土岐頼康(1318~1387)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
概要
土岐頼清の嫡男で、ばさら大名土岐頼遠は叔父にあたる。1342年に頼遠が処刑された後、家督を継いで以来美濃の守護を務めていった。
観応の擾乱が起きると彼は足利尊氏方につき、美濃の足利直義方と合戦を繰り返す。その功績から尾張の守護にも補任され、美濃に在国しながら尊氏を支え、1353年に京が南朝に制圧されて足利義詮が後光厳天皇を連れて脱出した際はこれを迎え入れている。
その後の彼の生涯は幕府内の政争に明け暮れる日々であった。まず伊勢守護の仁木義長を細川清氏、畠山国清、佐々木道誉らとともに排除のクーデターを起こし、義長の南朝投降後は伊勢守護にも補任されている。
続いて1367年の足利義詮没後、足利義満の後見役であった細川頼之の権勢が高まると、斯波氏、山名氏に同調して頼之と対立し、京から遠のき、義満の出頭命令を無視するまでに至ったのである。そして1379年に斯波義将、京極高秀らと「御所巻」を決行し、斯波義将が管領に代わる康暦の政変を引き起こしたのである。この結果土岐頼康は一度は一度は失っていた伊勢守護職を再度手に入れ、甥の土岐詮直が侍所頭人に任じられるなど地位を高めたのである。
こうして土岐頼康は鎌倉幕府滅亡や建武政権の崩壊を知る長老格として幕府で重んじられ、1387年に病に倒れ亡くなったのであった。しかし、彼の甥で養子となっていた土岐康行の代に、足利義満によって勢力を削減されてしまうのはまた別の話である。
関連商品
関連項目
- 0
- 0pt