概要
国際連盟 | |
こくさいれんめい - League of Nations | |
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基本情報 | |
公用語名称 | League of Nations |
本部所在地 | スイス連邦・ジュネーブ |
成立年月日 | 1920年1月10日 |
解散年月日 | 1946年4月20日 |
政党・政治団体テンプレートボックス |
国際連盟(國際聯盟)とは、アメリカ合衆国のウィルソン大統領が提示した14ヵ条の原則を基に、第一次世界大戦後の1919年に行われたパリ講和条約で設立が決定。1920年1月10日に発足した国際機関である。本部はスイスのジュネーヴ。世界大戦の反省を踏まえ、戦争の再発防止を主たる目的としている。毎年9月に定期総会が行われ、加盟国が参加して世界平和に関する一切の事項を議題に定めた。
1925年にギリシア・ブルガリア紛争を平和的に解決するなど一定の成果は上げていたものの、世界大戦を再来を恐れるあまり英仏が及び腰となってしまい、イタリアのエチオピア侵攻、ドイツのラインラント進駐、日本の満州事変などを押し留める事が出来ず、日独伊が離脱。提唱国であるはずのアメリカは何故か不参加の立場を取っていた。時にはチェコスロバキアを生け贄にして平和を維持するという国際機関としては疑問が残る行動もしている。結果、国際連盟の抑止力は形骸化し、第二次世界大戦を防ぐことはできなかった。開戦後の1940年、冬戦争でフィンランドに侵略を行ったソ連が国連から追放された。
1946年1月に解散し、その職員や資産などは国際連合に引き継がれた。スイスのジュネーヴにある本部の建物も、現在は国際連合によって使用されている。同じく国際連盟に存在した多くの専門機関も国際連合に引き継がれている。
国際連盟は世界で初めて、紛争防止のために国の政府の代表が参加して、様々な問題に対して討議、対処していくことを目的とした機関であり、人類史上でも全く初めての試みだった。そのため、設立当初から国際連盟には様々な課題が降りかかることになった。
歴史(設立まで)
前史①(18世紀まで)
そもそも、前近代に至るまで国の対外関係は基本的に一対一の関係であり、国際連盟はおろか、立場も利害もなにもかも異なる国が一堂に会して課題を永続的に協議することなど、まず思慮の外であった。通信や交通の手段が未発達で、国という意識そのものが曖昧の時代において、多国間のやりとりを考えることはまず難しかった。
しかし、それはあくまで政治的な話であって、国際的な協力によって、問題を解決していくことを考えた思想家は近世に入ると少しずつ登場していった。フランスの聖職者であるエメリック・クルーセや、シャルル・サンピエールは、それぞれ国際組織や永久同盟という考え方を提唱して、どちらも決定に逆らった国には武力制裁を行うと主張した点において似通う部分がある。
18世紀後半に入ると、ベンサムやカントといった思想家によって、より枠組みについて具体的な構想が詰められていった。ベンサムは民主主義という体制と公開外交による透明化を国際組織の構造に持ち込んで、紛争の抑止とすることを狙い、カントも民主主義体制を利用して、平和的な国際関係樹立をすることを狙い、常備軍の廃止や暴力による現状変更の禁止を訴えかけた。
どちらも『永久(永遠)平和』という言葉が論考に入っており、軍事技術の進展による死者の増加や戦争の長期化、大規模化がいかに彼らの戦争を忌避し、永久平和に向けての努力にむけさせたかは想像に難くない。
前史②(19世紀)
世界史でも習う通り、18世紀末から産業革命は進展し、19世紀には鉄道の開通や蒸気船の発明と定期航路の確立による「交通革命」によって、有り体にいえば世界は小さくなった。より遠い場所に早く、安定的に行けるように成ることにより、社会や経済は大きく様変わりすることに成る。
そしてこれは、国際組織設立の動きとも決して無関係ではない。遠い国、違う大陸にいる人であってもスムーズにやりとりすることが可能になるということは、それだけ国際的な動きもやりやすくなることも意味するからである。
19世紀になると、平和という目的達成の為に、国際組織を作ろうという動きはより活発になった。特に戦火からは離れたアメリカでは、1828年にはアメリカ平和協会という民間団体が成立し、30年代半ばには世界会議に関する懸賞論文を募集した。Civシリーズではお馴染みの世界会議とは諸国が定期的に会議する、まさに現在の国連総会ともいうべき組織であり、そこではどういうことを何の目的で行うかという論文を募集したわけである。集められた論文では、通商や学問、科学といった交流と、国際法の蓄積によって世界はまとまっていくという進歩的な見解があったが、その反対に、国際組織に大きな権力を与えることへの懸念や、まず全部の国でやるのは難しいので、英米仏の連合からはじめるべきだという現実的な意見も寄せられていた。この時代から現在の国連も抱える諸問題を示唆されてた事はなかなかに興味深い。
しかし、この国際連盟の大元ともいうべき、世界会議による紛争解決は南北の対立と、それが爆発した南北戦争という大規模内戦によって、共に一旦退潮していく。それに代わって強まったのが、「仲裁裁判」という手法である。
1862年に、南軍の発注でアラバマ号という武装船が英国の造船所で作られ、当然ながら敵方の北軍は、再三警告と、攻撃の停止を申し入れたが、貿易面でアメリカ連合国(南軍)との関わりが深い英国はこれを無視して、北軍の商船を次々と拿捕し、1864年に沈没するまで多大な損害を与えた。南北戦争が北軍の勝利に終ると、英国のこの行為は中立違反であるから、相応の賠償金を支払うよう英国に対してつきつけ大きな国際問題となった。
しかし、米英両国はこれを、第三国も加えた裁判で決着する(これを仲裁裁判という)という道をとった。スイスやイタリア、ブラジルの三カ国を加えて行った仲裁裁判では、アメリカの主張が通って、英国の中立違反が認められて、1550万ドルの支払いを命じたのである。英国はこれを、北軍側の南北戦争中における英国船への損害と相殺する形で支払うことに合意して、1872年に履行された。
後世ではアラバマ号事件として名高いこの一連の出来事は、仲裁裁判を用いた国際紛争解決への期待を大いに高め、国家間の紛争処理に対する、法の力というものが大いに評価される出来事となった。これを受けて国際法とそれに類する学問も大きな進展をみせて、1873年には現在まで活動を続ける、国際法学会設立へと繋がった。ここから第一次世界大戦までに蓄積された仲裁裁判と国際法のレガシーは、国際連盟にも大きく役立つことになる。
19世紀のヨーロッパにおいては、国家間の協力や交流が大きく進展した。1815年のウィーン会議にはじまり、クリミア戦争の講和会議である1856年のパリ会議、アフリカ植民地問題解決のために開かれた、1885年のベルリン会議が有名なところとしてはあげられ、これらは領土割譲や賠償金などの関係で、戦時国際法の発展に大きく寄与することになった。
また、1889年には英国とフランスの提唱によって、列国議会同盟が作られ、議員レベルではあるが政治的協同も進みつつあった。この組織は後に、常設仲裁裁判所の設立において大きな役割を果たした。
万国郵便連合による郵便取扱ルールの制定や、メートル法制定による度量衡の統一も行われ、民間レベルでは、今で言う非政府組織(NGO)も盛んに作られるようになり、1864年のアンリ・デュナンによる赤十字国際委員会の設立が大きな例としてあげられる。
このように、19世紀後半では次々と国際的組織や取り組みが本格的に行われるようになり、世界の一体化がより進むようになっていった。その、一つの到達点が二度開かれたハーグ(万国)平和会議である。
ハーグ平和会議
20世紀がいよいよ見えてきた、19世紀の終わり頃。ドイツでは協調主義を進めていた宰相のビスマルクにかわって、新航路の旗印のもと、世界政策を打ち出した皇帝ヴィルヘルム2世が実権を握った。艦隊法を制定して、海軍の大幅な軍拡を行ったことで英国を刺激し、バルカン問題で対立するロシアを警戒して再保障条約の更新を拒否するなど、世界は大戦争への予兆を少しずつみせはじめていた。
これを見たロシア皇帝のニコライ2世は少しでも、世界の緊張を和らげるべく、1899年にハーグ平和会議を開催した。我が国では万国平和会議とも呼ばれるように、この会議では第1回は26カ国、1907年に開かれた第2回では44カ国が参加し、大部分の独立国(20世紀初頭当時)の代表が一堂に会する初めての国際会議であった。ちなみに我が国はどちらにも参加している。
第1回の主要な成果は二つ。一つはハーグ陸戦条約の締結で、交戦国や宣戦布告、戦闘員の定義や、捕虜・傷病者の取り扱い、降伏や休戦などの取り決めを主な内容としたもので、以後の戦争におけるルールの根本の一つになった(もう一つはジュネーブ条約)。また、毒ガスの使用禁止もこの会議で決められたが、第一次世界大戦でドイツ軍はこの条約で禁止されていない新しい毒ガス(イペリット。英名マスタードガス)を使用したため、戦間期に改めてより強い条約が結ばれることになった。
もう一つは常設仲裁裁判所(PCA)の設立である。これは特に前節の経緯もあってか、アメリカが強く主張しており、領土紛争が起きた時に強制的に仲裁裁判所を用いることを宣言に盛り込もうとしたが、結局、常設し、紛争当事国が裁判による解決を望んだ時だけ開かれるという形に落ち着いた。しかし、これまで事件ごとであった仲裁裁判が、制度上は常設されていつでも開けるようになったというだけでも進歩といえるだろう。
これら二つの事柄が指すことは、法という理性的な判断と、それに当事国が委ねるという前提であり、紳士的かつ良識的な国際関係が形成されるというある種の確信に基づいていた。普仏戦争から第一次世界大戦までのヨーロッパ情勢は比較的安定しており、ベルエポックと呼ばれる平和と繁栄の時代が訪れており、思想においてもこれからの社会や国際関係は理性的なものに落ち着き、やがて長年追い求められていた永久平和におちつくであろうというある種では楽観的な思潮が主流であった。まさにそれが前面にあらわれた考え方といえるだろう。
しかし、法による解決は万能ではないことを早くから悟っていた人物がいた。それは、第26代アメリカ合衆国大統領のテディベアおじさんセオドア・ルーズベルトである。彼は本国でラテン・アメリカ諸国への棍棒外交と呼ばれる圧力を加えたり、ネイティブ・アメリカンの絶滅政策を継続して進めるなど、アメリカの国益を重要視していた。その為、国家の命運や重大な国益が絡む問題については、常設仲裁裁判所に付託しなくても良いという留保を設けることが大事だと主張していた。
一方で、かつてアメリカでトレンドになっていた、世界会議方式での国際紛争解決にも関心を示しており、国務長官のジョン・ヘイを通して1907年の第2回ハーグ平和会議への参加を世界各国に呼びかけ、先述の通り44カ国の参加にこぎつけることへ成功した。この会議で特筆すべきことは、日清・日露戦争が宣戦布告なしで行われた反省から、宣戦布告に関するルールを定めた開戦に関する条約が整備されたことくらいである。しかし、継続して国際会議が開かれたこと、ヨーロッパのみならず中南米やアジア諸国が参加するなど全地球という枠組みで行われたという事実は、国際連盟へと繋げる下地を作り上げるのに十分であった。
しかし、ここまで国際的な動きが活発になってもなお、国際連盟のような恒常的かつ政府を代表する、国際組織を作ろうという動きは見られなかった。これは、ウィーン会議以来、ヨーロッパを中心とする世界では勢力均衡という考え方のもと、安全保障が行われており、二国間同盟と問題が起きたときは単発の大国会議で解決するという慣習がずっととられていたからである。大国同士の秩序がそれで保たれ、決定的な破綻に至らなければなかなか動かないというのは、よくある話といえよう。
結局、そのような国際組織を発足させるには、その前提を崩壊させる大戦争によって、大量の人間の出血を見なければならなかった。
第一次世界大戦
1914年6月、オーストリア・ハンガリーの都市、サラエボにおいて、フランツ・フェルディナンド皇太子夫妻が、大セルビア主義者のガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された(サラエボ事件)。ここから、人類が初めて経験する世界戦争、第一次世界大戦が勃発することになる。詳しい経緯は当該記事に任せるとして、この戦争はこれまでの安全保障や国際関係に大きな衝撃を与えるに十分だった。
ヨーロッパの人々の大半は、サラエボ事件から、1914年末に到るまでは今我々が知るような大惨事になることを予想していなかった。ドイツやオーストリアでは英仏露からの、フランスや英国ではドイツやオーストリアからの防衛戦争であることを固く信じて戦争へと邁進し、かつての普仏戦争のようにあっという間にケリをつけられると考えていた。また、サラエボ事件直後から7月末に至るまではヴィルヘルム2世が恒例の北洋巡航にでかけたり、フランスの首脳やドイツの政治家たちは表敬訪問を行ったり、休暇をとることを勧められたりするなど、サラエボ事件そのものはセルビアが涙を呑んで謝罪すれば全て丸く収まると楽観的に考えられていたこともあげられるだろう。
しかし、サラエボ事件の翌月にはヨーロッパ諸国は次々と動員令と宣戦布告が雪崩式に行われ、ヨーロッパでの大戦争が現実のものとなってしまった。当初ドイツはシュリーフェン・プランの下、8月に東方のタンネンベルクでロシア軍を撃滅し、翌月には中立を宣言したベルギーを無視してリエージュを打ち破り、フランス国内へ侵入して、パリにほど近いマルヌにまで進撃した。しかし、タクシーなどの車両とかき集めるなどのフランスの必死の防衛によってマルヌ会戦はフランスの勝利に終わり、「クリスマスまでには帰る」という兵士たちの願望は叶えられることはなかった。
その後、第一次世界大戦は泥沼の塹壕戦と、戦車や毒ガスなどの新兵器投入によって、これまでの戦争に例がないほどのおびただしい死者を出した。参考までにクリミア戦争は70万、普仏戦争は40万、日露戦争は16万であった。それに対して、第一次世界大戦はヴェルダンの戦いで70万人、イープルの戦いで50万人と、一会戦だけで1個の戦争の死者を軽々と超えるほどの損害を叩き出すに至った(数字はいずれも両軍併せて。概算)。
この未曾有の死者に対して、国際社会ではこれまでの国際関係や国際法の前提の大幅な見直しを余儀なくされた。
国際連盟への道
国際連盟の基本的な枠組みが作られたのは、当初中立を守っていたアメリカと、比較的戦火から離れていた英国である。
1915年6月には、元アメリカ大統領のタフトや、ハーバード大学学長のローウェルが中心となって平和強制連盟が結成され、これが国際連盟に大きな影響を与えることになる。第一次世界大戦が休戦となった1918年11月に発せられた綱領では、次なる大戦を防ぐために、各国は連盟を結成すべきであることを主張し、その機関では司法・立法・行政の権力機関を設け、武力制裁と経済制裁を行うことを認めていた。また、綱領形成までの議論過程においては名称に「国際連盟」という言葉が上がり、綱領の最終案は「規約」という文言が用いられ、国際連盟に反映されることになる。
しかし、この団体の綱領に賛成する人間ばかりではなかった。世界会議の項目でも述べたように、国際機関に大きな権力を持たせることには、内政干渉の観点から反対が根強く、特に武力制裁の行使については大きく意見が別れた。ハーグ平和会議で用いられた仲裁裁判方式に望みをかけている人が多かったのも要因としてあげられる。
中にはこれを理想論の夢想家ではないかと思う人もいるかもしれないが、彼らは勿論、ただ裁判を行えば良いというのではなく、例えばジョージ・ワシントン大学教授のジェームズ・ブラウンは1916年に「剣を持ち出すことではなく、教育というプロセス」を踏むことの重要性を説いていた。平和のための組織が、武力を持ち出すのは本末転倒であり、理性的な力を持ち、努力を怠らないことで正義がやがて物理的な力に勝利するという論理を以て、武力制裁を否定したわけである。また理論面以外にも、そもそも武力制裁に加盟国がすべて同意するとは限らないという実効性の点からも批判があがっていた。
またヨーロッパ諸国でも同様の平和と国際秩序に関する動きは持ち上がっていた。ノルウェーやデンマークといった中立国では、カントを読み直し、「正しい者の同盟」という組織を作って、そこに常備軍を作るべきだという考え方もみられた。また、ドイツでも宰相のホルヴェーグが1916年に「戦後の国際連盟に参加しても良い」という上から目線の意見を述べている。これは敗戦を迎えても国是として変わることはなく、後に加盟問題として持ち上がることに成るが、それはまた後に述べる。
もう一つの国際連盟の枠組みに大きく貢献した国として、冒頭で英国をあげたが、英国では、1915年に国際連盟協会という組織が作られ、平和強制連盟との意見交換を行っていたがまだ政府レベルでの接触はもたれていなかった。他にもフェビアン協会や、労働党のメンバーなどが類似の組織を作って活動を続けていたが、いずれも同じであった。
時の首相、ロイド・ジョージや元外相のグレイが最終的に支持したのは、元商務大臣のジェームズ・ブライスの率いる、国際連盟協会で、休戦直前の1918年10月には国際連盟ユニオンに発展することになる。また、英国はこの国際組織におけるアメリカの主導権を認める世論が形成されるようになった。これに大きく貢献したとされるのが、100万部の大ベストセラー『大いなる幻想』を表した著述家ノーマン・エンジェルで、アメリカの平和運動家の先進性や意識の高さを喧伝していた。
国際連盟は決して、大戦後のぽっと出として出てきた組織ではなく、このような民間団体と政府の構想や社会運動の潮流から出てきたということは、記憶にとどめておくべき事だろう。
14か条の平和原則
アメリカは開戦後すぐに中立を宣言し、前項のような運動と、協商国への武器輸出というある種では矛盾した行動をとりながら、中立を保ち続けていた。
当時のアメリカの大統領は、ウッドロー・ウィルソンである。彼は敬虔なキリスト教徒の家庭にうまれ、父親が牧師をしていた関係からか、理想主義よりの思想の持ち主であった。彼の外交政策は「宣教師外交」と呼ばれ、民主主義を至上として、中南米やラテン・アメリカ諸国にもこの政治手法や思想を広めようと腐心していた。1917年1月には議会で「勝利なき平和」演説を行って、自ら主導で戦後世界構築に務める用意があるとも語っていた。中立宣言後も、ウィルソンは自ら講和に向けて尽力したが実現はしなかった。
しかし、世の流れはアメリカを大戦に誘っていった。1915年のルシタニア号事件で、ドイツ潜水艦の攻撃によってアメリカ人が多数亡くなったことを皮切りに、アメリカ国内では反独世論が噴出し、1917年2月にドイツがメキシコに対して宣戦を持ちかけるという電報が露見したツィンメルマン電報事件によって、対独宣戦は決定的となって、1917年4月に遂にアメリカはドイツへ宣戦布告した。
ウィルソンは宣戦後、平和強制連盟をはじめとした民間団体の構想と、自ら諮問機関を組織して、戦後世界の構想を練り上げていた。1918年1月にその結実として、「14か条の平和原則」がアメリカ議会で発表された。
- 講和交渉の公開・秘密外交の廃止
- 海洋の自由
- 関税障壁の撤廃及び平等な通商関係の樹立
- 軍縮
- 植民地の公正な処置
- ロシアからの撤兵とロシアの政体の自由選択
- ベルギーの主権回復
- アルザス・ロレーヌのフランスへの返還
- イタリア国境の再調整
- オーストリア・ハンガリー帝国内の民族自治
- バルカン諸国の独立の保障
- オスマン帝国支配下の民族の自治の保障
- ポーランドの独立
- 国際平和機構の設立
本記事において特に重要なのは最後の第14条である。ここでウィルソンは初めて公的な場で国際組織の設立を提議した。
しかし、ウィルソンは具体的な内実や構想については、各国政府との協議の上で決めるべきこととして、明言を避けたため、平和強制連盟はむしろ落胆したといわれている。ともあれ、この十四か条の平和原則から、国際連盟樹立に向けて本格的な動きがみられるようになる。
ウィルソンは何も腹案がなかったのかといえば、そういうことではない。彼にはハウスという優秀な側近がおり、1917年時点からハーグ会議方式の支持派や、平和強制連盟からの聞き取り調査を行い、彼の意見を基に独自の構想を練っていた。
また、英国でもブライス率いるグループの意見を叩き台として、ウォルター・フィルモア卿を長とした国際連盟委員会が結成され。常設議会と仲裁裁判所設立を主軸とした、政府案が形成されつつあった。
1918年7月には、この政府案を参考にしつつ、ウィルソン及びハウスの、アメリカ政府案が出された。その内容は、大国による連盟方式を主とし、加盟国が現状の領土を保全を約束した上で、それが侵された場合には制裁を科すという、まさに世界会議方式にそったものであった。
米英政府案の完成まで
このように民間だけのものであった構想が、政府レベルにまで引き上げられて、具体的な構想が積み上げられていく中、1918年12月に元英連邦南アフリカ陸相のヤン・スマッツにより「国際連盟は国際関係の重要な拠点とならなければならず、また、豊かな文明生活を作り上げるのに寄与する活気ある組織とならなければならない」という趣旨の提言が行われた。
如何にもユートピア的で理想主義にみえる提言だが、彼は更にその中で、既に第一次世界大戦中の協商国の中で作られた「連合国委員会」において戦争中の軍事や資源インフラなどの協力はできているので、経済的側面からの支援もできるはずだと続けている。ウィルソンはこれに大きな影響を受け、国際連盟の大事な精神の一つとして、彼の心に刻まれることとなった。
また、スマッツは帝国主義はもはや時代遅れだとして、オスマンやドイツの保有していた旧植民地については委任統治をおこなうことを主張していた。いっぽうで、彼はこの時代では一般的だった。西洋文明の優越を信じる社会進化論の信奉者として、南アフリカやパプアニューギニアなどの”野蛮さ”にはそのような方法は向かないと留意していたことには注意が必要である。
もう一つ重要な事として、彼は国際連盟内における、票決についても触れている。何を基準として考えるかによって価値というものは変動するし、国家の大小や優劣を決める決定的な指標は存在しない。とはいえ、そのあたりの国力の差を全く考慮しないわけにはいかないので、一国一票の一般会議に加えて、少数の大国から形成される理事会を別に作ってはどうかとも提案していた。
国際連盟の主要業務はその理事会で行われ、そのメンバーにふさわしい国として、米英仏伊……そして我が国が挙げられている。ドイツについては、理事会のメンバーとしては文句はないが、民主化してからの話だと結論付けていた。ちなみに理事会への中小国の代表参加については認めている。
1919年1月になると、後に国際連盟でも大きな役割を果たすことに成る、英国のロバート・セシル卿の案が作られた。彼の案の中では、国際連盟という名称、本部をスイスのジュネーブに置くことなどが実現し、また先述のスマッツの提言に従って理事会と総会を設けることを提案した。但し、セシルは、スマッツの提言そのままというわけではなく、理事会はあくまで大国のみの会議とするように規定していた。
こうして、これらの案を総合して米英政府は検討を続け、のちの講和会議に提出する草案を作成し、正式な会議が開始する前にはなんとか、議論の叩き台になる程度にまで練り上げた(実務者2人の名前をとって、ハースト・ミラー案とよばれる)。
パリ講和会議
1918年11月11日。同月3日に起きたキール軍港の水兵反乱にはじまるドイツ革命により、ドイツは遂に、協商国とコンピエーニュの森において休戦協定を結んだ。オーストリア・ハンガリー・ブルガリア・トルコといった他の中央同盟国は既に休戦していたため、これで漸く本格的な講和への準備が整うこととなった。
そして、1919年1月18日より、パリにおいてこの戦争の最終的な決着をつける、パリ講和会議が開催された。
とはいえ、最初からこの会議で国際連盟の設立について話し合う事が決まっていたというわけではない。周知の通り、この講和会議の本題はドイツやオーストリアなど中央同盟諸国への領土や賠償金などの討議をすることであり、連盟についてはまた別の機会にすべきではないかという反論もあった。そこで、五大国(米英仏伊日)会議で同月23日に英国が改めて、戦後世界の秩序に国際連盟は不可欠であることを主張して、この講和会議で国際連盟の議論が正式に決定された。
1月25日には連盟規約検討委員会が設立され、いよいよ正式な議題として議論が開始されることとなった。五大国は2名、中小国のベルギー、ブラジル、中国、ポルトガル、セルビアは1名(後に、ギリシャ・ポーランド・ルーマニア・チェコスロバキアも加わる)、当該委員会に代表を出席させることが認められた。五大国のうち、我が国の代表は次席全権の牧野伸顕と全権委員の珍田捨巳である。
2月3日に最初の会合が開かれ、アメリカ代表として選出されたウィルソンが「国際連盟はもはやオプションではない。絶対に必要なものである」と熱弁し、2ヶ月の時と、15回に亘る国際連盟の土台作りがはじまった。
大国と中小国の攻防
この連盟規約検討委員会でまず問題となったのは、大国と中小国の権利の均衡である。
フランスのラルノードは、中小国の立場は認めつつも、五大国のおかげで大戦に勝利できたことは「冷徹な事実」であると、大国の優越を主張し、英国のロバート・セシルは更に連盟成功のためには大国の支持が不可欠であるとこれを支持、アメリカのウィルソンでさえも理事会の参加権は認めても投票権は与えるべきではないと、いわゆる大国の代表は中小国の権利に懐疑的な姿勢であった。
しかし、これに対して敢然と反論したのは、ベルギー代表のポール・イーマンスと中国代表の顧維鈞である。ベルギーは大国のみ構成する理事会では神聖同盟(ウィーン体制の時期に形成されたヨーロッパ諸国の同盟)と変わらない。国際連盟がこれまでと違った新しい組織であることを内外に示すためには、中小国の参加は不可欠だと主張。
特筆すべきは中国代表の顧維鈞による演説で、「大国一国の国益は中小国一国よりも大きいことは確かに事実である。しかし、50カ国を数えると思われる中小国全体の利益よりも、大国一国の国益が大きいということは絶対に有り得ない」と熱弁を奮い、これに加えて、中小国に疎外感を与えないための措置と、五大国が二つに割れた時の調整装置としても中小国は必要であると主張した。
このような努力の甲斐あって、2月13日に開催された第9回会合で、大国を常任理事国とし、それに加えて四カ国を非常任理事国として構成することを決定。ウィルソンが難色を示していた投票権についても、常任と非常任の別に関わらず一票を構成国は有すると定め、中小国の権利を制度的に認めさせることに成功した。
また、総会の投票権や代表の人数についても定められ、総会は一国一票、代表は三名までと定められた。これはこれまでの歴史上に類をみない画期的な出来事である。というのも、これまでの国際会議や会合などについて、一国一票の投票権が明示されたことはなく、主権国家の法的・制度的平等が達成された証左となったからだ。
しかし、この大国と中小国の国際連盟における隔たりは、連盟成立後も問題として燻ることになる。
どこまでが『代表』となり得るか?
こうしてめでたく、一国一票の原則は定まったわけだが、次に問題となったのは、ではどこまで独立した主権を持つ国家が国際連盟に参加できるか? ということである。
当時の世界においては、列強諸国がそれぞれ植民地を所有し、その地域の主権の大部分を握っていた。しかし、植民地には本国と現地人の協同で成立する植民地政府や総督府などがあるため、その取扱いが問題となったのである。
世界最大の植民地をもっていた英国内においては、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、南アフリカについては、この時点までに自治領(自治国)として本国から事実上の独立を果たしていた為、原加盟国として認められた。しかし、微妙な立場に立たされていたのはインドである。インドでは独立運動が大きな潮流として盛り上がっていたとはいえ、まだ上記にあげた四カ国ほどの主権はもてていなかったのである。
英国代表のセシルは、インドの第一次世界大戦における多大な貢献を考慮して、加盟国として認めるべきであり、もし、排除するならばインドの人々は深い屈辱を覚えるだろうと加盟を支持した。しかし、アメリカのウィルソンは、当時アメリカが宗主国となっていたフィリピンについて懸念していたため、インドについても難色を示していた。
最終的にはセシルの意見が通り、インドは原加盟国として認められることとなった。
同じく問題となったのは、加盟国の政体であった。ウィルソンは折からの信念と、アメリカそのものの戦争目的(民主主義国が、独裁主義を打ち倒す)から、民主主義、厳密に言えば「人民による政府」こそが、国際連盟にふさわしいと主張した。しかし、例えば当時の我が国は大日本帝国憲法第一条の示す通り、天皇の治める国家と定義づけられていたことから、人民による政府とは言い切れないのではないか? という疑問がでてくる。
これも、フランスの政府が共和制なのか君主制なのかは問題ではなく、我が国は代議制ではないと認めつつも、加盟資格に反するほどのことではないと提言し、認められることとなった。
また、政府代表だけでなく、総会や理事会とは別個の存在として民間団体によって構成される合議体を作るべきではないかという話も俎上にあがった。これまでも取り上げていた通り、国を超えた民間の組織が当時では無視できない勢力を保持しており、特に労働者団体については1919年2月にスイスのベルンにおいて国際労働者社会主義者会議(ベルン会議)が開催されるなど、大きな盛り上がりをみせていた。
ベルン会議において、英国労働者代表は、国際連盟の代表は、政府代表でなく、国民により近い議会代表を送るべきだと発言した。アメリカで草案を作っていた段階においても、そう盛り込むべきだとされていたが、ウィルソンの腹心のハウスは不可能に近いとしてこれを一蹴している。
とはいえ、これらの動きや提議などは無駄には終わらず、国際連盟に対する『民主的』議論への期待に応えるべく、総会におくる国の代表を誰にするかは加盟国各自の自由とされた。結成後も度々、専門委員会が開かれるときは非政府組織が招かれていた。
集団安全保障
先述した通り、第一次世界大戦前の安全保障は勢力均衡によってなされていたが、第一次世界大戦によってこれは破綻した。
それにかわる安全保障として、集団安全保障が国際連盟の主軸として設けられた。これは国際連合にも受け継がれた大変重要な思想である。集団安全保障とは、自国の安全を国際組織に委ね、国土の現状保持を守り、もしこれを乱す侵略国があれば、加盟国は全力で被侵略を援助するという考え方であり、ウィルソンの悲願でもあった。
しかし、集団安全保障の仕組みそのものは大筋の一致を見ていたが、ウィルソンが従前より掲げていた「領土保全主義」については、スマッツやセシルから懐疑的な意見が上がった。スマッツは領土保全そのものは一定の評価を与えたが、実効性に疑問を呈し、セシルは、領土保全主義は秩序安定に資することは認めつつも、逆に言えば現状の領土固定につながるため、この思想を規約に持ち込むことそのものに疑問を投げかけた。当たり前の話として、現状の領土で世界中の国々が首を縦に振るとは限らないからである。
この領土保全条項については、2月6日開催の第4回会合において大きな議論を呼んだ。ベルギーは制裁強化案として、この場合における理事会の制裁票決の要件を全会一致でなく多数決に引き下げるべきだと主張し、フランスもこれに同調した。両国ともに先の大戦でドイツに国土を踏み荒らされた苦い経験からくるものだろう。しかし英国のセシルは理事会決議に強制力を持たせることに反対した為、決着をみなかった。
続く第5回会合では、制裁の方式について議論されたが、制裁というこれまでの国際会議になかった措置については反対の声が上がらなかったという。侵略への制裁という意義そのものについては、コンセンサスができていたといえよう。しかし、肝心の侵略国の提議や認定までのプロセスについては曖昧なままおわった。
最終的に、領土保全主義と集団安全保障については連盟規約第10条及び11条に盛り込まれることとなった。しかし、制裁の方法については16条に書かれたが、あくまで経済制裁についてのみ書いてあり、軍事制裁については規定がなかった。
委任統治
中央同盟諸国のうち、ドイツはアフリカと太平洋諸島に、オスマン帝国はアジアに広大な植民地を有しており、その処置についても大きな問題となった。
これは連盟規約検討委員会よりも、その前の段階で行われた五大国会議で取りざたされ、委員会成立前に、旧ドイツ領のうち、南西アフリカ(現ナミビア)は南アフリカに、ニューギニアはオーストラリア、サモア諸島はニュージーランド、南洋諸島は日本に委任統治の受任国として定めた。しかし、その他の植民地の扱いについては結論が出ず、アルメニアやクルディスタン、パレスチナなどといった中東地域は五大国会議では委任統治領になることが決まっていたのにも関わらず、委員会では結論が出なかったため、委任統治領から外されることになった。
人種差別撤廃条項
この連盟規約検討委員会には、先述したとおり、我が国も参加していた。しかし、我が国は牧野伸顕など一部の政務官を除いて国際連盟に対してさほど積極的でなかったという背景もあって、あまり存在感が大きいとはいえなかった。
それでも国際連盟と我が国の関わりが話題に上がる時にはしばしば上がる、この人種差別撤廃条項の要求については触れて置かなければならないだろう。
この条項については人道的見地からの要求もさることながら、我が国の政治的事情も絡んでいた。というのも我が国は明治維新の直後よりアメリカへの移民が進んでおり、1920年時点で20万人近くの日本人がアメリカに在住していた。移住した日本人はレストランやホテルなどの経営を成功させ、移民のコミュニティも次々と形成されていった。
しかし、これらの成功は、雇用を奪われたアメリカ人からの大きな反発を買い、1906年にはカリフォルニアにおける移民排斥問題が俎上として上がり、一部のアメリカ人から人種差別感情からくるリンチを受けるなど悲惨な憂き目にあっていた。(もっともこれは日本人だけでなく、アイルランドや東欧・南欧などの移民も多かれ少なかれ迫害にあっていた)
この事情を鑑みて、我が国は人種平等条項の規約への盛り込みを要請していた。アメリカもこれを受け取って、英国の外相アーサー・バルフォアと折衝を重ねたが、「特定の国において、人々の平等はあり得るが、中央アフリカの人間がヨーロッパの人間と平等とは思わない」と、国境を超えた人種平等には懐疑的であった。また、白人の優位を意味する白豪主義真っ盛りのオーストラリアの首相、ウィリアム・ヒューズもこの条項には反対していた。
しかし我が国は粘り強く交渉を続け、会議最終日の4月11日に条項としてではなく、連盟規約前文に盛り込むことを持ちかけた。規約起草という大仕事を終えた和気あいあいムードを利用した一つの戦略であった。実際に、ギリシャの代表はこれに賛意を示していた。しかし、アメリカ代表のうちハウスはこれが、世界中に人種平等をひきおこすのではないかと懸念し、ウィルソンに至っては、規約の精神に体現されているので、わざわざ書くまでもないと反対した。ウィルソンは理想主義的であった一方で、アメリカ南部のヴァージニア州出身であったことから、人種不平等に一定の理解を示したという背景もあったからである。
これは票決にかけられ、議長のウィルソンを除く出席者16名のうち、賛成は11票を確保した。驚くべきことに、日本とは何かと対立することが多かった中国はこの提案に賛成しており、人種問題に関する認識は共有できていたことを示している。
しかし、過半数を確保したはいいものの、議長のウィルソンは「このような重大事項は全会一致でなければならない」として取り下げてしまった。フランス代表のルノーは、これまでと違った強引な採決方法に反対したが、ウィルソンは聞く耳を持たず押し通してしまったのである。
こうして、人種差別撤廃条約が連盟規約に盛り込まれることはなく、国際連盟規約検討委員会は幕を下ろした。
国際連盟設立
と、このような喧々諤々の議論の末、1919年4月11日に、国際連盟規約検討委員会は26条から成立する国際連盟規約を起草し、4月28日にパリ講和会議で採択。そして、6月28日にドイツへの講和条約であるヴェルサイユ条約の一部として、連盟規約への署名が、参加した各国によって行われた。
これは、国際連盟が単なる永続的な会議体ではなく、条約という法律に基づく制度であることを示す重要な出来事であった。
具体的組織として、各国代表による総会と理事会が設置され、また、実務的な執行機関として常設の事務局が設置されることが決定し、本部はスイスのジュネーブにおかれた。これは、スイスが永世中立であることを評価された為である。また、常設司法裁判所がハーグにおかれることが決定し、これは国際連盟が世界会議方式だけでなく、ハーグ方式も取り入れることを示したものである。
こうして、国際連盟は原加盟国42カ国の体制で発足することに成る。以下にその加盟国をあげる。
こうして、国際連盟は五大陸の国の大部分が集まって発足した。あーめでたしめでた……
え? 何? 肝心なのがいないって? あっ……
アメリカの連盟不参加問題
そう、世界史や政治経済でも必ず習う通り、あれだけ一生懸命に連盟規約の起草に奔走し、設立までこぎつけたアメリカが参加していないのである。
その経緯について以下に記述する。
モンロー主義 VS 連盟規約第10条・第11条
英国がアメリカの13植民地を支配していた時代、英国はフランスやオランダなどのアメリカ大陸に進出していた諸国と対立を繰り返していた。オランダとは1667年のブレダ和約でニューアムステルダム(現在のニューヨーク)を譲り受けたことで、フランスとは1763年のパリ条約でカナダやミシシッピ以東ルイジアナの割譲を強いて、英国は大きな勝利(英蘭戦争は英国の勝利とは言い切れない部分はあるが……)を得て決着を見た。しかしその後もタウンゼント諸法などの重税策をアメリカは強いられ、遂に独立戦争へと至った経緯がある。
この背景から、独立戦争前からアメリカに生きる人々はヨーロッパの戦争に駆り出されることに辟易していた。戦争後もそれは続いており、初代大統領のワシントンや、3代大統領のジェファソンはいずれも、ヨーロッパ諸国との戦争の可能性をはらんだ同盟締結を否定していた。
19世紀に入ると、ナポレオン戦争の余波を食って米英戦争が勃発し、1820年代にはロシアが太平洋側沿岸のアメリカ植民への関心を示すなど、アメリカにとって存立を危ぶませる事象が続いた。そこで、5代大統領のモンローは「ヨーロッパ諸国の紛争に干渉しないかわりに、南北アメリカへのヨーロッパへの干渉を認めない」という趣旨のモンロー教書を1823年に発表した。
モンロー主義は時代によって、その解釈を変えながらも20世紀に至るまでアメリカの外交政策の基本的方針として生き続けた。第一次世界大戦においても当初は中立を守っていたように、アメリカはあくまでもヨーロッパに対する孤立主義を貫いた。しかし、第一次世界大戦の勃発と、その泥沼化はアメリカのその基本精神を崩し、ウィルソンは「ドイツやオーストリアの独裁主義を粉砕し、民主主義を守る」ことを大義名分としてドイツに宣戦布告し、勝利を得た。
ウィルソンはこれから先もアメリカは、民主主義の旗頭として世界秩序を守る大きな担い手となることを期待し、英仏などのヨーロッパ諸国もそれを期待した。しかし、検討委員会を一旦切り上げて、国際連盟について議会へ説明するべく帰国したウィルソンに待ち受けていたのは冷ややかな反応であった。
第一次世界大戦におけるアメリカ軍の死者は約11万6000人に及び、アメリカは久しく、自国民の出血をこれほど強いていなかった。そのため、アメリカ国内では再びモンロー主義が広まり、国際連盟の参加に懐疑的な見方が広まっていた。
特に問題となったのは領土保全主義と集団安全保障を規定した、連盟規約第10条及び11条であった。アメリカに関わりのない戦争であっても、これらの条項によれば出兵しなければならない可能性が生じるため、主権を損なうのではないかという反発が、条約批准の権限を握る上院からでてきたのである。また、合衆国憲法には宣戦布告の権利は議会にあると定められている(第1条8項)ため、そこからの批判もあった。上院議員のウィリアム・ボラーやヘンリー・ロッジは自らの決定を、国際機関に揺るがされてはならないと強く反発した。
そこで、パリに戻ったウィルソンは、モンロー主義という地域的留保を連盟規約に盛り込ませることによってこの反対をかわそうとした。英国は10条の付記ではなく、新しく条文を作るという条件を設けながらも賛成したが、反発したのは日本との対立を抱える中国の顧維鈞であった。規約原文には「モンロー主義のような地域的理解」と書かれていたため、これが通ってしまえば、日本も中国におけるモンロー主義を主張して国際連盟からの干渉をはねのけてしまうのではないかと危惧したのである。顧維鈞は地域的理解の削除が難しいならば、これまでに一般的に受け入れられている、と過去に限定することを提議した。
しかし、ウィルソンは、アメリカ上院の承認をどうしても取りたかった為、あくまでもこの地域的留保の条文挿入にこだわった。顧維鈞の反論も受け入れないまま、結局その条項は連盟規約第21条として記される事となった。
1919年7月にパリ講和会議を終えたウィルソンは、アメリカに帰国した。しかし、当時の上院においてウィルソンを必ず支持すると思われる議員は40名と当時の上院の半分にも満たない数しかいなかった。しかし、条約批准には3分の2を必要とするため、ウィルソンは大変な苦難を強いられることと成る。
反対派の意見もモンロー主義だからというだけではなく、我が国と中国に発生した、山東問題におけるウィルソンの我が国への譲歩や、ウィルソンのパリ講和会議や連盟規約検討委員会における強硬な態度に失望したことによる反対、退役軍人問題や、社会主義の台頭などの国内問題優先を理由にした反対など様々であった。
また、連盟規約第10条には、モンロー主義を主張する保守派からだけでなく、英国の利益を守るためにも出兵しなければならないのかと懐疑的な意見が、ウィルソンの支持母体でもあった進歩派からもでていた。こうして、ウィルソンは保守と進歩派双方からの袋叩きに遭い、苦境に陥った。
しかし彼は諦めず、第10条は、道義的責任であってアメリカが必ず出兵するなどの具体的な義務の履行を予定したものではないと弁明し、国民の支持を取り付けようと、全工程13000kmに亘るアメリカ全土への遊説を行った。その中で彼は「戦争は世界全体の関心事である」「世界の平和に影響を及ぼすあらゆることは、我々皆の関心事である」と繰り返し主張し、米国民に世界情勢へ関心を持つよう訴え続けた。
だが、その道中の10月、コロラド州においてウィルソンは脳梗塞によって倒れ、執務不能となってしまう。政務への復帰がかなわないまま11月に上院において連盟規約の批准を問う票決が行われたが、留保つき承認、留保なし承認のいずれも3分の2をとれず、1920年3月にも再び決議が行われたが同じ結果に終わった。
こうして、ウィルソンが文字通り身を削って設立に尽力した国際連盟に、英国に代わって、世界一の超大国に上り詰めたアメリカが参加しないという異常事態が発生したのである。
国際連盟は主柱のアメリカを欠くという不安を残したまま、人類がいまだ体験していない世界単位での紛争防止という難題に取り組むことになるのである。
国際連盟の活動
国際連盟の設立後の経緯を語る前に、ここで一旦国際連盟の組織とその活動について記述する。
機関
国際連盟規約では、総会、理事会、事務局の3つの機関を置くと定めていた(2条)
総会(3条)
なんといっても一番大事な機関。
総会で行われた特別な議事として、新規加盟国の受け入れや常設法廷の判事選出などを行っており、連盟の総司令塔として機能していた。加盟国から徴収した分担金を配分するのもこの機関の仕事である。
加盟国はすべて参加しており、一国につき3名まで代表を派遣できた(3条4項)。総会は本部が所在するジュネーブで開催され、1920年の第1回から解散まで毎年9月に開催されている。
なお、第1回総会及び理事会の会議にはアメリカ合衆国大統領を呼ぶようにと、わざわざ条文に盛り込まれている(5条3項)。加盟してないのに。条文の内容は実行に移され、ウィルソンは招集されている。
理事会(4条)
総会の決定を執行する機関。
設立当初の常任理事国は英・仏・日・伊の4カ国。1926年にドイツが加盟すると、5カ国となり、1934年にソ連が加入するとこれも常任理事国となった(この時点で日本は脱退しているため5カ国のまま)。
これに加えて、総会で選出された非常任理事国が4カ国存在した。非常任理事国の枠は、加盟国の要求により徐々に拡大され、1922年に6カ国、1926年に9カ国となり、ドイツと日本が続けざまに脱退したため、最終的には11カ国になる。最初に選出されるまでは、ベルギー・ブラジル・スペイン・ギリシャの代表が非常任理事国として置かれていた(4条1項)。
会合は連盟規約では年1回は最低でも開くこととされていた(4条3項)が、実際は平均5回、またそれに加えて臨時会合も開かれたため、1939年までに107回開かれた。
なお、1939年にソ連がフィンランドに侵攻すると(冬戦争)、常任理事国は英仏の2カ国にまで減少し、事実上その機能は停止され、管理委員会に職務が移譲された。
事務局(6条)
本部はジュネーブに置かれ、国際連合と同じく、事務総長によって指揮がとられた(6条1項)。事務局のあつかった分野は多岐にわたり、政治・財政・経済・少数民族や行政(連盟管理都市とされた、ダンツィヒやザールの執政)・職務権限・軍縮・保健などなど様々である。事務局の職員は、国際連合の職員と同じく、多国語を操るエリートたちが揃い、世界初の国際公務員として活動し続けていた。
また、事務総長に次ぐ事務次長は常任理事国の人間がなることが多く、我が国からも、旧5000円札の肖像となった新渡戸稲造と、それに続いて杉村陽太郎が脱退するまで次長を務めていた。
如何に歴代の事務総長と略歴を並べる。影の薄さは国際連合とさして変わらないが、国際連盟の事実上の総指揮官として務め続けたことは忘れてはならない。
- エリック・ドラモンド(英 1920―1933) ここだけ連盟規約に基づいて、特別に選定されている。連盟事務局の制度としての地固めや、国際公務員についての諸原則確立(中立性・外交特権)など、国際連盟の事実上の土台を作り上げた。保健衛生や領土問題の調停に活躍。
- ジョセフ・アヴェノル(仏 1933―1940) エチオピア戦争におけるイタリアへの譲歩や、ナチスドイツによるオーストリア併合の際における同国への冷淡な態度など、国際連盟の権威を失墜させたとして手厳しい評価が相次ぐ人物。
- ショーン・レスター(アイルランド 1940―1946) 第二次世界大戦における混乱で事務がほぼ停止しているなか、限られた資産を活用して、人道支援や技術支援を行い続けた。国際連合への引き継ぎも概ね平穏に終わらせ、次代へつなげた。
組織
主要組織として常設国際司法裁判所と国際労働機関が存在。その他にも事務局の下に多数の委員会が設置された。
常設国際司法裁判所(PCIJ)
1922年に設立された、ハーグに本部を置く国際司法機関。主に労働問題や領土紛争、国際的事件についての法的解決を行う機関であり。38の判決と27の勧告的意見を、解散までに行った。
注意点としては常設仲裁裁判所の後継ではないということである。そもそも当該機関は常設とはいっても、審理を行う裁判官の名簿と付随する事務局が置かれているだけで、肝心の法廷については常時おかれているというわけではない。国際連盟はハーグ平和会議の影響は受けてはいるものの、そのまま受け継いでいるというわけではないため、存立根拠も異にするものである。
常設国際司法裁判所はそのような、常設仲裁裁判所の欠点を改善して、法廷を常時設置したり、判事の選出手続きなどを整備した点において、大きな違いがある。
また、国際連盟にアメリカは加盟しなかったが、参加への試みは行われていいた。1930年に同国は管轄権を認め、同年12月には条約批准案を提出されるまでに至ったが、差し迫った国内問題を理由にして、延期された。
1940年のナチスドイツのオランダ侵攻(黄色作戦)により、事実上機能を停止し、1946年に国際連合の国際司法裁判所に受け継がれた。
国際労働機関(ILO)
現在でも活動を続け、国際連合にも受け継がれた、国際連合最古の専門機関として知られる、世界の労働者と生活水準の向上を活動目的とした組織である。本部はジュネーブ。
1919年に、ロシア革命と、それによる社会主義の隆盛に伴う、労働運動の高まりを受けて設立された。我が国は原加盟国の一つではあったが、1938年に脱退し、1951年に復帰している。
大使会議
国際連盟に公式に所属している組織ではないが、事実上の組織として存在していた。
パリ講和会議後に発生した様々な紛争を解決するために、英・仏・日・伊の4カ国と、オブザーバーとしてアメリカが加わった会議で、国際連盟とは対照的な伝統的な勢力均衡方式での紛争解決が思想の根本としてあった会議体である。
1920年1月にパリで設立され、在仏大使や、時には外相が加わって様々な調整を行った。代表例としてはポーランド・ソビエト戦争におけるポーランド東方国境の承認や、コルフ島事件における最終的な決議を下したことがあげられる。
国際連盟の設立当初はまだまだ活動することが多かったが、協調外交の一つの到達点とされる1925年のロカルノ条約締結を契機に徐々に活動を低下させ、1935年までに正式に廃止された。
その他委員会
国際連盟内部には、国際問題に対応する為に、多くの委員会や機関を監督していた。上記以外には、軍縮委員会、委任統治委員会、難民委員会、奴隷委員会、アヘン常設中央委員会(国際麻薬統制委員会の前身)、国際知的協力委員会(ユネスコの前身)などがあげられる。
活動
国際連盟は上記にあげた機関や組織を通じて様々な問題に対応していた。主題であった軍縮と領土紛争調停、安全保障は歴史項目に譲るとして。ここでは他の社会問題に対する取り組みをあげる。
知的交流
知的交流とは、大学や研究所などの国境を超えた学術的な交流を指す。これを最初に提案したのは、連盟規約検討委員会でベルギー代表を務めたポール・イーマンスだったが、パリ講和会議の時点では賛同が得られなかった。
しかし、第一回総会で同じくベルギーのラフォンテーヌが発議して、決議として国境を超えた知的交流促進を国際連盟が行うことを決定した。それを受けて1922年に知的交流国際委員会が設立され、委員としては物理学者のアインシュタインやキュリー夫人、哲学のベルグソンなど多くの分野の知識人が参加した。
この委員会から、もともと文化推進に力を入れていたフランスの全面的バックアップを受けて、パリに国際知的交流機関が設立した。これが現在のユネスコへとつながっていく。
また、1923年には南欧や東欧にこの委員会が設立され、1926年にはアメリカが常設事務所と常勤委員を置いたことで、各国にその慣行が広まっていった。
具体的な活動内容としては、知的交流の結晶と言える図書館や博物館の国際協力体制推進があげられる。最初は、古代に存在したアレクサンドリア図書館のようなできる限り多くの文献を集積した大図書館建設が提案されたが、それはやがて不可能なことがわかり、既存の図書館の交流を推進するという形に切り替わった。結果として図書館については1927年にローマで国際図書館連盟、博物館は、1926年にパリを本部に国際博物館機関が設立されるに至った。
また、歴史教育についても当該機関で進められ、先の大戦を受け、平和教育を推し進める方針が強く行われた。しかし、そのためには国際協調と各国の個別的事情(その国の文化や慣習など)のすり合わせを行わなければらず、これは国際連盟の根本的な規約たる領土保全主義や集団安全保障の遵守徹底よりも難しいという議論も行われていた。
1930年1月には、知的協力国際委員会に6つの小委員会を設立され、世界35カ国に国内委員会に設立されるなど、知的交流や協力は大きく進展した。
保健衛生
第一次世界大戦の後半にはスペイン風邪が流行し、戦後には1920年から1921年にかけて、東欧やソ連西部を中心にしてチフスや天然痘が広まるなど、伝染病は大きな国際的懸念となっていた。
そこで、1923年の国際連盟総会において、国際連盟保健機関(現在の世界保健機関の前身ではない)が設立され、実務は事務局傘下の保健部が、これらの伝染病の対策を行った。
保健部長のルドヴィック・ライヒマン医師が陣頭指揮をとり、諸国を歴訪して、資金調達や各国政府の調整、政策立案を行って大きな成果をあげた為、保健分野は国際連盟における最も成功した部門とも言われている。彼はアメリカのロックフェラー財団からも多額の資金提供を得ることに成功していて、経済基盤の確立に大きく貢献した。
保健分野は、科学や医学などの高度な専門的知識が要求されるため、政治分野からの口出しを抑制できたことが成功の要因といえよう。
結核については結核予防のBCGワクチンの普及、マラリアについても高価な特効薬キニーネにかわる廉価な薬品研究を推進した。1927年には第一次世界大戦下における輸血における、血液型の混乱を反省して、今ではよく知られているABO式の血液型基準確立を決議。その普及に大きく貢献した。
その他にも、アヘン取締、人身売買防止、難民問題(ナンセン旅券)など数多くの分野で国際連盟は活動し続けた。
歴史(解散まで)
大戦後の混乱
1920年の第一回総会によって国際連盟はめでたく成立の運びとなり、いよいよ活動を開始した。
しかし、その前途は決して楽なものではなかった。第一次世界大戦はその未曾有の人的・物的被害もさることながら、ヨーロッパの国境線をめまぐるしく変えた。
ドイツへのヴェルサイユ条約と、それに続く旧中央同盟諸国への講和条約(国ごとに個別に締結されている)によって、旧来の「帝国」はその領土を大幅に喪失する。そして、それに伴ってポーランドやユーゴスラビア(1929年まではセルブ・クロアート・スロヴェーン王国)、チェコスロバキアなど数多くの国が誕生(復活)した。
しかし、国家が誕生したということは、領土も存在するわけである。その領土の境界をめぐって、講和会議がおわってもしばらくはそれについて火種がくすぶり続けることになる。
シュレジエン(シレジア)問題
世界史ではお馴染みのシュレジエン(英名ではシレジア。ポーランド語ではシロンスク。本記事ではなんかかっこいいのでドイツ語のシュレジエンと表記する)地方。ここは近世より北のドイツ(プロイセン・神聖ローマ帝国)、南のオーストリアによって壮絶な争奪戦が行われていた。
原因はもともと肥沃な土地柄のため、色々な地域から来た住民が混在している地方だったのがあげられる。しかしそれよりも大きな原因として、18世紀後半になると大規模な炭田(石炭の採掘地)が発見されたため、帝国にとっては垂涎の地となったのである。
七年戦争(1756ー1763)をはじめとして、数次にわたるシュレジエン争奪戦を勝ち抜いたのは、当時軍隊の近代化と組織化を成功させていたプロイセンであった。それによってシュレジエン全域はプロイセン領となり、そこから約100年後にドイツ帝国が成立しても帰属はそのままだった。
シュレジエンは西部のルール地方とならんで、ドイツ経済の心臓部として同国の富国強兵に大きく貢献し続け、大いなる発展を遂げた。しかし、大戦前からドイツ人とスラブ系住民との対立が大きな問題となっており、一次大戦でドイツが敗れると、復活した諸国とドイツの争奪戦の場となった。
パリ講和会議でポーランドの復活が決定すると、シュレジエンの東端に位置する上シュレジエンについては住民投票が行われることになっていた。結果はドイツに編入することに決したが、この住民投票は、対象地域がドイツ人に有利であったことや、ルール地方に出稼ぎにでていた当該地域のポーランド人について、ドイツ人雇用主が帰郷を許可しなかったことなど問題が多く、ポーランド人の大きな反発を招いた。
その結果1919年から1921年にかけて、三度にわたる大規模な蜂起を招き、数千人にわたる犠牲者を生み出した。特に、三度目の蜂起はヴォイチェフ・コルファンティなどを指導者とするはじめとした軍事組織が主体としたもので、ドイツ人主体の自衛団と戦闘を行い、上シュレジエンの大半を併合するに至った。
しかし、これで収まるはずもなく、1921年8月には石井菊次郎を議長とした調査委員会が設置され、10月にはその調査をもとに、連盟理事会が国境画定案を作成して、その10日後に大使会議が承認。翌年5月にはとりあえずの妥結としてドイツとポーランドのあいだでそれをもとにした協定が調印された。
この協定が調印されてめでたしかと思いきや、次にあがったのは少数民族問題である。シュレジエンには裕福なドイツ系住民と、労働者が大半を占めるポーランド系住民が混在しており、その対立が新たに問題として持ち上がった。具体的には土地所有や児童の学校入学などを巡って大きな問題が発生し、この問題は1928年には国際連盟の理事会に持ち込まれ、ポーランド外相ザレスキーとドイツ外相のシュトレーゼマンの間で激しい応酬が繰り広げられた。
この問題は、我が国の代表を務めていた安達峰一郎が、現地の報告者や調停者と大いに活躍し、一定の成果を生むことに成功した。しかし、根本的な解決には至らず、ミュンヘン会談による分割、そして1939年のナチス・ドイツによる併合へと向かっていくこととなる。
コルフ島事件
1920年代には数多くの領土紛争が国際連盟に持ち込まれていたが、1923年に発生したコルフ島事件は常任理事国であったイタリアが当事国であったという点で大きな特徴がある。
コルフ(ギリシャ語ではケルキラ)島は、ギリシャとアルバニアの国境近くに位置する島である。広さは淡路島とほぼ同じだが、アドリア海を押さえる上での地理的要衝であったため古くから係争の絶えないところであった。
パリ講和会議の後も、細かい国境線の画定がまだ終わっていなかったため、大国中心の大使会議によって、国境制定委員会が設立され、メーメルやシュレジエンなどで調査を行っていた。コルフ島もその1つであり、1923年には現地に派遣されていた。そんな最中、8月27日にそのメンバーの一人だったイタリア陸軍のエンリコ・テッリーニ大将が何者かの襲撃を受け、殺害されるという事件が発生した。
前年にローマ進軍によって、イタリアの首相となったムッソリーニはこの事件を受けて、ギリシャに謝罪と賠償を要求。しかし、ギリシャ政府は遺族に対する賠償以外は、政府には無関係であるとして要求をほぼ全て拒否した為、ムッソリーニは事件からわずか4日後に海軍を出動させて、コルフ島を砲撃し、海兵隊によって同島を占領。大きな国際問題へと発展する。
この事件が発生した当時、折しも連盟理事会が開催されていたため、非常任理事国であったギリシャは理事会での当事件の論議を要求したが、イタリアは連盟脱退をちらつかせて、大使会議による解決を要求。議論は紛糾したが、9月4日に大使会議が解決案を提示し、理事会がそれを承認するという折衷案が採用された。
最終的にその折衷案に則って、ムッソリーニの要求がほぼ全て認められた形で解決案が作成され、ギリシャ政府は不承ながらも諸条件を履行。それを見届けた後にイタリア軍がコルフ島から軍を撤退させて事件は落着したが、結局のところ大使会議に主導権を握らせる形になったため、この年の連盟総会ではその点が強く追及されることとなる。
ギリシャ・ブルガリア紛争
領土紛争では失敗続きに見える国際連盟も、数が少ないながらも成功した事例もある。
ギリシャとブルガリアは、近代においてオスマン帝国からの独立を果たしても、マケドニアなどの境界をめぐって紛争が絶えなかった。それは第一次世界大戦が終結してもかわってはおらず、ブルガリアはヌイイ条約(協商国とブルガリアの間で結ばれた講和条約)の屈辱を、ギリシャは希土戦争における敗戦の屈辱を晴らすために戦い続けた。
1925年10月に発生した紛争はそのような背景のもと行われたもので、ギリシャ軍がブルガリアの国境を超えて進軍し、国境から深く入った街にまで侵入。ブルガリアの首都ソフィアをもうかがう姿勢をみせた。これをみたブルガリアは10月23日に理事会の開催を要求した。
通告を受けた国際連盟は、事務総長のドラモンドの指揮下で素早く理事会を招集して、議長国がフランスだった関係でパリにて緊急の理事会が開催。とりあえずはブルガリアとギリシャ両国の軍事行動停止及び、自国領土への撤退を要求し、英仏伊の三国による軍事使節を派遣。撤退の実効性を確認した。それを確認すると調査団が派遣されて、理事会は解決案の作成にとりかかった。
12月に通常の理事会が招集され、ギリシャの非を認定して、ブルガリアへの賠償金支払いと、両国から監視のための将校を、国境線に配置するよう命ずる解決策を提示して、両国はそれを承認。当該紛争は早期決着をみた。
ロカルノ条約締結で、ヨーロッパ全体が協調ムードにあったことも理由の1つとはいえ、この紛争解決は国際連盟の安全保障分野における数少ない成功例として記憶されている。
関連項目
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