概要
文化14年(1817年)11月29日、旗本の大久保忠向の子に生まれる。
幼名金之助、後に三市郎。諱は忠正。
大久保家は徳川譜代の家臣で、徳川家康に仕えた大久保五郎右衛門忠利が祖とされる。
天保元年(1830年)12月、14歳で江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の小納戸として出仕。
天保4年(1833年)6月に小姓になる。この頃幕末の三筆の1人、市河米庵に書を学ぶ。
天保12年(1841年)3月、家斉の死に伴い第12代将軍・徳川家慶の小納戸になる。
天保13年(1842年)9月、父・忠向の死により家督を継ぐ。
幕末
目付・海防掛
嘉永7年(1854年)5月9日、大久保は目付及び海防掛に抜擢された。前年から始まった西洋列強の往来に伴なう人材抜擢の一環で、岩瀬忠震、堀利熙、永井尚志、栗本鋤雲、木村喜毅なども同じ時期に目付や海防掛に抜擢され、幕末前期の幕府外交を担う官僚集団を形成した。また前年に勝麟太郎が幕府への意見書を出した事をきっかけに知り合い、懇意になる。
安政3年(1856年)10月20日、貿易取調御用に任命され、蕃書調所や講武所の事務管理を行う。
安政4年(1857年)1月22日、長崎奉行に就くことを命じられるが固辞した。理由について大久保は木村喜毅宛ての手紙で、先年大病を患った事による気力の減退、悪(賄賂)を憎む情が強い事、長崎奉行を勤めるには3千石以上の禄高でなければ経済的に厳しい事を挙げている。利権が多く幕臣にとって垂涎の的だった長崎奉行への就任を断った事は異例の事で、硬骨漢である事は評価されたものの、やがて出世の道から大きく外れていく事になる。
同年4月15日、駿府町奉行赴任を命じられ、6月6日に着任。翌安政5年(1858年)5月に帰府の命が下るまで駿府町奉行を勤めた。
禁裏付・京都町奉行
安政5年(1858年)5月20日、大久保は朝廷の雑務を監督する禁裏付への赴任を命じられた。前任者の死で急遽後任者を充てる必要が生じ、老中・松平忠固の推薦で公卿達とのやり取りで根負けしない気骨ある人物として選ばれた。
7月12日に京都着任。当時京都では戊午の密勅降下が画策されており、8月8日に水戸藩へ下され、10日に幕府宛ての密勅が大久保のもとに届いた。内容を読んだ大久保は驚いたが如何ともし難く、急いで江戸に送るしかなかった。
大老・井伊直弼の腹心である長野主膳はこの事件をきっかけとして京都で活動中の志士や、一橋派に与した公卿への弾圧を企てていたが、行動を開始する前に禁裏付である大久保がどういう考えの持ち主なのかを探るために面会を求めた。18日に大久保は長野と面会し、長野から一橋派に協力しないことや老中・間部詮勝が間もなく京都に来るのでそれに協力するようにと暗に求められた。大久保は長野を警戒して何も分からないふりをしてやり過ごした。
井伊は大久保を自分達に敵対する事は無いだろうと判断したためか、翌安政6年(1859年)2月26日、京都町奉行に任命した。京都町奉行に就任した大久保は、自身の配下である与力の加納繁三郎と渡辺金三郎が安政の大獄で功績があった事を傘に着て公私に問題を起こしていたため、2人を摘発しようとした。この事が長野の耳に入り、加納、渡辺を手足として使っていた長野は大久保の追い出しを図り、6月24日に町奉行を罷免。隠居老人の役職である西丸留守居に左遷され、次いで8月28日には寄合(非役)に飛ばされた。
大開国論・大政奉還論
文久元年(1861年)8月29日、大久保は安政の大獄処分の緩和に伴い、蕃書調所勤務を命じられた。更に10月10日に外国奉行、翌文久2年(1862年)5月4日には外国奉行兼大目付を命じられた。
この時期松平春嶽が政事総裁職として幕政に参与する事が決まったが、徳川慶喜を将軍後見職にするかどうかで春嶽と幕閣の間で対立があり、慶喜を後見職にする気のない幕閣に抗議するため春嶽は登城を拒否していた。幕閣は春嶽を説得するため大久保を送り、7月6日漸く慶喜の後見職就任が決定。8日に春嶽の政事総裁職就任も決定した。この時大久保と春嶽は初めて面会し、以後懇意になる。7月3日、側用取次に就任。8月には春嶽の政治顧問である横井小楠とも面会し、「国是七条」「破約攘夷論」といった横井の思想に理解を示した。
10月20日、春嶽、横井と対談した大久保は、春嶽から朝廷の攘夷要求にどう対応すべきかと問われ、「大開国論」を説いた。「大開国論」とは「幕府による政治の独占をやめ、徳川家も諸侯と同様一諸侯に自ら下って朝廷中心の新体制のもと国是を決定した上で開国すべき」という論で、5年後の大政奉還に先んじた大政奉還論でもあった。
「この時、大久保一翁は大目付役・側用取次になれり。この人の見込みは大政を返上し、将軍職を辞し、駿河一国を領せらる、じつに徳川家繁栄の兆なり。早く上洛してこの挙を行うべしと諫言せしは、大久保の卓識なりと感服せり。余もその時は、大久保は狂人かと大いに忿怒を生ぜり。満幕府これを喜ぶものなく、ただ怨悪する多し」
「幕議紛糾の説き、大久保越中守大目付勤務中なり。進んで曰く、徳川家の傾覆近来にあり。上洛あって然るべし。その時、幕府にて掌握する天下の政治を、朝廷に返還し奉りて、徳川家は諸侯の列に加わり、駿遠参の旧地を領し、居城を駿府に占め候儀、当時の上策なりと諫言す。衆役人万座大笑し、とてもできナイ相談なりといえり。大久保越中守の先見は驚くべく感ずべき事にして、果して明治元年にはこの挙に及べり」
(『逸事史補』)
数日後土佐藩の山内容堂と面会した際にもこの「大開国論」を説き、容堂から「一々感服のほかなかりし。越中は当世第一等の人物なり」と賞賛された。だがこうした独自の思想を展開した事が慶喜や老中・板倉勝清を刺激し、彼らが大久保を疎んじる要因となった。
11月5日、幕政とは無関係な講武所奉行に転任される。表向きの理由は「俗論家の不満を買い暗殺の恐れがある」「春嶽殿が越中(大久保)を贔屓されるから不満を持つものが多い」という事だったが、慶喜や板倉の不興を買ったための事実上の左遷であった。
次いで11月20日と23日に、安政の大獄に関わった元井伊派に対しての処罰が発表され、大久保は「京都町奉行在任中に安政の大獄に協力した」として免職、差控となった。
差控
差控中の文久3年(1863年)4月、大久保は松平春嶽や横井小楠と書簡のやり取りをしており、そこにも大久保の思想が強く表されている。曰く
「幕府の対外政策は根本から誤っている。和の場合こちらの軍備が整っていないから戦わないという事で、戦の場合軍備が整い次第戦うという事になるが、天理に基づくならば武備の調不調に関わらず戦うべきであり、勝敗は天に任せるべきである。さりながら、夷人達はこれまで我が方のごまかし的な応対に驕慢な態度を示したのであって、彼らの方から和親を求めている以上こちらから戦争を仕掛ける理由がない。いつまでも和の戦のと百歩五十歩論に日月を虚しく過ごすのは良策ではないので、朝廷に対して公明正大な開国の建白を行ない、これまでの事は深くお詫びして至誠を持って奏聞し、朝廷が受け入れない場合には徳川家は将軍職を辞退して、遠江・駿河・三河の旧三国に退く事を願う他無い」
また同月初旬頃、勝海舟の弟子である坂本龍馬・沢村惣之丞らが大久保の元を訪れ、大久保の考えについて問い質した。この時大久保は坂本と沢村を「大道解すべき人」と見込んで自分の考えを述べた。
京地云々の義、勝(海舟)に従いおり候土州有志、過日五人拙宅に参り候につき、ほぼうけたまわり、唯々嘆息極め候えども、その来人中、坂本龍馬、沢村惣之丞両人は大道解すべき人やと見受け、話中に刺され候は覚悟にて懐相開き、公明正大の道はこのほかあるまじくと素意の趣き話し出で候ところ、両人だけは手を打つばかりに解し得候につき、さらば早々上京の上何とか尽力すべしと話し候ところ、及ぶだけは死力を尽くし見申すべく候間、春嶽様へも御一封と申し聞け候につき、かねて御存知の事には候えども、なお愚論相認め、当月三日龍馬出立に託し上ぼせ候。なお決して御見捨てこれ無き様、御国のため幾重にも願い候。龍馬は御国許までもまかり出で、是非正大のところを以て御出勤御進め申し上ぐべき候と申しおり候
この時坂本と沢村が聞いた「素意の趣き」とは大久保の持論である大開国論、大政奉還論についてだったと思われ、後に大政奉還推進者となる坂本にとって意義深い示唆を得る事になった。
また9月から11月にかけて再度春嶽に書状を送り、議会の創設についても言及した。大公議会・小公議会の二院制とし、それぞれ国政と地方の政治を担当させるという案で、幕府の専制ではなく議会制度を創設して衆議による挙国一致の態勢を立てるようにしなければ時局を収拾することは出来ないと説いた。これはイギリスの議会制度から着想を得たもので、講武所に勤務中西周などの教授から知識を得たのではないかと言われている。
勘定奉行・隠居
元治元年(1864年)7月21日、大久保は勘定奉行勝手方に任命された。幕府の財政が厳しくなったため、行政通で意志の強い人物ということで大久保が選ばれたが、わずか5日で解任された。理由は明らかでないが、将軍上京の是非を巡って老中達と対立したためではないかとされる。
政治に関わることに嫌気がさした大久保は隠居を願い出、元治2年(1865年)2月11日に息子に家督を譲り、一翁と名を改めた。隠居として悠々自適の生活を送っていたが、9月30日急に出仕が命じられた。体調不良と言って断ったが老中からの命令で大急ぎで大坂に来るようにと命じられて準備中待機命令があって待機。12月に再度命令を受けて上坂した。
22日に大坂着。24日に将軍・徳川家茂に謁見。その後老中・板倉勝清らと会談し、長州対策について質問攻めにあった。大久保は征討に反対した上でいくつか案を出し、妙案として薩摩藩の力を借りることを提案した。薩摩の協力を得ることは老中達から拒まれたが、大久保の提案した領国没収や藩主父子の永蟄居を採用する事になった。
同時期、大久保の噂を聞いた薩摩の大久保一蔵と小松帯刀は、「大久保(一翁)、勝(海舟)両氏を除いて幕府に人は居ない」「この二人に事を執らせたならば、天下はたちまち治安に帰するだろう」と評価した。
以後特に老中からの呼出もないため江戸に帰ろうとしていたところ、慶応2年(1866年)1月18日夜に突然坂本龍馬が訪れた。驚いた大久保は「幕吏に探知されているからすぐに立ち去るように」と警告したと言われる。
2月13日、帰府の許可を得て大坂を退出。2月末に江戸に戻った。この後幕府瓦解までの2年間を市井で暮らす。
江戸城無血開城
慶応4年(1868年)1月12日、大坂城を脱出した徳川慶喜が江戸の浜御殿に戻った。その後江戸城に入ると和戦いずれにするかで家臣団の混乱を招いたが、慶喜の決断により恭順する事に決まった。
23日、慶喜は勝を陸軍総裁、矢田堀鴻を海軍総裁、山口直毅を外国事務総裁、そして大久保を会計総裁に任命(2月8日に若年寄に昇進)して事態の収拾に当たらせた。慶喜は大久保や勝に好意的ではなかったが、薩長側で彼らへの評価が高かったため起用した。
大久保は勝と計らい官軍の真の実力者である西郷隆盛へ陳情して和平交渉まで漕ぎ着け、3月14日の西郷・勝会談により官軍の総攻撃が中止される事になった。この時の会談は勝の残した記録では自分一人で西郷と会ったとしているが、『岩倉公実記』では大久保も居合わせた事になっている。
4月4日、勅使・橋本実梁、柳原前光と西郷が江戸城に入り、大久保ら若年寄・大目付・目付陣が応対。慶喜の死罪免除と謹慎、武器明け渡し、慶喜に助力した幕臣の処分などに関する勅命を受け、11日に江戸城の明け渡しが実施された。
こうして抗戦派の反感や暗殺の危険に遭いつつ、大久保は勝と共同で徳川家の敗戦処理を無事に全うする事ができたが、幕府瓦解と同時に所持していた書類を燃やしてしまったため実際にどのような活動をしていたのか良く分かっていない。ただ、勝の記録にその活動と評価の一端が窺える。
諸有司に棟梁として万事を総裁するものは大久保一翁なり。一翁はその質謹厳、識あり学あり、今日の難に当たりて方正を以て終に不撓。能く諸官の進退且つ諸般の処分、還納の順序において順々として条理を錯乱せしめず、誠にその区画よろしきを得しめたる者は、その力とその勤勉によってなり。
(『幕府始末』)
8月初め、大久保は駿府に移住し、徳川家と家臣団の移住費用の問題に取り組んだ。
明治時代
明治2年(1869年)8月20日、大久保は静岡藩権大参事に就任。
明治4年(1871年)11月15日、静岡県権参事に任じられたが25日後の12月9日に辞任。
明治5年(1872年)4月10日、政府から出仕を命じられ、5月10日文部省二等出仕。同月25日に東京府知事に任命される。以後約3年間行政事務に携わる。
明治8年(1875年)12月19日、東京会議所の改革問題で内務卿・大久保利通から不興を買い教部少輔に異動。
明治10年(1877年)1月11日、教部省が廃止され、5日後の16日に元老院議官に任命される。以後、死去するまで議官を勤めるが、11年間の在任中会議ではほとんど口を開く事が無かった。
明治21年(1888年)7月31日、死去。享年72。死去の際、従二位に叙せられた。
関連項目
- 2
- 0pt