大久保嘉人(Yoshito Okubo, 1982年6月9日 - )とは、日本の元サッカー選手である。
元サッカー日本代表。現在はタレントとして活動している。
概要
福岡県京都郡苅田町出身。Jリーグ通算525試合209得点。日本代表国際Aマッチ60試合6得点。
史上初の3年連続Jリーグ得点王(2013年 - 2015年)であり、J1通算最多得点記録保持者(191得点)。現役時代は日本を代表するストライカーであり、抜群のゴールへの嗅覚で決定機に顔を出す。体のキレ、攻撃にタメを作るボールキープ、意表を突くドリブル突破、強烈なシュートとすべてにおいてハイレベルで、ゴールへ向かう気持ちの強さが特徴的な選手だった。
高校時代は名門である国見高校のエースとして注目を集め、2000年にはインターハイ、国体、選手権を優勝し、高校三冠を達成。さらにインターハイと高校選手権では大会得点王を獲得している。高校卒業後はセレッソ大阪に入団し、プロの道に進む。特に川崎フロンターレ時代には3年連続でJリーグ得点王のタイトルを獲得し、2015年には日本年間最優秀選手賞を受賞。2005年と2009年の二度海外への移籍も経験している。
日本代表には2003年にデビュー。Jリーグで見せたほどの輝かしいキャリアを積むことはできなかったが、それでもFIFAワールドカップには2010年と2014年の二度出場。2010 FIFAワールドカップには左サイドハーフとして全試合に出場し、日本のベスト16進出に貢献。
強気な姿勢と気持ちの強さが魅力である反面、すぐに頭に血がのぼって相手選手や主審と口論になったり、ラフプレーが多いことでも知られ、J1通算最多イエローカード記録(104枚)、レッドカード日本人1位(12枚)という不名誉な記録も残している。代表戦の大事な場面で熱くなり過ぎて退場になったこともあり、たびたび批判を受けていた。
2021シーズンをもって現役を引退。引退後はテレビやラジオなどに活動の場を移し、サッカーに限らず様々なジャンルで新たな挑戦を続けている。
経歴
生い立ち
福岡県苅田町の団地で姉、妹と5人家族で育つ。父親はトラック運転手母は元バレーボール選手。幼少時は父親が購入したペレやディエゴ・マラドーナのビデオを繰り返し見たり、父親と一緒に釣りに行ったり野球に親しんでいた。合気道を習っていたというが、長続きしなかった。
サッカーとの出会いは北九州市の小倉に買い物に行ったときにたまたま見かけたことがきっかけで、小学校3年時に苅田サッカースポーツ少年団に入団し、本格的にサッカーを始める。始めた当初は全くボールが蹴れず全然楽しくなかったらしいが、両親から「6年生まで諦めるな」と言われたことで続けていた。また、この頃にJリーグが開幕し、はじめてJリーガーになりたいという目標を持つようになった。当初はストッパーとしてプレーしていたが、小学校6年時よりFWでプレーするようになったことで才能が開花し始める。1994年にはU-12福岡県選抜チームに選出され、北九州市選抜チームの一員としてJリーグの試合の前座での試合に出場し、5得点を挙げている。
中学生になると親元を離れ、長崎県立国見中学校へ入学。国見高校のサッカー部総監督であった小嶺忠敏が中高一貫でサッカーの指導をするために作った「小嶺アカデミースクール」に入り、サッカー漬けの生活を送る。国見中学校では2、3年とも全国大会ベスト8に入り、U-15長崎県選抜チームに選出。中学時代に対戦経験のある鈴木啓太によると、すでに「やんちゃな選手」、「ガツガツしてくるから気を付けろ」という情報が入っていたという。
国見高校
1998年に長崎県立国見高校に進学。鳴り物入りで入部したものの、1年生のときには試合に出られず、ずっと応援だった。1年の3月に行われた新人戦の時、レギュラーだった選手が問題を起こして退部になり、空いたトップ下に抜擢されると、この試合で4ゴールを記録したことで以降はレギュラーの座を掴む。
当時の国見高校は低迷期にあり、特に大久保たちの世代は史上最弱の代と言われ、小嶺監督からも「おまえたちには何も期待していない」と言われていた。だが、それが悔しくて死ぬ気で練習したことで力をつけるようになる。厳しいことで知られる国見の練習は技術的にも肉体的にも鍛えられ、鍛えられたベースは、プロになって活きたと後に語っている。
そして3年生になった2000年、トップ下でプレーしながら抜群の得点感覚を持つ国見のエースに成長しており、インターハイでは10得点を記録し得点王と共にチームを優勝へと導く。さらに国体での優勝し、第79回全国高等学校サッカー選手権大会でも松橋章太とのコンビで攻撃陣を牽引。3回戦の日章学園戦では4ゴールを決め、決勝の草津東高校戦でも2ゴールを決めている。この結果、国見高校を8年ぶり4回目の優勝に導き、8得点を挙げて大会得点王に輝く。
U-19日本代表にも選出されていたこともあって卒業後は複数のJリーグクラブが獲得オファーを出す注目株となっていたが、小嶺監督からアビスパ福岡かセレッソ大阪を薦められ、最終的に当時の目標とした選手である森島寛晃の存在が決め手となり、セレッソを選択する。
セレッソ大阪
2001年にJ1リーグのセレッソ大阪へ入団。大物ルーキーとして鳴り物入りでの入団となったが、入団1年目はレギュラーではなく、途中出場から流れを変えるスーパーサブ的な存在であった。3月17日のJ1リーグ・1stステージ第2節浦和レッズ戦で途中出場しJリーグデビューを飾る。4月4日のナビスコカップ1回戦ジュビロ磐田戦でプロ初ゴールを記録。1stステージ第5節磐田戦ではJリーグ初ゴールを決めるが、この試合の前半32分に田中誠と口論になり、退場処分を受ける。シーズン途中で左三角靱帯損傷によって離脱を経験し、リハビリ中の筋力トレーニングでキレを失ったこともあって20試合2得点に終わる。しかもチームはJ2リーグ降格の憂き目に遭い、J1チームから獲得オファーも受けたが、残留を選択。
J2に舞台を移した2002年は第3節の湘南ベルマーレ戦で2ゴールを決めると、これをきっかけに調子を取り戻すようになり、レギュラーとして起用されるようになる。森島、西澤明訓と共に強力な攻撃ユニットを形成し、最終的に日本人トップとなる18ゴールを記録。チームの1年でのJ1復帰に貢献する。
J1に復帰した2003年シーズンからは背番号10を背負うことになる。前年に続いてレギュラーとして活躍し、J1でも日本人最多得点となる16得点を記録。この年のJリーグオールスターでは史上最多投票で選出されるなど大活躍のシーズンとなったが、その一方で相変わらずの気性の荒さが目立ち、審判への暴言や浦和レッズ戦での鈴木啓太への肘打ちなどシーズン二度の退場処分を受けている。また、この年のAFC選出によるアジア年間最優秀ユース選手賞を受賞している。
2004年シーズンはJ1・2ndステージ第5節ジェフユナイテッド市原戦でプロ入り後初となるハットトリックを記録。アテネオリンピック出場のためチームを離脱する期間もあったが、ストライカーとしてすっかり自信をつけ、22試合で15ゴールを記録。J2時代を含んではいるものの3年連続で2桁得点を記録した。
マジョルカ
2004年11月、スペイン・リーガ・エスパニョーラのRCDマジョルカへのレンタル移籍が決定。2005年1月10日、スペインでのデビュー戦となったリーガ第18節デポルティーボ・ラ・コルーニャ戦でいきなり1得点1アシストの活躍を見せ、鮮烈的なデビューを飾る。しかし、このデビュー戦で負傷する不運に見舞われたこともあり、当時低迷していたマジョルカの中でポジションが安定しなかったが、第36節アスレティック・ビルバオ戦及び第37節デポルティーボ戦でそれぞれ1得点ずつ挙げた他、2アシストとPK獲得という獅子奮迅の活躍を見せ、奇跡といわれたマジョルカの残留に大貢献。UEFAによるリーガ・エスパニョーラの若手ベストイレブンにも選出された。
続く2005-06シーズンは移籍期限延長を勝ち取ったが、大久保を高く評価していたエクトル・クーペル監督が解任となり、後任のグレゴリオ・マンサーノ監督からは信頼を得られず、出場時間が大幅に減ってしまう。1シーズンを過ごし26試合2得点という成績に終わり、結局マジョルカを退団することになる。
セレッソ大阪
2006年6月、セレッソ大阪へのレンタルバックで復帰。低迷していたチームの救世主として期待されるも、怪我でコンディションを落としていたこともあって復帰後6試合ゴールがなかった。終盤にかけてようやく調子を取り戻したものの、チームは最終的に17位で終わり、自身にとって二度目となるJ2降格を経験する。
ヴィッセル神戸
2007年1月、移籍金3億円でJ1リーグに復帰したヴィッセル神戸に完全移籍。背番号は13。ちなみに移籍を決めた理由を後にセレッソから「J2に落ちたから若手中心に切り替える。チームに残っても試合に出られない」と方針を告げられたからと明かしている(当時25歳だが)。当時の神戸ではレアンドロと強力な2トップを組んでいたが、前線になかなかパスが来ず、苛立つことが多くなっていた。そこでシーズン途中に自ら松田浩監督に進言し、左SHにポジションを移し、パサーとしてチャンスメイクする側にコンバートする。守備意識も高くなり献身的にプレスバックを行う場面になり、コンバートによってプレーの幅も広がっていた。それでいて得点感覚も衰えておらず、31試合で14得点を決めている。
2008年からは前年に退団した国見高校の先輩である三浦淳宏の後を継ぐ形でキャプテンに就任。この年の神戸は怪我人が多く、成績も低迷していたことから再びFWへ戻り、ストライカーとしての仕事に専念するようになる。チームも終盤に5連勝を記録するなど調子を上げていき、J1残留を果たす。なかなかいい形でボールをもらえないことも多かったが、それでも2年連続二桁得点となる11ゴールを記録している。
ヴォルフスブルク
2009年1月、当時のフェリックス・マガト監督から熱心なオファーを受けたことでドイツ・ブンデスリーガのVfLヴォルフスブルクへ移籍し、二度目の海外挑戦を決断する。なお、当時のヴォルフスブルクには長谷部誠が在籍していた。移籍した2008-09シーズンにヴォルフスブルクは初のブンデスリーガ優勝を果たしたが、当時のヴォルフスブルクの前線にはタレントが揃っていたことで満足な出場時間を得られなかった。次の年にワールドカップを控えていたことに加え、マガト監督がシャルケ04へ移籍したこともあり、わずか半年で退団することになる。
ヴィッセル神戸
2009年6月にヴィッセル神戸へ半年ぶりに復帰。だが、当時のチームは監督交代が相次いだこともあって低迷しており、自身も前年からオフ無しでプレーしていたことからコンディションが上がらず、一時はスタメンから外されることもあった。それでも徐々にギアを上げるようになり、最終的には途中加入にもかかわらずチームトップとなる8ゴールを決めている。
ワールドカップイヤーとなった2010年は、開幕前の代表戦で左膝内側側副靭帯損傷の負傷を負う。それでも全治6週間と診断されるが、リーグ開幕戦は膝に包帯を巻いて途中出場する。その後も強行出場を続けて代表メンバー入りをアピールするが、コンディションが上がらず、代表のチームメイトである中村俊輔から休むよう進言されるほどだった。ワールドカップからの帰国後はFWとしてプレーするものの、燃え尽き症候群を発症。さらにはワールドカップ期間中に痛めた左膝の手術も行い長期離脱や不運な退場、筋肉系の故障など離脱が多く、17試合4得点という不本意な成績に終わる。
2011年は開幕からFWとしてプレーしていたが、シーズン途中から前線がポポと吉田孝行の2トップに固定されたこともあり、左サイドハーフとしての起用がメインとなる。8月6日のJ1第20節浦和レッズ戦ではJリーグ通算100ゴール目を決める。この年の神戸は「よりボールを保持し相手を圧倒するサッカー」が浸透し、細かい怪我はあったものの大きな離脱はなくリーグ戦30試合出場9得点を挙げ、クラブ初となるJ1でのシーズン二桁順位フィニッシュに貢献する。
2012年には自らの希望によって背番号を10に変更。さらにキャンプ中から再びFWとしてゴールを狙うことを希望し、開幕戦のガンバ大阪戦では2ゴールを決める活躍を見せる。しかし、新加入選手としてのコンビネーションがうまくフィットせず、前線で孤立することが多くなり、中盤に下がってプレーせざるを得なくなったことでゴール数が伸びなくなっていた。加えて第7節の柏レイソル戦で負傷したことを皮切りにコンディションが低下し、低調なプレーが続いていた。明確なビジョンが見えないチームを救うこともできず、26試合4ゴールというFWとしては不本意な成績に終わる。結局、神戸はJ2降格となってしまい、「大久保は終わった」と揶揄されるようになっていた。クラブからも出て行ってくれと言われたこともあり、通算5年半プレーした神戸を退団する。
川崎フロンターレ
神戸退団後は「もう日本でプレーしたくない」という気持ちになり、アジアも含めた海外への移籍を模索していたが、2013年1月9日に熱心なオファーを受けていたJ1リーグの川崎フロンターレへ2年契約で移籍する。背番号は13。風間八宏監督からはストライカーとしての役割に固定され、さらに中盤にタレントが揃う川崎では何もかも一人でやらなければならなかった神戸時代と違って、使われる側に専念することができた。特に大きかったのは稀代のパサーである中村憲剛の存在で、自分の動きを理解して欲しいときにボールを受けられることでストライカーとしての才能が再び開花。シュート精度も向上して多彩な得点パターンで相手DFを脅かし、第16節浦和戦でJ1通算100得点を達成。自身も風間サッカーと出会ったことでサッカーが楽しくなったと振り返っている。またこの頃には無駄なファウルやスタミナの消耗もなくなり、コンスタントにゴールを量産することができた。結果、31歳にしてキャリアハイとなるリーグ戦26ゴールをマークし、初となるJ1リーグ得点王のタイトルを獲得。さらには、これも初となるJ1ベストイレブンにも選出される。
川崎での2年目となった2014年も相手からの厳しいマークを受けながらも中村憲剛とのホットラインは健在で、ゴールを量産。8月30日のJ1第22節名古屋グランパス戦でカルビーの広告看板を蹴って損壊させたことで2試合の出場停止処分を受けるが、出場停止明けとなったJ1第25節大宮アルディージャ戦でC大阪在籍時以来となる10年ぶり2度目のハットトリックを達成する。最終的に18得点を記録して2年連続得点王を獲得、単独での連続受賞はJリーグ初の快挙となった。
2015年はFC東京からオファーを受けたが、川崎との契約を延長し残留する。5月2日、1stステージ第7節アルビレックス新潟戦でゴールを決めたことでJ1通算得点記録140得点を記録し、キングカズこと三浦知良の記録を抜いて単独4位に。140点目を決めた時はカズダンスを披露した。この年は本人が「歩きながらでも点を獲れる」と豪語するほど、得点感覚が研ぎ澄まされていた。9月18日、2ndステージ第11節名古屋グランパス戦は通算3度目となるハットトリックに加え、Jリーグ史上4人目の通算150得点越えを達成した記念すべき試合となる。最終的には23得点を記録し、3年連続の得点王獲得という偉業を成し遂げる。
2016年も例年どおりゴールへの嗅覚が冴え渡り、3月12日のJ1リーグ1stステージ第3節名古屋戦でのゴールによって佐藤寿人のもつJ1歴代最多得点記録に並ぶ通算158得点を記録。4月10日、1stステージ第6節サガン鳥栖戦でアディショナルタイムでの劇的なゴールによってJ1新記録159得点目を記録を塗り替える159得点目を記録する。通年ではリーグ戦33試合に出場。4年連続の得点王こそ逃したが、日本人選手最多タイとなる15得点を記録。また、この年の川崎はタイトル獲得のチャンスを迎えたが、リーグ戦ではJリーグチャンピオンシップ準決勝で敗れ、天皇杯でも決勝で敗れて準決勝に終わり、キャリア初となるタイトルを逃している。
FC東京
2017年1月4日、FC東京へ完全移籍することを発表。移籍の理由として「このまま王様でいたくなかった」と語っており、新たなチャレンジを希望しての移籍となった。移籍後初ゴールとなったのはJ1第4節・古巣である川崎との「多摩川クラシコ」だった。だが、川崎時代と違っていい形でパスが来ず、思ったようにゴールを決めることができずにいた。監督交代後はシャドーとして起用されることが増え、チャンスメイクする側を任されるが、結局28試合8得点という期待外れの成績に終わる。
川崎フロンターレ
2018年シーズン、わずか1年で古巣である川崎フロンターレに復帰。だが、監督が鬼木達に代わり、前年から小林悠が新たなエースストライカーとして台頭していたこともあり、名古屋戦と鹿島戦でゴールを決めたもののレギュラーの座はなく、ほとんどが途中出場となり、5月5日のFC東京戦以降はメンバー外となっていた。
ジュビロ磐田
2018 FIFAワールドカップの中断期間中である2018年6月26日、ジュビロ磐田に完全移籍する。すでに36歳となっていた大久保はこのとき「引退」も考えていたが、名波浩監督からラブコールを受けたことで移籍を決断した。8月19日のJ1第23節柏レイソル戦でゴールを決め、佐藤寿人に次いで史上2人目となるJリーグ通算200得点を達成。同時に通算100枚目のイエローカードを貰うという非常にメモリアルな試合となる。J1第34節・古巣の川崎と対戦では先制ゴールを決める。しかし、得点力不足解消の切り札として加入しながらも17試合で3ゴールと期待に応えられた成績ではなかった。それでもチームはJ1参入プレーオフで辛うじてJ1に残留する。
J1通算200得点を目標に掲げた2019年だったが、低迷するチームの中で自身も開幕戦から第7節までスタメン出場するも得点は決められず、徐々に出場機会が減少。さらに第16節を最後に名波監督が辞任し、その後監督交代が相次ぐなど混迷を極めるチームの中で満足な出場機会を得られずにいた。、負ければ降格が決まる重要な一戦となった第33節の名古屋戦ではシーズン初ゴールとなる決勝ゴールを決める。しかし、残留を争っていた湘南が勝利したため、チームは降格となり、キャリアワーストとなる1得点でシーズンを終える。シーズン終了後、契約満了により退団することが発表される。
東京ヴェルディ
2020年1月8日、J2リーグの東京ヴェルディへ移籍することが発表される。若い選手が多いチームをベテランとして牽引する役割が期待されるが、出場は19試合となり、PKを外すなどチームに自身の得点で貢献することが全くできず、自身初となるリーグ無得点に終わってしまう。結局シーズン終了後にわずか1年でチームを去ることが発表される。
セレッソ大阪
2021年1月9日、J1リーグのセレッソ大阪に15年ぶりに復帰することが発表される。もっとも周囲からは戦力としての加入と見られておらず、引退後のキャリアを考えた移籍と見られていた。ところが、オフシーズンでの肉体改造が功を奏し、キレキレの状態で開幕を迎えると、2月26日のJ1開幕戦柏戦にスタメンで起用されると、チームのシーズン第一号となるゴールを決める。リーグ3戦目となった3月6日の第3節FC東京戦では3試合連続ゴールを含めた1ゴール1アシストの大活躍を披露。その後も開幕から5試合連続ゴールを決め、開幕前の下馬評を覆す活躍を見せ、代表復帰論まで出るようになる。ところが、チームでの新型コロナウイルスによる影響、第12節の大阪ダービーでの負傷による離脱もあって得点から遠ざかるようになっていた。もっとも小菊昭雄監督からは評価され、離脱期間以外は主力として起用されていたが・・・。
11月19日、クラブからは契約延長を提示されていたが、2021年シーズンを最後に現役を引退することを発表する。
日本代表
高校3年生だった2000年にU-19日本代表に初めて選出。同年11月にイランで開催されたAFCユース選手権のメンバーにも選出される。2001年のU-20日本代表にも名を連ねていたが、左三角靱帯損傷によってFIFAワールドユース選手権の出場は果たせなかった。
2002年になるとアテネオリンピック出場を目指すU-21日本代表に選出される。10月に韓国の釜山で開催されたアジア競技大会2002では、全試合に出場したがゴールを決めたのはバーレーン戦の2ゴールのみでチームも決勝でイランに敗れ、準優勝となる。
2003年にはジーコ監督率いるフル代表に初めて選出され、5月31日の韓国との親善試合において代表デビューを果たす。この年は五輪代表よりもフル代表に優先的に呼ばれ、年内の代表メンバーにずっと招集される。21歳という若さもあって期待値は高かったものの、14試合に出場しながら初ゴールは生まれなかった。さらに2004年2月には代表合宿を抜け出してキャバクラでどんちゃん騒ぎを起こした「キャバクラセブン」の一人であることがすっぱ抜かれ、代表からしばらく追放となる。
2004年はオリンピックイヤーということもありU-23代表での活動が中心となるはずだったが、前述したキャバクラ事件が影響したのか3月からのアテネオリンピックアジア最終予選UAEラウンドのメンバーから外れることとなった。日本ラウンドからメンバーに復帰すると、レバノン戦で決勝ゴールを決めれば、最終戦のUAE戦では2ゴールを決める活躍を見せ、日本の3大会連続のオリンピック出場の立役者となる。
8月に開催されたアテネオリンピックの本大会メンバーにも選出。これが自身のキャリアで初の国際大会となった。チームは1勝2敗でグループリーグ敗退となったが、自身は第1戦のパラグアイ戦と第3戦のガーナ戦でゴールを決め、この活躍が後のスペイン移籍の足掛かりとなった。
オリンピック後はフル代表に復帰したものの、結果を残すことができず、次第に代表に招集されなくなる。若さもあって待望論も出ていたが、結局2005年10月の欧州遠征を最後にジーコ監督から呼ばれることはなく、2006 FIFAワールドカップのメンバーからも落選した。
2007年8月22日のカメルーンとの親善試合でイビチャ・オシム監督から招集され、2年ぶりに代表に復帰。10月17日、かつての本拠地・長居陸上競技場では代表21試合目にして待望の代表初ゴールを決める。オシム監督から岡田武史監督に代わった2008年からは代表の主力としてコンスタントに選出されるようになる。2月6日の2010 FIFAワールドカップ アジア二次予選のタイ戦で代表2得点目を記録するが、この試合で左膝半月板を負傷する。6月7日、二次予選の大一番と見られたアウェイのオマーン戦では、相手GKのアリ・アル・ハブシと接触した際に蹴りを見舞い、一発退場となる。これによって予選3試合出場停止となり、10人になった日本はオマーンと引き分けたことから大バッシングを受ける。さらにこのとき、岡田監督から「何をやったんや」と聞かれて「蹴ってしまいしました」と答えると、「アホ」と言われている。2008年9月からのアジア最終予選では、出場停止処分の解けた10月15日の第3節ウズベキスタン戦から復帰。最終予選でのポジションは左サイドハーフが主戦場となり、ゴールこそ決められなかったが、チャンスメイクで貢献。
2010年6月に南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップ本大会のメンバーに選出される。前年の海外移籍の失敗からその後所属する神戸で低調だったことから代表入りに暗雲が漂っていたが、目標だったワールドカップ出場が実現することとなった。直前のテストマッチの成績が低調だったこともあって大会直前に岡田監督が超守備的なスタイルに変更。これにより、左サイドでの守備の負担が大きくなり、サイドをひたすら走る役割となる。大会では4試合全てにスタメンで出場し、逆サイドの松井大輔と共に死にもの狂いで走り回って文字通りに毎試合限界まで戦い抜き、下馬評を覆すベスト16進出の立役者となる。
南アフリカ・ワールドカップ後にアルベルト・ザッケローニ監督が就任してからの代表ではお呼びがかからなくなり、2012年2月のアイスランド戦に1度だけ呼ばれて以降は完全に遠ざかっていた。しかし、2013年に川崎に移籍して得点王を獲得するなど再ブレイクを果たしたことでファンやメディアからの代表待望論が日増しに高まっていた。その一方、本田圭佑が中心となった代表に我の強い大久保を選出することを危惧する声もあった。
2014年5月12日、2014 FIFAワールドカップ ブラジル大会の最終メンバーにサプライズで選出される。まさかの2年ぶりの代表復帰は大きな話題となり、大会直前となった6月6日のザンビアとのテストマッチで実に2008年以来6年ぶりとなる代表でのゴールを決める。本大会に入ると初戦のコートジボワール戦では、逆転された直後に投入され、第2戦のギリシャ戦では右サイドハーフ、第3戦のコロンビア戦では1トップとしてスタメンで起用されるが、結局ノーゴールに終わる。特にギリシャ戦では内田篤人の絶好のパスからのシュートを外すなど再三の決定機をモノにできず、決定力不足解消の切り札として期待されただけに大会後は批判を受ける。結局、この大会が日本代表としての最後の試合となるのだった。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2001 | ![]() |
セレッソ大阪 | J1リーグ | 20 | 2 |
2002 | ![]() |
セレッソ大阪 | J2リーグ | 29 | 18 |
2003 | ![]() |
セレッソ大阪 | J1リーグ | 24 | 16 |
2004 | ![]() |
セレッソ大阪 | J1リーグ | 22 | 15 |
2004-05 | ![]() |
マジョルカ | リーガ・エスパニョーラ | 13 | 3 |
2005-06 | ![]() |
マジョルカ | リーガ・エスパニョーラ | 26 | 2 |
2006 | ![]() |
セレッソ大阪 | J1リーグ | 21 | 6 |
2007 | ![]() |
ヴィッセル神戸 | J1リーグ | 31 | 14 |
2008 | ![]() |
ヴィッセル神戸 | J1リーグ | 31 | 11 |
2008-09 | ![]() |
ヴォルフスブルク | ブンデスリーガ | 9 | 0 |
2009 | ![]() |
ヴィッセル神戸 | J1リーグ | 19 | 8 |
2010 | ![]() |
ヴィッセル神戸 | J1リーグ | 17 | 4 |
2011 | ![]() |
ヴィッセル神戸 | J1リーグ | 30 | 9 |
2012 | ![]() |
ヴィッセル神戸 | J1リーグ | 26 | 4 |
2013 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1リーグ | 33 | 26 |
2014 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1リーグ | 32 | 18 |
2015 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1リーグ | 32 | 23 |
2016 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1リーグ | 33 | 15 |
2017 | ![]() |
FC東京 | J1リーグ | 28 | 8 |
2018 | ![]() |
川崎フロンターレ | J1リーグ | 12 | 2 |
![]() |
ジュビロ磐田 | J1リーグ | 17 | 3 | |
2019 | ![]() |
ジュビロ磐田 | J1リーグ | 20 | 1 |
2020 | ![]() |
東京ヴェルディ | J2リーグ | 19 | 0 |
2021 | ![]() |
セレッソ大阪 | J1リーグ | 29 | 6 |
おもな個人タイトル
- J1リーグ得点王:3回(2013年、2014年、2015年)
- Jリーグベストイレブン:3回(2013年、2014年、2015年)
- 全国高校総体得点王(2000年)
- 全国高校選手権得点王(2000年)
- 日本年間最優秀選手賞(2015年)
- アジア年間最優秀選手賞(2003年)
引退後
2015年からMr.Childrenやナオト・インティライミらが立ち上げた芸能事務所であるエンジンとマネージメント契約を結んでおり、2021年に現役を引退してからはタレントとして活動。スポーツコメンテーターとして、CS・ネット向けのサッカー中継解説のほか、スポーツニュース番組のメインキャスター、バラエティー番組のゲストなどをこなしている。
2022 FIFAワールドカップでは、フジテレビ系列での放送のスペシャルナビゲーターに起用されている。
プレースタイル
日本を代表するストライカーというイメージが強いが、高校時代はトップ下がメインポジションでプロになってからはFWのみならず左サイドハーフなどオールラウンダーとしてプレーしていた。川崎フロンターレ時代に指導していた風間八宏は「どこをやらしてもうまい」と評している。
パス、ドリブルを織り交ぜながらシュートまで持ち込み、面白いようにゴールを奪っていくスタイルであり、「俺にボールをよこせ」という強気な姿勢でボールを受け、貪欲にゴールを目指すタイプ。
もっとも多いゴールパターンはワンタッチゴールであり、裏を狙うと見せかけてニアを突いたり、ニアを狙うと見せかけて裏を取ったりと「動き出しの上手さ」によって成り立っている。相手DFとの駆け引きもうまく、相手DFに捕まらないような動き出しを極めているのが強みとなっている。
またシュートへの意識が人一倍強く、ゴール前では強引にでも自分でシュートまで持っていき、エリア外でも前が空いていれば積極的にミドルシュートを放つ。加えて、小柄ながらも球際でバチバチと戦えることができ、守備でも必死に相手を追いかけてハードワークをこなす。2010 FIFAワールドカップではサイドハーフとして攻守に走り回り、球際で戦えることが岡田武史監督から信頼をされた。
その反面、球際で熱く戦うが故に、つい熱くなり過ぎて報復行為をしてしまったり、判定に納得できず主審に暴言を吐いたりと不必要なカードを貰ってしまうのが欠点となっていた。エゴイストが故に周りと噛み合わず、プレー選択を間違ってしまうことが多いのも欠点だった。
ヨシメーター
川崎に移籍した2013年の夏、サポーターが通算ゴール記録をカウントする「YOSHI METER(ヨシメーター)」を製作(元ネタは言わずもがなイチローの「ICHI METER(イチメーター)」)。
本家と違い、横断幕タイプで得点部分はマジックテープ式。フロンターレ戦の一種の名物となっている。
人物・エピソード
- 2004年12月に国見高校の同級生と結婚。ちなみに、妻の父は大久保の中学生時のサッカーの恩師である。結婚後、4人の息子を授かっている。
- 試合中は短期でカッとなりやすい性格で知られているが、素顔はシャイな性格と言われ、彼を知る人物からは自分からは前に出ないもの静かな人物、記者が発言を大げさに報じても苦笑いで済ませ、若手にいじられてもニコニコしていると評されている。
- 小学生の頃から足が速く、サッカーと並行して陸上競技にも取り組み、全国小学生陸上競技交流大会に出場した。
- 無用な警告、退場の多い選手だったが、引退した際の記者会見で「審判の皆さまには迷惑をかけました」と謝罪している。一方で自身のやんちゃなプレースタイルについては「悔いはない」と振り返っている。
- 21年のプロ生活で3度の得点王に輝くなど個人レベルでは輝かしいキャリアを積んでいるが、チームとしてのタイトルとは最後まで無縁だった(ヴォルフスブルク時代にリーグ優勝は経験しているものの、わずか半年の加入でしかも戦力外の扱いだった)。
- マジョルカ時代、レアル・マドリードと対戦した際にスーパースターのデイヴィッド・ベッカム相手に肘打ちをお見舞いし、一触即発となった。FCバルセロナ戦ではカルレス・プジョルを股抜きしたが、その後に強烈なタックルの仕返しを受けた。
- 日本代表でのキャバクラ事件が報じられたことを知ったのは彼女(今の妻)の家に車で向かっている最中だったらしい。家に到着後、玄関で数分立ち止まったらしく、彼女とその家族は報道のことをすでに知っており、気まずい空気が流れたとのこと。
- 30歳のときに飛躍のきっかけとなった川崎フロンターレへの移籍を決断した決め手は妻から「あんた忘れられるわよ」と言われたこと。
- 2015年夏には妻が流産し、奇胎後hcg存続症と診断された。同年10月に抗がん剤治療中の妻を勇気づけるため、3人の息子と共に頭を丸刈りにし、大久保家の絆の強さを物語るエピソードとなった。
- 『千鳥の鬼レンチャン』の企画である「400mサバイバルレンチャン」では、引退して間もない時期の収録だったこともあり、2022年8月の第1回と2023年1月の第2回を連覇している。
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