四式中戦車とは、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍戦車である。
概要
計画当初より対戦車戦闘を念頭において設計された初の日本戦車である。二転三転した計画は最終的に75mm砲級戦車として設計が固まったが、その頃には既に日本の敗勢は覆い難いものとなっており戦力化されることはなかった。
開発計画の推移
開発前史
九七式中戦車 チハの開発終了後、新規戦車開発は直ちに開始される。これはチハの採用が暫定的な面が強く、チハの能力自体がある面では充分といえなかったからである。
具体的には生産性が悪く、重かった。また実戦使用の際に問題となったのが操作性に強いクセがあり、なまじ新機軸を導入したが故に、従来の国産戦車と比べて故障が起きやすかったのである。
そこで後継として計画されたのが、チホともよばれる新中戦車である。チホは、武装・装甲・速度面はチハとほぼ同じとしながらも、機械的信頼性と生産性の向上、劣悪な操作性の改善、重量の低減を重点に置かれた中戦車であり、例えるならばチハのリメイク版である。チホの開発は1938年にスタートした。
特に搭載砲は現状はチハと同じとするも対戦車戦闘の増加を懸念して将来的には対戦車戦闘を重視した47~57mm砲や機関砲に換装する事が考慮され、主砲と双連式に機銃を搭載することも構想されていた。しかし、1939年半ば頃に発生したノモンハン事件事件により、翌40年にはチホは新中戦車としての開発を打ち切られることになる。
これはノモンハン事件の中で対戦車砲に対して従来の戦車の装甲では不十分であり、搭載砲も(敵も装甲が貧弱だったため)当たれば撃破は難しくなかったが、弾速の遅さ故に移動する敵戦車に命中させる事が難しく、追撃戦もままならなかったからである。
チホに変わって新たに計画されたのが、チへこと一式中戦車である。このチへは対戦車戦闘向けの火砲と同軸機関銃の搭載、操作性の改善などのチホ要素を受け継ぎ、さらに防御面と機動性の強化が追加されていた。チへの開発は40~41年頃に開始されたとされる。
この時点でチホに搭載するかもと思われていた47mm戦車砲は既に完成していたが、ノモンハン事件の戦訓から、チホは没となり代わりチへに搭載される可能性が高かった。というのも1941年半ばの段階では新中戦車の主砲はチホと同じモノとしながらも、どこか曖昧でありなんともいえなかったとされる。
なお、47mm戦車砲は試作砲塔に搭載され試験が行われているが、車体がなかったので代わりにチハの車体が使われており、試験の結果からチハの改良案としてどうかと提案されている。
ただし、太平洋戦争の直前であるこの時点でさえも、搭載砲の扱いに関しては曖昧なところがあり、チハの改良案として計画されていた47mm戦車砲の量産計画もなかった。
この戦車砲の採用を決定付けたキッカケは太平洋戦争の緒戦で発生したアメリカのM3軽戦車との戦いである。M3軽戦車には従来の戦車による撃破が難しく苦戦を強いられることになったのである。
ここに来てやっと戦車部隊上層部も腰を上げ、急遽47mm砲を搭載したチハの量産が開始される事になる。
だが、チへはなんとなく開発完了もしないうちから影が薄い存在になってしまったし、そもそも対米戦を見据えた艦艇・航空機の開発や生産に追われて戦車開発にまで手が回らなかったのが率直なところでもある。
しかし時代は日本を待ってはくれなかった。ドイツ軍の快進撃とそれに対する英・ソの徹底抗戦の流れの中で、それまで日本が考えていた「短砲身57mm砲による歩兵支援戦車」「長めの砲身の47mm砲による対戦車戦闘戦車」な発想ではまったく通用しないレベルにまで、欧米列強の戦車のレベルは跳ね上がってしまったのである。
開発
そこで47mm砲搭載のチヘ車とは別に、もうひとつの戦車開発計画が1942年晩夏にスタートした。長砲身47mm砲を搭載するまったく新開発の戦車、秘匿名称チト車……のちの四式中戦車である。って47mm砲かよ!? たぶんこの頃の太平洋戦線にいるのがM3軽戦車かM3中戦車だからまだ緊迫感無かったんだろうなあ……。
というのもまさにその通りで、実際この時点ですでにソ連の新型戦車であるT-34やKV戦車や75㎜級長砲身砲搭載戦車同士の戦車戦などの独ソ戦の情報はつかんでいた。・・・しかし、ソ連はドイツ相手に手いっぱいでありこの様相がこちらに波及するのはしばらく先のことであろうと情報を楽観視していた・・・。(それが誤りであると後になって気づくもののその時点では75㎜級長砲身砲搭載車両を量産し部隊を整備するのは技術的にも国力的にも
困難であり応急処置として47㎜砲搭載戦車を充足させるのが手一杯であった。)
心配してたら案の定、翌43年には次期牽引対戦車砲として開発が進んでいた長砲身57mm砲を搭載することに。それでも57mm砲かよ……。しかしこの砲は重量増加した割に威力不足であるとして対戦車砲としてもチト車の主砲としてもボツになってしまったのである。43年っつーたら既に米英独ソのどこも75mm級戦車を一線で大量運用してる時期で、火力も防御力も当然75mm砲対応なので、この結果は当たり前っちゃあ当たり前ではあった。
さて、そうなると他にチト車に何を積むかという問題が出てくるのだが、一時は九〇式野砲を改修して積もう(三式中戦車と同じ…)という話も持ち上がったものの、最終的には日中戦争初期に鹵獲したボフォース社製75mm高射砲のコピー、四式七糎半高射砲を戦車砲向けに大改修した五式七糎半戦車砲(Ⅱ)を搭載することに落ち着いた。ちなみにこの砲は、同時期に開発されていたチリ車の主砲をチト車向けに半自動装填機を取り外すなどの最小限の改造・簡略化を施したものである。(ただし肝心の装甲貫通能力は不明で資料によりばらつきがあるものの元をたどれば実測値ではなくただの目標値や計画値でしかなかったりする。)
・・・ってちょっと待て、日中戦争って1937年勃発……制式年の皇紀2604年って1944年……コピーにいったい何年かかっとんねん……(※2)。まあそれはともかく、この砲を戦車砲として改修した五式七糎半戦車砲がようやくチト車の主砲に正式に決定。ときに1945年2月のことであった。ここに大日本帝国陸軍正式戦車・四式中戦車がようやく誕生したのである。
搭載砲に関して
五式七糎半戦車砲の貫通力は先述したが曖昧である。例えば、旧陸軍が昭和19^20年に想定していたM4中戦車の装甲は、防盾部85㎜+39㎜ 砲塔正面85㎜ 車体正面65~51㎜(いずれも45°の傾斜付き)と想定していた。また、雑誌などに頻出する「1000mの距離で75㎜の装甲版を貫通できた。」の75㎜というのは開発前(昭和18年時)の目標値でしかなく、当時の陸軍の仮想敵であったソ連の重戦車KV-1・2の前面装甲厚を参考にしたものである。本砲完成直後の昭和19年9月付の陸軍大学研究部の資料によれば、
第一種防弾鋼板500m/112㎜・300m/118㎜となっているが徹甲弾による実側値ではなく尖鋭弾の射撃データを基にした計算値の可能性がある。
近衛第三師団調整資料「現有対戦車兵器資材効力概見表」(昭和20年付?)によると1000m/100mm
となっているが、徹甲弾及び鋼板の種類は不明である。
昭和20年4月に作成された「対戦車戦闘の参考(補遺)」によれば鋳鋼板に対し100m/200㎜(90°)
400m/180㎜(90°)・1000m/140㎜(90°)となっており、鋳鋼板は通常の第一種防弾鋼板に比べ
強度が20~25%劣る(30%という説も)ため、これに合わせると
200m/160~150㎜・400m/144~135㎜・1000m/112~105㎜となるが遠距離はともかく、
至近距離のおける貫通力がこれまでの資料の数値や既存の75㎜砲の貫通力の100mごとの減衰率と比べ大きく乖離してるため貫通力を求める指数の一つとして扱った方がいいのかもしれない。
五式七糎半戦車砲の元である四式高射砲のコピーが遅れた理由は四式高射砲の原型はボフォース製75㎜高射砲ではなく鹵獲した同時期に開発されていた試製七糎高射砲であるが新機軸を入れ過ぎたがゆえに中々ものにならず最終的には砲身以外ボフォース製75㎜高射砲の物をコピーしたという説がある。なおこの試製七糎高射砲の開発は対米戦直前に一時的にストップしている。
素直に最初からコピーしていればよかったのに・・・。
なお、主砲砲身の上にある円筒状の物は駐退器である。駐退器というのは簡単に説明すると大砲の射撃時の反動を吸収し砲を射撃前の位置に戻すための機構である。ここに銃弾や砲弾の破片が命中すると射撃不能になってしまうため従来であれば装甲版で覆うまたは砲塔内部に収めるのが普通である。
本砲の場合、技術不足であるという説が有力だが、改修元であるチリ車(五式中戦車)の主砲が半自動装填機を取り付ける都合上、そのスペースを設けるため砲を従来より前に出さなくてはならなかった為の処置でありチト車に搭載する際砲の位置までを変えようとすると砲そのものを設計し直さなければならなくなる為改修は装填器を外すことに留めたという説もある。本車両が試作段階であり量産時には覆いくらいは取り付ける可能性がなくもない。
その他の構造
開発のグダりっぷりを紹介するために主砲選定経緯を取り上げたので、他の部分についても言及しておこう。
装甲は砲塔部で前面75mm、側面50m/35mm 後面50㎜(全備重量は29.5t)。車体は前面75㎜、側面25㎜、後面50㎜(側面より後面が厚いのは75㎜砲に換装する際に重心が変わってしまったために、大きな改修をする時間もなくやむを得ずカウンターウェイトとして後面を厚くしたためである。)
側面はともかくとして前面は75mm級戦車としてはやや薄めといった程度であり、避弾経始効果は期待できない取り付け角度である。(75㎜という数値は独ソ戦で活躍をしたKV戦車を参考にしたものであり、75㎜級野砲ないし昭和18年当時のソ連軍主力76㎜対戦車砲の射撃を500mでギリギリ耐えうる数値として設定されたものである。当然後代に登場した米軍の76㎜長砲身砲やソ連の85㎜戦車砲/対戦車砲を防ぐことは想定していない。)日本戦車としては初の鋳造構造を取り入れていることも特徴のひとつ。鋳鋼の防御力は同重量の防弾鋼板より劣るが生産性に勝るため、諸外国では既に戦車砲塔の主流となっている製造方式であった。ただし砲塔パーツを鋳型の一発抜きで製造できた場合の話で、四式中戦車の時点で日本にはそれを行う技術はまったく無く、バラバラの鋳鋼パーツを後から溶接するという余計に面倒な作業になってしまい意味がなかった。そのため本格量産開始時には三式中戦車の砲塔の設計を元にしたこれまで通りの防弾鋼板溶接構造に戻す案もあったという。
エンジンは既存の統制型エンジンの多気筒化を諦め、完全新規設計の新型空冷ディーゼルエンジンを搭載。これまでの日本戦車のエンジンから大きく馬力も向上、列強の30トン台戦車の水準である400馬力オーバーを達成している。トランスミッションに日本戦車として初のシンクロメッシュを採用、操向装置にも初の油圧サーボを搭載している。これによってギヤチェンジや方向転換は日本の既存戦車と比較してもはるかに容易になり、また10日間をかけての実走試験でも大きな故障もなく、軽快な機動性を確保していたと伝わる。
戦力化は間に合わなかったものの、列強の中戦車レベルの戦車を日本もまあなんとか作れないことはないと証明した技術的意義は大きい。その一方で日本にこのクラスの戦車を開発・運用する体制が構築できていなかったことも事実であり、良かれ悪しかれ二次大戦時の日本の装甲車両の限界を体現した戦車であるといえよう。
終戦、その後
結局のところ、1945年8月15日の段階で完成していた四式中戦車の数は、確実なのが2両。資料によってはあと4両が作られていたとされるものもある。米軍はこの戦車を五式中戦車と勘違いしていたのか、「TYPE5」と描かれた四式中戦車が写っている資料写真が残っていたりする。アバディーン試験場に運び去られた四式中戦車の行方は今もよくわかっていない。
近年、静岡県浜松市の猪鼻湖に水没処分されたという情報から、模型メーカー・ファインモールド社を中心とした有志により調査・引き揚げを目指した活動が行われている。とはいえよくて漁礁化、悪くすれば汽水湖故に朽ち果てている可能性もあり、また戦後の混乱期にくず鉄狙いで密かに引き揚げられてしまった可能性もなくはない。今後の調査の進展を待ちたいものである。
派生車両
- 三菱図面案/量産型(?)
リニューアル版。
主な相違点は砲塔部が不慣れな鋳造砲塔から三式や五式と同じ溶接式になリ、車体側面の一部の切欠けをなくし
生産性を改善。更に操縦席前面部の傾斜を大きくし砲塔正面を従来型に比べて絞られ防御面もいくらか向上させた設計となっている。でも、駐退機は急造戦車の三式のように露出したまんまで、チハ改やホリ車のように覆いは付いてない。一応書いておくと本車両は量産案の一つに過ぎず決定事項では無いことに注意。また量産の間際になっても砲塔の設計をどうするのかまとまっておらず砲塔の在庫分を生産し切った時点で量産を放棄する可能性が高くこの案が採用される見込みは低いと思ってよい。 - 代用砲身搭載型案
肝心の主砲の生産がほぼ間に合わないため、砲身を九〇式野砲のモノに変えたもの。
砲身といっても薬室や駐待機は五式七糎半戦車砲のままだが、(素の九〇式野砲よりましだが)対戦車能力の低下や砲身命数の激減が予想され、量産車はこのようになった可能性が高い。
・・・もっともその前に日本が国家として壊滅してる可能性も高いのだが。 - 試製十糎対戦車自走砲
四式中戦車の車体を元として造られた車体に新型の105㎜級対戦車砲を搭載した車両。
戦闘室は上部開放式で車体も全備重量を25~30tに抑えるため母体の四式と比べて
装甲が薄めになっているものの類似の国軍車両に比べ砲を左右に動かせる範囲が広め。
装甲貫通能力はなかなかのものだが1000mで150~175㎜垂直装甲板を貫通とばらつきがあり
詳しい貫通力が記された資料が発見されてないためいずれも本当の貫通力を探る指数の一つとして
扱ったほうが吉。
・・・でもこちらの方が五式七糎半戦車砲以上に砲の供給が絶望的だったりするが。
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