坂口征二は、かつて「世界の荒鷲」「ビッグ・サカ」の異名を誇った元プロレスラー。現在は新日本プロレスの相談役で、IWGP実行委員会の一人でもある。
プロレスラー/格闘家の坂口征夫は長男。俳優の坂口憲二は次男である。
概略
アントニオ猪木に次ぐ、昭和の新日本プロレスを代表する往年のスター選手。
前身は柔道家(五段)であり、1965年のリオデジャネイロ世界柔道選手権では、80kg超級で銅メダルに輝いた。ちなみにオリンピック出場経験は無い。
1967年に日本プロレスに入団。海外修行中は「ビッグ・サカ」のリングネームでNWA地区を転戦。帰国後は、ジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐ大型スター選手として人気を博す。クーデター騒動で猪木が追放されてからはB.I砲に代わるタッグチーム「東京タワーズ」として馬場のパートナーとなり、その馬場も全日本プロレス設立のため日プロを離れると、エースとして団体を引っ張った。
1973年4月に新日本プロレスに移籍。坂口の合流を受けてNET(現・テレビ朝日)が新日本プロレスのテレビ中継をスタートした。これが現在まで続く「ワールド・プロレスリング」の始まりである。
新日本プロレスに移籍後は、団体のナンバー2として猪木をサポート。シングル王座は北米ヘビー級を獲得する程度で猪木にはおよばなかったが、タッグ戦線ではストロング小林や長州力をパートナーに北米タッグ王者として活躍した。特に小林とのタッグは「パワー・ファイターズ」として多くの強豪と死闘を繰り広げた。
1989年に新日本プロレスの社長に就任すると、リングからは遠ざかるようになり、1990年3月15日のスコット・ホール&コーポラル・マイク・カーシュナー(のちにW★INGでレザーフェイスとしてブレイク)戦で現役を引退した(パートナーは木村健悟)。2003年に一時復帰したが、現在は完全にリタイアている。
社長業としては東京ドーム興行やG1 CLIMAXなどの大会を成功させ、90年代のプロレスブームの火付け役となる。ジャイアント馬場との仲も良く、二度目のドーム興行に鶴田や天龍などの全日本プロレス勢が出場したのは、坂口が馬場に働きかけたからだと言われている。
2018年現在、御年76ながら週3回のトレーニングは欠かしておらず、身長194cm(おそらく加齢で若干縮んだか)・
体重121.9kgの屈強な肉体は衰えていない。
黄金タッグと東京タワーズ
現役時代は気性の荒いアントニオ猪木のよき夫婦役といったイメージが強いが、日本プロレス時代に結成した、209cmを誇るジャイアント馬場との長身タッグ「東京タワーズ」も当時人気を博した。また猪木とのタッグは『黄金コンビ』と呼ばれ、解消に至った後も90年「スーパーファイトIN闘強導夢」にて復活し、橋本真也の『時は来た』発言を引き出すなど後続に影響を与えた。
得意技
196cmの巨体から繰り出されるダイナミックな技の数々は荒鷲殺法と呼ばれた。
反面、腰に爆弾を抱えており、現役時代は腰への負担に配慮した技が多かった。また柔道家らしいキレのある一本背負い、裸締めことスリーパー・ホールド、基本技である逆エビ固めなども好んで使った。
- アトミック・ドロップ
- ジャンピング・ニー・アタック
- ネックハンギング・ツリー
- 一本背負い
- スリーパー・ホールド(裸締め)
- シュミット式バックブリーカー
- アルゼンチン・バックブリーカー
- カナディアン・バックブリーカー
- ニードロップ
- 逆エビ固め
- 逆片エビ固め
関連動画
「燃えよ荒鷲」が一番知られている入場曲。初代入場曲はJohnny Pateの「Shaft in Africa」らしい。
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
外部リンク
- 0
- 0pt