概要
場所は奄美群島にあり、奄美大島の東に位置している。自治体としては喜界町がある。島全体の人口は約8,000人。
移動は鹿児島市の鹿児島港、奄美市の名瀬新港から航路が出ている他、鹿児島空港から空路で喜界空港で移動できる。
島には携帯電話の電波が届く上、光通信は利用できないがADSL回線が使える。
HTB『水曜どうでしょう』のロケ地になったことがある。リヤカーで喜界島を一周するという企画があった。
CBC『ノブナガ』の『地名しりとり』でもペナルティ・ワッキーが訪れているが、北海道にいるのにルール上空路が使えないため、陸路と航路を合わせて半日以上かけて移動した伝説がある。
特攻花と戦争
喜界島では「特攻花」、和名はテンニンギク、戦争の悲惨さを語り継ぐ。
毎年平和へのメッセージの花を咲かせ続けている。第二次世界大戦(太平洋戦争)の時、喜界島は海軍航空基地があり沖縄戦線への特攻中継基地であった。戦場へ旅立つ若い戦士に贈った別れの花。「特攻花」…大事にしましょう 喜界町
1931年、日本海軍によって喜界島に飛行場が建設。大東亜戦争劈頭では南方作戦を支える前進基地として機能した。1944年には迫る本土侵攻の脅威に備え、拡張工事を実施。7月からは海軍部隊が常駐した。戦闘指揮所跡は町指定の史跡となっている。
しかし敗色濃厚となった1945年3月、アメリカ軍による沖縄侵攻が始まった。対する帝國陸海軍は大量の特攻機を以って迎撃を開始。ちょうど鹿児島と沖縄の中間にあった喜界島は中継地となり、本土から飛来した特攻機が夕暮れ時に一旦着陸し、補給・整備を受けた。
島の婦女子は、特攻に向かう隊員に向けてテンニンギクの花を手向けた。隊員は「綺麗なテンニンギクを一緒に散らせてしまうのは忍びない」と考え、出撃直前に飛行場の片隅に植えたり、出撃後に風防を外して放り投げた。こうして飛行場周辺にテンニンギクが根付き、咲き誇る姿は現在でも見る事が出来る。このような歴史からテンニンギクは特攻花と呼ばれている。島民にとってテンニンギクは「平和を願う花」であり、特別な意味が込められている。
しかし5月に入ると喜界島飛行場は中継地としての積極的な運用がされなくなり、代わりに不時着時の指定地となった。5月20日、沖縄を守備する第32軍から「喜界島侵攻の恐れあり」と報告が入り、あまつさえ新任の指揮官すら未着任だったため、一時は大混乱に陥った。事実上見捨てられた形となったが、米軍機による空襲はあれど本格的な上陸は無かった。
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