和三盆(わさんぼん)とは、
- 四国地方で生産されている含蜜砂糖。手作業で作られる高級砂糖で、主に和菓子に用いられる。←本記事で解説。
- 2人組の女性実況プレイヤーである。→和三盆(実況者)
- トークロイド師として活動していたボカロPの一人→和三盆P
概要
香川県と徳島県で作られる含蜜砂糖である。この記事では和三盆の製法・歴史・そして名称の由来について説明する。
製法
名称は江戸時代に輸入されていた中国産白砂糖の最高級品「三盆糖」からきている(詳しくは後述)。
現在は香川県で作られているものを讃岐和三盆、徳島県で作られているものを阿波和三盆と称している。詳しい製法は以下を参照
どちらも製法は変わらない。大雑把にいえば黒砂糖(白下糖)をつくり、それを加圧して蜜(ショ糖以外の雑多な成分)を絞ったものを、さらに水を加えて蜜を浮かせてはさらに絞る。この工程を繰り返して蜜を抜いたものを乾燥させれば完成である。
現在でも基本手作業で作っているため非常に労力がかかる。そのため大変高価である。
和三盆糖の特徴
今日の白砂糖は機械製糖(あるいは機械式製糖)と呼ばれる方法で作られている、ほぼ純度100%ショ糖である。
しかし和三盆は製法の都合上完全な分蜜ができず、結果ほんのちょっとだけ蜜が残っている。また脱塩処理を挟んでいないこともあってカリウム等ミネラル成分を多く含んでいる。このことからグラニュー糖や上白糖には無い「風味」が特徴。
見た目はほんのり色が付いているが、カソナード(粗糖)のようなはっきりした茶色ではなく、クリーム色の淡い色合いである(精白度でいえば「グラニュー糖>和三盆>粗糖」という形になる)。
口どけがきめ細やかなこともあり、ひんやりしたようなすーっとしたような風味を持っている。クドさのもとである蜜が残っているにもかかわらず、不思議なことに白砂糖よりもくどくない。
熱を加えると独特の風味が失せやすいこともあってお菓子としては落雁に加工されることが多く、以前はほとんどが落雁に加工され、粉砂糖としては地元消費が主であった。しかしコーヒーや紅茶に入れてもおいしく、この方面での利用が増加している。
そのため近年では生産地である香川県と徳島県以外でも、都市部ではそれなり入手できる。いくつかの製糖所ではネット通販もしている。
値段は普通の砂糖より文字通り一ケタ高い。これは現代でもほぼ手作業で製糖を行っているためである。
和三盆の歴史
ここでは和三盆の歴史について述べる。和三盆が生まれる以前の前史、和三盆が登場しシェアを増大させた江戸後期、機械式製糖が登場し現在の立ち位置に変わることになった近代の状況とに分けて述べる。
前史
砂糖の大量輸入と国産サトウキビ
江戸時代と言えば鎖国といわれるが、実際には清、朝鮮、オランダといった国から様々な物品を輸入していた。その支払いはと言えば主に金・銀・銅(特に銅)で行っていた。当時日本は東アジア有数の資源大国であった。その中で長崎に来航するオランダ・清国船のほとんどに積み込まれていたのが砂糖である。[1]
どのくらい大量に輸入していたかといえば、なんと年2000トン超。長崎貿易の総額のうち3割くらいが砂糖だったとされている。
いくら資源大国といっても鉱物資源が無尽蔵にあるわけでもなく、金銀銅の大量流出は江戸時代を通じて多くの学者や政治家を悩ませることになる。そして江戸時代も100年目くらいになると各地の鉱山で産出が減少しだし、資源枯渇がいよいよ現実味を帯びてくることになった。そこで彼らは考えた。輸入せずに自分たちで作ればよい、と。
貿易品の中でもとにかく量が多い砂糖の国産化は多くの学者が唱える優先課題であった。そして18世紀にはいるとサトウキビ栽培が奨励されるようになり製法もある程度確立し、18世紀半ばからは特に栽培が本格化した。
(しまいには主食の畑まで潰してサトウキビを作り始めたので、砂糖価格の下落もあって幕府は「サトウキビばっかりつくんな (`Д´)」とお触れまでだしている)
その結果年間の流通量は幕末ごろには輸入・国産合わせて3万トンくらいまで膨らんでいる(人口1人あたり年1キロ程度消費できる計算で、価格は1キロ1500円程度だったという)。
白砂糖の需要増
しかし実際には前述のように大量の砂糖を輸入しており、さらに江戸中ごろをすぎると幕府をあげてサトウキビ栽培を推進したうえ、薩摩藩も琉球・奄美で作った砂糖を大量に輸入しだしたため(ただし大半は黒砂糖)、特に都市部では貧困層まで日常的に使える程度に普及していたらしい。
砂糖がふつうに手に入るようになってくるとそれを使って商売する菓子屋も出現し始める。そして製菓に関する本も出版されるようになるが、特に製菓においては「アクが強くてくどい。何より色が茶色い」黒砂糖は使いにくかったようで、「すっきりした甘さで白い色が出せる」高純度の白砂糖の需要がどんどん増していった。
加えて当時、黒砂糖や精製度の低い白砂糖には不純物が大量に含まれていたらしい。
そのため当時の菓子製法書の中では、不純物を取り除いたりアクを取り去ったりするために、「砂糖を一回煮溶かして濾す」「氷砂糖の表面を洗ってから使う(当時の氷砂糖は特に表面に糖蜜やゴミが付いていた)」といった説明が頻繁に出てくる。挙句卵白を放り込んで濾したり、山芋をぶち込んでアクを浮かせたりしている(いずれも熱凝固の際に不純物をからめとる工夫である)。
そのような状況で早くも18世紀前半には長崎輸入砂糖の大半は白砂糖(+氷砂糖)になっていた。高純度の白砂糖需要も高く、その中で輸入されていた白砂糖の最高級品が三盆糖(三盆大白糖)である。
覆土法と加圧法
ここでいったん白砂糖と黒砂糖とは一体どういう関係のものなのかを説明しておく。
サトウキビの汁をしぼり煮詰めていると黒茶色とか黄黒色とか呼ばれるような状態になり、それを冷やしたものが黒砂糖である。この際うまくやると糖(ショ糖の結晶)と蜜(それ以外)が混ざりつつも分離した状態になる(白下糖という。この段階を今日では「結晶化」と呼ぶ)。そこから糖蜜を何らかの方法で分離(分蜜)したものが白砂糖である。
上述したように日本でサトウキビ栽培が本格化する18世紀には白砂糖の需要がどんどん高まっていた。
日本でも『天工開物』(1637年)と言った書物を仕入れたり、清国人から直接情報を仕入れたり(1726年には李大衡という清国人船長に砂糖の製法を聞き取った記録が残る)するなどして、サトウキビの栽培方法と合わせて白砂糖の製法も輸入していた。
そこで語られている製法が覆土法である。大雑把に説明すると「底に穴のあいた逆円錐形の容器(瓦漏という。穴は最初ふさいでおく)に煮あげた糖液を入れて固めて黒砂糖にし、その上に湿った土をかぶせると下の穴から糖蜜が出てくる。そして半月くらいすると白砂糖ができる」というもので、土に含まれる水分で糖蜜を溶かし出し、重力で下に落とすという浸出式の方法である。
この方法でつくると蜜と分かれた糖が上面に析出する。特に容器の上のほう5寸ばかりが上質であるという(中国ではこの部分を「西洋の砂糖のように上質」として洋糖と呼んだ)。
この方法は『天工開物』に紹介されているほか、平賀源内が『物類品隲』(の巻末にある「甘蔗培養幵製造法」)でより詳しく説明している。李大衡から聞き取った方法もこれであり、幕府により出版された書物である『砂糖製作記』(1797年)も同様である。特に『砂糖製作記』では三盆大白糖の製法としても覆土法を紹介しており、通常品質の砂糖を再度煮溶かして覆土を再び行い再精製したものとしている。
さて、田沼期の人物に池上幸豊という人がいて製糖に携わっている。その人の資料である『池上家文書』(製糖に関する文書は4巻)によると、結晶化した黒砂糖にするまでは一緒なのだが、それを絞ったり押し付けたりして分蜜する方法を実践していたという。これが加圧法である。池上幸豊はその後各地を回り製糖法を伝えている(ただしこの際伝えた方法でもあくまでメインは覆土法であり、同時期の製糖史料として『池上家文書』4巻におさめられている製糖法の説明書『砂糖製法秘訣』でも覆土法しか記載されていない)。
いずれにしても経験則的に、「圧をかけると分蜜できる」というのはわかっていたらしい。このことが、和三盆を生み出す大きな要因となった。
*この節における覆土法や池上幸豊の情報などは、伝統的製糖法の研究をしている荒尾美代氏の文章を大いに参考にさせていただきました。氏の文章は農畜産業振興協会のサイトでコラムと言う形で読むことができます→農畜産業振興協会
和三盆糖の誕生
このように研究が進み、18世紀中ごろには覆土法での国産白砂糖も少しずつ生産され始める。
そのような中で砂糖に目を付けたのが讃岐国高松藩である。高松藩は平賀源内の生地でもあり、源内からもサトウキビ製糖の情報を得ていた。源内のころの当主は五代松平頼恭であるが、このころから本格的に製糖を研究し始める[2]。
製糖技術の開発には関良介・向山周慶という人物が研究にあたった(向山は医者で関良介を助けたのだが、奄美出身の彼がサトウキビ苗を持ち出したのが栽培のはじまりと伝わっている)。
それから30年ほどたった18世紀末にはサトウキビ栽培から黒砂糖の生産に成功し、それからほどなく白砂糖の製造にも成功した。さらにしばらくして日本独自の製糖法「押舟切櫂法」を編み出すに至る。
日本酒を絞る際の舟(酒槽)を流用して重石をかけて蜜を絞りだし、さらには水を少量加えて切櫂というヘラで切り揉みして糖蜜をさらに分離するというもので、ここに日本独自の製法で作られる上質な白砂糖・和三盆糖が完成した。
さて、ほぼ同時期に讃岐の隣国の阿波国でもほとんど…というか全く同じ方法で製糖が始まっており、こちらを阿波和三盆と呼んでいる。こちらでは丸山徳弥という人物が延岡藩から製糖法を学んだ後つくりだしたという。
讃岐和三盆は1798年に最初の白砂糖を大阪に送りだしたといい(ばいこう堂のHPによれば押舟切櫂法の完成は1808年という)、阿波和三盆については1798年にはすでに完成していたと上板町史で主張している模様。どっちがパクった先かは各々の判断にお任せする。
…両者の名誉のために言えば、サトウキビ栽培や製糖を行っているのは阿波と讃岐の国境線沿い(山を挟んで南北という隣接地域)であり、交流があったと考えるのが自然ではなかろうか…?そういうことにしておいたほうがいい気がする。
なお、一般的に和三盆は加圧式の分蜜法と言われているが、水分を含ませて蜜を浮かせて分蜜するのは覆土法による浸出と共通している。つまり実際には加圧法と浸出法のハイブリッドであるともいえる。
このようにして生まれた和三盆は1820年ごろには讃岐・阿波だけで3600トン(糖蜜等を合わせた総量6000トン超)を産出するに至り、讃岐・阿波の和三盆で国産品のほぼ半分のシェアを占めるまでになっている(国産砂糖の残り半分は主に薩摩藩からであるが黒砂糖が主だったため、白砂糖に限ると圧倒的なシェアを誇っていた)。
なぜ和三盆は日本を席巻した?
上記のように江戸後期の日本では和三盆はその生産量を含めて日本の白砂糖市場を席巻していた。
白砂糖の製造に成功した時期でいえば阿波讃岐はそこまで早いほうではなく、すでに1750年代には尾張国(愛知県知多半島)や長門国(山口県下関)などで覆土法による製糖が行われていた記録がある。後発でありながら一気にシェアを拡大できたのはなぜであろうか。
これは、讃岐・阿波がサトウキビ栽培に比較的適していた(そして米作に適さず有望な商品作物が他になかったためサトウキビ生産が増大した)というのもあるが、覆土法にくらべて効率的に白砂糖を精製できたのも大きい。
覆土法では土をかぶせてから白砂糖ができるまでに半月ほどかかり、しかも上質なものは上5寸ほどと、一つのカメにつき数キロしかできない。その上分蜜が不十分なものはさらに2回3回と覆土を繰り返さなければならず、非常に時間がかかる方法だった。『砂糖製作記』のような再精製を行えばさらに時間がかかる。
しかし押舟切櫂法では荒がけという1回だけの加圧ならば1日で済み、さらに研ぎを複数回おこなって現代と同じレベルの精製を行っても5日程度と、覆土法よりはるかに早く分蜜できる。さらにできた砂糖はすべて均質である。
この製法では原料の白下糖から4割ほどにまで目減りするが、それを加味しても優秀な製法であると言える。
近代にはいると…
1820年ごろには4000トン弱だった生産はその後数十年でさらに伸び、そのような中で幕末、そして明治維新を迎えた。
そのころ海外では画期的な製糖法が生み出された。真空結晶缶を使った低温結晶化と遠心分離機を使った分蜜を主軸とする機械式製糖である。現在食べている砂糖のほとんどはこれで作られている。この発明によって超高純度の白砂糖が素早く・大量に・安価に生み出されるようになった。
そのような安い上に上質な白砂糖が大量に輸入されるようになり、さらには日本も台湾のようにより栽培に適した地を手に入れ、沖縄でも白砂糖を作るようになると、従来の和式製糖は壊滅状態になってしまった。
ダメ押しに甜菜糖の発明によって北の大地でも砂糖が生産できるようになると、サトウキビには寒すぎテンサイには暑すぎる本州四国九州で砂糖を作るメリットは全く無くなってしまった。
和三盆糖も同様に絶滅の危機を迎えたが…
このころから和三盆糖は、「極限まで蜜を絞った白砂糖(分蜜糖)」という従来の立ち位置から「ちょっとだけ蜜が残った風味がよい砂糖(含蜜糖)」という立ち位置へ180度転換。価格を度外視した最高級の含蜜砂糖という地位で生き残ることに成功した。
先述したように和三盆の精白度は「グラニュー糖(上白糖)>和三盆>粗糖」という具合である。つまり三盆糖は粗糖(今日甜菜糖やきび糖として売られているものも基本これ)と比べて精白度が高く、かといって上白糖やグラニュー糖といったものよりは精白度が低いという絶妙な位置にあるのである。このニッチの部分にうまく適応したことが今日まで生き残っている要因といえる。
ちなみに今日では香川県よりも徳島県のほうが生産量は多くなっている。
三盆糖の名称について
三盆糖の名称の由来については諸説あるが、阿波和三盆糖を製造する岡田製糖所さんは以下の説を紹介している。
その中で3つ目を特にもっともらしいとしており、多くのサイトや記事では3つ目の説のみを紹介している。しかし本当であろうか?
1番目については、たしかに清朝の官位に三品(日本でいうところの三位)はあるが、さすがに眉唾である。実際三品となるとかなり上位であり、砂糖を扱う官位だったとはやや考えにくい。
2番については、前述したとおり和三盆の由来は中国から輸入された「三盆(糖)」の和製版であり時系列的にあり得ない。
3番目について、三盆糖を含む中国製白砂糖は、盆で研ぐ工程を挟む加圧式製糖ではなく覆土法による製糖である(前述したとおり和三盆の押舟切櫂法は日本独自のものである)。『砂糖製作記』では覆土法で作った上質な白砂糖が三盆糖として紹介されていたのも前述の通り。当然盆で研ぐ工程もないため3番目もあり得ない。岡田製糖所さんごめんなさい。
三盆糖とは一体どういう意味なの?
では3説とも違うとしたら、いったい三盆とはどういう意味なのであろうか?以下独自に検証したい。
この問題を解くカギが、確認できる中では「サンボン」を最も早くに記載している『和漢三才図会』(1712年)にある。巻90にサトウキビの項があるのだが、そこに輸入白砂糖の説明がある。カッコ内は原文におけるカナである。
「其ノ中ニ大ナル塊(カタマリ)有、円ク扁キ餅ノ如ナル者ヲ呼ンデ盞盆(サンボン)ト曰。之ヲ砕ケバ甚ダ白シ。」→「その中に大きな塊がある。丸くて平べったくて餅のような形をしていて、これを盞盆(さんぼん)と言う。これを砕くととても白い。」
盞(サン)とはさかずき(杯)のことである。しかし当時のさかずきはいまのお猪口のような背の高いものではなく、小皿のような平べったいものである(あなたも時代劇で見たことがあるかもしれない)。
さてここで覆土法の製糖方法を思い出してほしい。この方法では上質な白砂糖は、容器上面に薄く析出する。つまり最上の白砂糖は平べったい丸餅のような形状になる。
つまり三盆糖とは覆土法でできる最上白砂糖の形状からきた「盞盆糖=さかずきのような形をしたお盆大の砂糖」のことなのだと考えられるのである。
またこの「サンボン」という呼び名は日本独自の呼称である。『天工開物』で覆土法の一番上に出る砂糖は「洋糖」と呼ばれていると記載されていたのは前述のとおりである。また平賀源内の『物類品隲』ではこの辺りがより詳しく書かれており「白砂糖に3等ある。上を清糖・潔白糖・あるいは洋糖といい、日本では太白砂糖というのがこれである。中を官糖といい、日本ではこれを中白と言う(以下略)」となっている。
ここで上位の呼称とされた太白砂糖というのは、時代が下り18世紀後半に入ると三盆糖の下の砂糖の呼称になっている。いずれにしても中国の史料にはサンボンという記述は見えない。
三盆糖の表記は前述の李大衡への聞き取り記録(1726年)にすでに見え、かなり早い時期から三の字があてられるようになっていたようである。[3]
なお前述した1つ目の説である官位の三品(サンボン)に由来するというものについては、音が同じだったためあてられた字に、後付けで理由が付いた可能性が高い。
あくまで筆者の独自研究です。学校のレポートに書いて×を付けられても責任は取りません。
砂糖の名称における変遷
貿易研究でみると、そもそも17世紀の記録では砂糖は、白・黒・氷砂糖の3種類にしか分けられていなかった。それが18世紀になると「白砂糖 第一種・第二種」や「最上白砂糖・上白砂糖・並白砂糖」(オランダ貿易では「Cabessa, Halve Cabessa, Bariga」の3等級)といった風に、白砂糖に等級付けを行うようになっている。
『唐船輸出入品数量一覧』が引くところの清国貿易は18世紀前半の取引記録が喪失しているが、オランダ貿易においては17世紀末からこの兆候がみられている。
17世紀後期でも白砂糖をランク付けしていなかったのは『庖厨備用倭名本草』(1671年)といった書物からもうかがえ、この本では単に白砂糖のことをタイハクと呼んでいる。
なお、貿易記録上初めて「三盆砂糖」が登場するのは1747年の十番厦門船からであり、上記『三才図会』や李大衡聞き取りよりもだいぶ後になる。
唐三盆の名称は江戸中期ごろの史料には見当たらず、江戸もかなり末期に近くなってから出現したようで、国産の和三盆と舶来の三盆糖を分ける必要性が出てきたためと考えられる。
まとめ
以上を時系列的にまとめると以下になる。
- 中国では覆土法の製糖で作られる、その最上のものを清糖あるいは洋糖と呼んだ(17世紀以前)。
- 18世紀に入り日本で白砂糖をランク分けするようになると、最上のものを形状から「盞盆糖」と呼ぶように(18世紀初頭)。
- ほどなくして「盞盆糖」は「三盆糖」に表記が変わる(18世紀前半)。
- 三盆糖の呼称が一般化していくにしたがい「三盆糖・太白砂糖・並白(あるいは中白・次白)」という、三盆糖を最上位とするランク付けが定着する(18世紀後半)。
- 加圧式の国産白砂糖である和三盆が完成する(18世紀末)。
- 和三盆と分ける形で「唐三盆」の表記が出現する(19世紀前半)
となる。
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関連項目
脚注
- *これは需要面のみならず、砂糖が船にとってのバラスト(重り)の代わりになっていたという事情もある。
- *源内については、彼の著作である『物類品隲』や、その死後書かれた伝記的書物『平賀鳩渓実記』で「実際にサトウキビの栽培・製糖を行い白砂糖製作に成功した」という記述があるのだが、その記述の真偽も含めて高松藩の製糖についてどの程度影響を与えたかは疑問である。歴史軸で考えると黒砂糖の出荷でさえも源内の死後数十年かかっており、源内と和三盆の間には連続性を認めることができない。
- *このように漢字を同音のより簡単な漢字に置き換える行為はそれほど珍しくない。もっとも有名なケースは「歳」を「才」に置き換えるケースで、今でも使われている置き換えであるが、これは江戸時代でも使われていた例が見える(たとえば井原西鶴の『好色一代男』)。
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