国家神道とは、明治時代から終戦まで維持された日本の体制である。
概要
薩長同盟によって新たに樹立された明治政府は1869年に開国を決意し、200年以上続いた鎖国の歴史に幕を下ろした。日本は外国との関係を持ち、一気にグローバルな立場へと急変していった。他国から文化や人間が入ってくると同時に、欧米各国の侵略にも備えなければならなくなった。ちょうど、植民地獲得のため英仏が極東に魔手を伸ばしており、タイ王国がその被害に遭っていた。ゆえに一刻も早く国内を統一する必要があった。そこでシンボルとなるべく制定されたのが国家神道であった。
明治政府は神道を国教にした国家神道の体制を構築。伊勢神宮を本宗とし、その下に全国の神社を階層的に傘下へ収めた。これらの神社をまとめる最高祭祀者は国家元首たる天皇であり、臣民から崇拝される対象となった。戦前の人々が天皇を神聖視していたのは国家神道による所が大きい。四方拝(新年)、紀元節(神武天皇即位日)、天長節(今上天皇誕生日)、明治節(明治天皇誕生日)の4つは四大節と言われ、学校行事として天皇の御真影への礼拝、宮城への遥拝、教育勅語の朗読が行われた。1900年には内務省内に神社局が設置された。1906年には神社合祀令を出し、神社の統廃合を実施。約19万社あった神社のうち、4万3000社が廃社となった。一方、住民の反対で統廃合を免れた神社もあった。
日本に存在していた神道以外の宗教(仏教やキリスト教など)は排斥にあった。一応、信仰の自由に抵触しないよう存続は認められたが、神仏分離によって寺への放火が相次ぎ、多くの寺宝や仏像が失われた。いわゆる廃仏毀釈である。江戸時代より成金と化した寺院への不満が溜まっており、神仏分離を機にその不満が爆発したと言われている。また徳川幕府が導入した檀家制度により、仏教優位の体制が築かれていた事に怒りを抱いていた神職も、廃仏毀釈に加担した。
また、国家神道の観点から見てより適切なものとなるように、各々の神社の祭神が変更になる場合もあった。たとえばその土地の土着の神を祭っていた神社では、皇祖神たる天照大御神や、その他古事記や日本書紀などのいわゆる「記紀」に登場する神に主祭神が変更される例があった。また「~権現」など神仏習合の考え方に基づく名称の神を祭っていた場合も、神名が変更されたり、あるいは廃されて祭神が変更されてしまうこともあった。
日本の統治下にあった台湾と朝鮮にも神社が建立され、皇民化政策が進められた。満州事変から大東亜戦争終戦にかけては国家神道が強化され、1930年代には天皇親政・現人神信仰の体制が確立。天皇も国家の一部に過ぎないと説く天皇機関説を撲滅し、天皇を頂点とする思想が全土を支配。全盛期を迎え、臣民一丸となって列強と戦える体制を構築していった。
大東亜戦争と終戦後
1941年12月8日、真珠湾攻撃を以って日本は世界大戦に参戦した。しかしこの頃になると天皇はお飾りの存在と化してしまっていた。昭和天皇の忠言には軍幹部も耳を傾けたが、軍部の暴走を止める権力は持ち得ていなかった。帝國海軍では、巡洋艦以上の艦艇には菊の御紋が付けられた。これは「艦は天皇からの借り物」を意味し、万が一沈没させてしまった艦長は責任を取って一緒に艦と沈む事が美徳とされた。もっとも、帝國海軍が手本にしたイギリス海軍も同様の事をしていたが…。この考えは多くの勇将を戦死させ、あるいは生き残った者を閑職に飛ばしてしまった。
天皇を頂点とする国家神道の思想は末端に至るまで奮起させ、連合軍に大出血を強いた。天皇のために戦い戦死した者は英霊として靖国神社や護国神社に祀られ、これを誉れにした。困り果てたアメリカ軍は、信仰の中心的存在である明治神宮や伊勢神宮を爆撃し、拠り所の破壊を試みた。しかし伊勢神宮の方は何故か爆弾が全て外れて落下し、破壊に失敗している。
敗戦によって一変。1945年12月、GHQは神道指令を発布。国家神道の廃止と政教分離が行われ、神社神道は民間の宗教として再出発する事になった。ただ紀元節は建国記念日に名を変えて存続するなど、一部は現代にも受け継がれている。
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 4
- 0pt