通称「東芝」な蜀の名将
「唐咨」(トウシ ? ~ ?)とは、三国志に登場する武将であり、魏の国で反乱を起こして呉の国に落ち延び、呉と魏が戦った際に捕らえられて魏に復帰した人物である。
※コーエーの三國志11では、顔グラの照明の位置がおかしい事に定評がある(正面斜め下のうらめしやポジション)。
正史では
最初は魏の国に仕えていたが、利城郡で蔡方が反乱を起こして太守の徐質を斬ると、蔡方により反乱軍の指導者にされた唐咨は、曹丕が派遣した呂虔・王淩・段昭の軍に敗北し、海路を使って呉の国へと逃げ込んだ。
呉の国では鎮南将軍呂岱の旗下に入り、羅厲や廖式らが起こしていた反乱を鎮圧したものの、略奪を行っていた賊徒の董嗣を討伐した際は、吾粲と共に3000の兵で攻めたものの鎮圧できず、合流した周魴の計略により鎮圧する事に成功した。
魏の諸葛誕と胡遵らの軍が呉に差し向けられた際は、呂拠・留賛・丁奉らと共にこれにあたり、丁奉と共に先鋒を務めて魏の徐塘を挟撃して大勝利し為、戦功により左将軍にまで出世した。
丞相の孫峻の命令で呂拠・劉纂・朱異らと共に淮水・泗水へと軍を進めたが、孫峻が病死した為に唐咨は召還され、呂拠らと共に滕胤を丞相に推薦したが叶わず、孫綝が朝廷の実権を握った事に怒った呂拠の討伐を命じられてしまい、孫憲・丁奉・施寛らと共にやむなく呂拠と滕胤の軍を破った。
※滕胤は一族皆殺しとなり、呂拠は自決した。
魏に対して謀反を企てた諸葛誕と文欽より、救援の使者として息子の諸葛靚が呉に派遣されると、唐咨は30000の援軍を率いて寿春城に入って曹髦に対抗したが、司馬昭率いる討伐軍が城を囲むと諸葛誕配下の将が尽く投降し、意見の相違から文欽が諸葛誕に殺されると、文欽の子で三国時代末期の最強の猛将「文鴦」と「文虎」の兄弟までもが魏に投降してしまう。
さらに
文欽の子でさえ殺されなかったのだから、他の者たちは心配いらない。
と城外から呼びかけられて士気を挫かれた上に兵糧も底をついたところで一斉攻撃を受け、城外に出て戦った諸葛誕が胡奮に倒されると唐咨は降伏した。
唐咨は、諸葛誕や文欽と同じく魏においては反逆者ではあったが、文欽は諸葛誕に成敗され、諸葛誕は胡奮に討ちとられて三族皆殺しとなったが、何故か唐咨だけは生き残る事が出来た。
再び魏に仕えることにした唐咨は安遠将軍となり、唐咨の副将達にも位が授けられた為、魏の寛大な処置に感動した呉の国では、唐咨や副将達のの家族を処罰しなかった。
司馬昭の命令により唐咨が軍船の建造を行い呉の討伐軍の準備をしていると見せかけ、鍾会を蜀に派遣して攻略させたのだが、鍾会が蜀に降伏を促した文書には、反逆者ながらも寛大な処置をうけた唐咨の事が記してあったと言われている。
演義では
正史同様、諸葛誕の反乱の際に援軍として派遣され、魏の司馬昭に諸葛誕が敗死した際に呉に戻ろうとしたが、暴力宰相の孫綝に処刑されてしまうと考えて司馬昭に投降した。
そして正史では助かった唐咨の家族は、唐咨が魏に降った事に怒った孫綝により処刑されてしまうのだった。
※その他「唐咨」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照
関連動画
▼特技「造船」を活かして伊織軍の水軍を任されているiM@s架空戦記「美妓皇帝」
伊織に強引にスカウトされたものの最初からやる気をだしている。
しかし顔グラの照明位置がおかしい為、登場するとちょっと怖い。
関連データ
能力一覧 | 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 陸指 | 水指 | 身体 | 運勢 |
三國志 | - | - | - | - | - | ||||
三國志II | - | - | - | ||||||
三國志III | - | - | - | - | - | - | |||
三國志IV | 55 | 62 | 49 | 45 | 52 | ||||
三國志V | 61 | 47 | 42 | 50 | |||||
三國志VI | 59 | 56 | 45 | 48 | 42 | ||||
三國志VII | 74 | 56 | 54 | 63 | |||||
三國志VIII | 70 | 55 | 53 | 63 | |||||
三國志IX | 70 | 67 | 47 | 51 | |||||
三國志X | 63 | 71 | 50 | 54 | 63 | ||||
三國志11 | 61 | 71 | 50 | 52 | 61 |
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
関連人物 |
||
|
- 1
- 0pt