和田義盛(1147~1213)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
概要
桓武平氏の坂東平氏三浦党の出身で、父・和田義宗は三浦義明の庶長子である。三浦党は当初から親源頼朝派で、1180年の彼の挙兵に叔父・三浦義澄とともに参陣。以後安房への脱出にも付き従い、侍所が設置されるとその別当に補任された。
その後は源義仲や平家討伐のために源範頼に属して西国を転戦し、奥州合戦でも活躍している。その功績から源頼朝の上洛の際左衛門尉に補され、頼朝没後には宿老の一人に選ばれている。
北条氏との協調関係を保ちながら幕府内で強固な地位をものにし、三浦一族の族長とさえ認識されるほどだったが、源頼家の遺児・栄実を旗頭にした泉親衡の乱に息子の和田義直、和田義重、甥の和田胤長の関与が明らかになってしまう。和田義盛は何とか穏便に事をおさめようとするが、北条義時は厳罰を迫り過激な行動に移り、この対立からついに義盛は挙兵してしまう。
和田合戦には和田一族のみならず、横山党など多くの相模武士が和田方として参戦するものの、従兄弟の三浦義村は義盛を裏切り北条方につき、ついに義盛は敗死してしまう。
和田一族はほぼ滅亡し、生き残った孫の和田朝盛も承久の乱で後鳥羽院方についてその後は不明である。一方弟の和田義茂は北条方につき、宝治合戦で没落するも揚北衆の中条氏、黒川氏になったとする。
関連項目
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