土岐康行(?~1404)とは、室町時代に活躍した武将である。
概要
土岐頼康の養子で、土岐頼雄の息子。初名は義行。右馬権頭、刑部大輔、大膳大夫。美濃・伊勢・尾張守護。
1373年に侍所頭人を務めているのが、土岐康行の初期の活動である。1379年の康暦の変では養父・土岐頼康とともに細川頼之の失脚を画策した。そして1387年に頼康が亡くなり、家督と三カ国にもわたる守護職を継ぐ。
土岐康行は当初、弟の土岐満貞を京都に、子の土岐康政を伊勢に、従弟で娘婿の土岐詮直を尾張において、分国支配を行っていた。ところが京都の満貞が足利義満に接近し、讒言によって尾張の詮直に変わって自分が守護になったのである。そして満貞は尾張に入部を開始したが、康行は詮直側につき、満貞を破った。
しかしこれを口実に足利義満は土岐康行の討伐を決定。土岐頼世、土岐頼益父子に命じて康行を撃破させ、1390年に康行、康政父子は北陸に落ち延びていった。これは単なる一族内紛争ではなく、伊勢北畠氏との呼応による反幕府活動も裏にはあったともいわれている。
しかし1391年、土岐康行はあっさり復権を遂げ、伊勢守護に任じられた。明徳の乱でも功績をあげた彼は、尾張は斯波氏に、本拠地である美濃は土岐西池田家に奪われたものの、伊勢守護を務める土岐世保家として以降も続いていったのである。
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