概要
元は黄巾の乱に参加した賊徒で、裴元紹らと臥牛山で山賊をしていた。裴元紹が語るところによると周倉は関西(涼州方面)の出身で、両腕に一千斤(約600kg)の怪力があり、厚い鉄板のような胸と渦を巻くような縮れ髭の持ち主。
黄巾の乱の時に見た関羽の勇姿に惚れ込み、その配下になることを夢見ていた。
関羽に付き従った豪傑
曹操のもとを辞去して劉備のもとに向かう途中、関羽と出会い裴元紹に子分を預けて単身仲間に加わる。あとで裴元紹を仲間に迎えようとしてその途中で趙雲に出くわし散々に打ち負かされる。
関羽が呉の魯粛と「単刀会」で会見した時関羽の従者として同席。席上で「天下の土地は徳がある者が治めるので呉のものではない」と大声を張り上げ関羽に退出させられる。しかしこれは関羽とあらかじめ練った策で、退出した周倉は味方の水軍を呼び寄せ、関羽と共に荊州に無事帰還した。演義だけでなく京劇などでも知られる名場面である。
魏の于禁と龐徳の軍が攻めてきた時、関羽は水攻めでこれを打ち破る。周倉は龐徳の乗った小船に自船をぶつけ水中に叩き落とすと、得意の水泳で龐徳を捕獲した。
のち呉の呂蒙の軍が荊州を落とした後、関羽は蜀に救援を求めに行き周倉と王甫は麦城で救援を待つ。しかし呂蒙に捕獲され処刑された関羽の首を見た周倉と王甫は城壁から飛び降りて(あるいは自刎して)関羽に殉じた。
周倉の登場過程
周倉の名は『三国志平話』で既に見えるが、関羽とは全然関係ない木牛流馬の管理係としてだけ登場する。
しかし『花関索伝』では最初成都を守る元帥だったが関索に敗れて関羽の配下となり、呉に攻められ飢えた関羽に自分の股の肉を切り取って食べさせたのが原因で死ぬ、という役を演じている。
また道教の儀礼書『道法会元』では周昌将軍として関羽の側に付き従うなど、周倉の原型は演義の誕生過程で作り上げられていったといえよう。
現在では関帝廟では関平と共に関羽の従者として祀られている。また架空の人物であるはずの彼の墓も存在したりしている。
各メディアにおける周倉
笑府
こんな話が収録されている。
いつも関羽に付き従い関羽の後ろを走る周倉。周倉が(´・ω・)カワイソスと思った関羽は彼に名馬を送ることにした。
だが関羽の乗る赤兎馬は一日千里を走るといわれ、赤兎馬に匹敵する馬など見つかるわけもない。
なんとか一日九百里を走る馬を見つけ周倉に贈ったが、これでは一日たびに百里ずつ離されてしまう。
そこで周倉は馬に乗って一日九百里を駆け、残りの百里は自分の足で走った…
そして、彼はマラソンランナーとして一部の動画でネタにされることに。
横山三国志
特徴的な帽子を被り、なかなか味のある濃い顔をしている。
三国志大戦2のLE周倉でその御姿を拝見できる。
ニコニコ動画
関連項目
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