という群雄を討伐した時は呉夫人は孫策に「年寄り一人を残すのみで何を恐れるのですか」といってこれを許させた(王晟の一族は皆殺しにされていた)。また、孫策配下の魏騰が孫策の機嫌を損ねて殺されそうになった時、井戸の縁に身を寄せて「魏騰を殺せば東呉の人心を失います。もし殺すならば私も井戸に身を投げます」と言って慌てた孫策は魏騰を釈放した。
孫策死後は孫権が呉の君主となる。呉夫人は孫権に対し周瑜を兄として仕えるよう指示したが周瑜は孫権を主君として敬い、周りも孫権に従うようになった。
建安7年(202年)、曹操から人質を送るよう孫権の元に使者を寄こした。群臣らは協議したが結論が出ず、孫権は周瑜を連れて母の呉夫人に相談をした。周瑜は今は人質を送らず様子を見るよう進言して呉夫人もこの意見を支持したため孫権は曹操の申し出を断った。
同年に呉夫人は没する。張昭を呼んで孫権の輔弼を委託したという。翌年には弟の呉景も没している。
孫権が皇帝に即位すると、孫堅が始祖・武烈皇帝を追尊された際に呉夫人も武烈皇后の称号を贈られている。
逸話
- 『捜神記』には、呉夫人が孫策を身ごもった時に月が懐に入った夢を、孫権を身ごもった時は太陽が懐に入った夢を見た話が描かれている。これを聞いた孫堅は「月と太陽は陰と陽の最も貴いものの象徴だ。俺の子孫は栄えるぞ」と言った。
家族
劉備に嫁いだ孫夫人(孫尚香の名は京劇出典)は生母は不明。
彼女の妹、呉国太が産んだというのは三国志演義での話である。
各メディアにおける呉夫人
三国志大戦
Ver3.5で登場したR呉夫人の関連動画は非常に多い。
「賢母の助け」から賢母様と呼ばれていたりする。
呉夫人の関連動画
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関連項目
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