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大久保嘉人Yoshito Okubo, 1982年6月9日 - )とは、日本の元サッカー選手である。
サッカー日本代表現在タレントとして活動している。

ポジションはFW、MF170cm73kg。利き足は右足。

概要

福岡県京都田町出身。Jリーグ通算525試合209得点日本代表国際Aマッチ60試合6得点

史上初の3年連続Jリーグ得点王(2013年 - 2015年)であり、J1通算最多得点記録保持者(191得点)。現役時代は日本を代表するストライカーであり、抜群のゴールへの嗅覚で決定機に顔を出す。体のキレ、攻撃にタメを作るボールキープ、意表を突くドリブル突破、強シュートとすべてにおいてハイレベルで、ゴールへ向かう気持ちの強さが特徴的な選手だった。

高校時代は名門である国見高校エースとして注を集め、2000年にはインターハイ、国体、選手権を優勝し、高校三冠を達成。さらにインターハイと高校選手権では大会得点王を獲得している。高校卒業後はセレッソ大阪に入団し、プロに進む。特に川崎フロンターレ時代には3年連続でJリーグ得点王のタイトルを獲得し、2015年には日本年間最優秀選手賞を受賞。2005年2009年の二度海外への移籍も経験している。

日本代表には2003年デビューJリーグで見せたほどのかしいキャリアを積むことはできなかったが、それでもFIFAワールドカップには2010年2014年の二度出場。2010 FIFAワールドカップには左サイドハーフとして全試合に出場し、日本ベスト16進出に貢献。

強気な姿勢と気持ちの強さが魅力である反面、すぐに頭に血がのぼって相手選手や審と口論になったり、ラフプレーが多いことでも知られ、J1通算最多イエローカード記録104枚)、レッドカード日本人1位(12枚)という不名誉な記録も残している。代表戦の大事な場面で熱くなり過ぎて退場になったこともあり、たびたび批判を受けていた。

2021シーズンをもって現役を引退引退後はテレビラジオなどに活動の場を移し、サッカーに限らず様々なジャンルで新たな挑戦を続けている。

経歴

生い立ち

福岡県田町の団地と5人家族で育つ。父親トラック運転手は元バレーボール選手。幼少時は父親が購入したペレディエゴ・マラドーナビデオを繰り返し見たり、父親と一緒に釣りに行ったり野球しんでいた。合気道を習っていたというが、長続きしなかった。

サッカーとの出会いは北九州市小倉買い物に行ったときにたまたま見かけたことがきっかけで、小学校3年時にサッカースポーツ少年団に入団し、本格的にサッカーを始める。始めた当初は全くボールが蹴れず全然楽しくなかったらしいが、両から「6年生まで諦めるな」と言われたことで続けていた。また、この頃にJリーグが開幕し、はじめてJリーガーになりたいという標を持つようになった。当初はストッパーとしてプレーしていたが、小学校6年時よりFWでプレーするようになったことで才が開し始める。1994年にはU-12福岡県選抜チームに選出され、北九州市選抜チームの一員としてJリーグの試合の前座での試合に出場し、5得点を挙げている。

中学生になると元を離れ、長崎県国見中学校入学国見高校サッカー部総監督であった小嶺忠敏が中高一貫でサッカー導をするために作った「小嶺アカデミースクール」に入り、サッカー漬けの生活を送る。国見中学校では2、3年とも全大会ベスト8に入り、U-15長崎県選抜チームに選出。中学時代に対戦経験のある鈴木啓太によると、すでに「やんちゃな選手」、「ガツガツしてくるから気を付けろ」という情報が入っていたという。

国見高校

1998年長崎県国見高校に進学。鳴り物入りで入部したものの、1年生のときには試合に出られず、ずっと応援だった。1年の3月に行われた新人戦の時、レギュラーだった選手が問題を起こして退部になり、いたトップ下に抜されると、この試合で4ゴール記録したことで以降はレギュラーの座を掴む。

当時の国見高校は低迷期にあり、特に大久保たちの世代は史上最弱の代と言われ、小嶺監督からも「おまえたちには何も期待していない」と言われていた。だが、それが悔しくて死ぬ気で練習したことで力をつけるようになる。厳しいことで知られる国見練習は技術的にも体的にも鍛えられ、鍛えられたベースは、プロになって活きたと後に語っている。

そして3年生になった2000年トップ下でプレーしながら抜群の得点感覚を持つ国見エースに成長しており、インターハイでは10得点記録得点王と共にチーム優勝へと導く。さらに国体での優勝し、第79回全高等学校サッカー選手権大会でも松橋章太とのコンビで攻撃を牽引。3回戦の日章学園戦では4ゴールを決め、決勝の草津高校戦でも2ゴールを決めている。この結果、国見高校を8年ぶり4回優勝に導き、8得点を挙げて大会得点王にく。

U-19日本代表にも選出されていたこともあって卒業後は複数のJリーグクラブが獲得オファーを出す注となっていたが、小嶺監督からアビスパ福岡セレッソ大阪を薦められ、最終的に当時の標とした選手である森島寛晃の存在が決め手となり、セレッソを選択する。

セレッソ大阪

2001年J1リーグセレッソ大阪へ入団。大物ルーキーとして鳴り物入りでの入団となったが、入団1年レギュラーではなく、途中出場から流れを変えるスーパーサブ的な存在であった。3月17日J1リーグ1stステージ第2節浦和レッズ戦で途中出場しJリーグデビューを飾る。4月4日ナビスコカップ1回戦ジュビロ磐田戦でプロゴール記録1stステージ第5節磐田戦ではJリーグゴールを決めるが、この試合の前半32分に田中と口論になり、退場処分を受ける。シーズン途中で左三角靱帯損傷によって離脱を経験し、リハビリ中の筋力トレーニングでキレを失ったこともあって20試合2得点に終わる。しかもチームJ2リーグ降格の憂きに遭い、J1チームから獲得オファーも受けたが、残留を選択。

J2舞台を移した2002年は第3節の湘南ベルマーレ戦で2ゴールを決めると、これをきっかけに調子を取り戻すようになり、レギュラーとして起用されるようになる。森島西澤明訓と共に強力な攻撃ユニットを形成し、最終的に日本人トップとなる18ゴール記録チームの1年でのJ1復帰に貢献する。

J1に復帰した2003年シーズンからは背番号10を背負うことになる。前年に続いてレギュラーとして活躍し、J1でも日本人最多得点となる16得点記録。この年のJリーグオールスターでは史上最多投票で選出されるなど大活躍のシーズンとなったが、その一方で相変わらずの気性の荒さが立ち、審判への暴言や浦和レッズ戦での鈴木啓太への肘打ちなどシーズン二度の退場処分を受けている。また、この年のAFC選出によるアジア年間最優秀ユース選手賞を受賞している。

2004年シーズンJ12ndステージ第5節ジェフユナイテッド市原戦でプロ入り後初となるハットトリック記録アテネオリンピック出場のためチームを離脱する期間もあったが、ストライカーとしてすっかり自信をつけ、22試合で15ゴール記録J2時代を含んではいるものの3年連続で2桁得点記録した。

マジョルカ

2004年11月スペインリーガ・エスパニョーラRCDマジョルカへのレンタル移籍が決定。2005年1月10日スペインでのデビュー戦となったリーガ第18節デポルティーボ・ラ・コルーニャ戦でいきなり1得点1アシストの活躍を見せ、鮮的なデビューを飾る。しかし、このデビュー戦で負傷する不運に見舞われたこともあり、当時低迷していたマジョルカの中でポジションが安定しなかったが、第36節アスレティック・ビルバオ戦及び第37節デポルティーボ戦でそれぞれ1得点ずつ挙げた他、2アシストとPK獲得という獅子奮の活躍を見せ、奇跡といわれたマジョルカの残留に大貢献。UEFAによるリーガ・エスパニョーラの若手ベストイレブンにも選出された。

続く2005-06シーズンは移籍期限延長を勝ち取ったが、大久保を高く評価していたエクトル・クーペル監督が解任となり、後任のグレゴリオ・マンサーノ監督からは信頼を得られず、出場時間が大幅に減ってしまう。1シーズンを過ごし26試合2得点という成績に終わり、結局マジョルカを退団することになる。

セレッソ大阪

2006年6月セレッソ大阪へのレンタルバックで復帰。低迷していたチーム救世主として期待されるも、怪でコンディションを落としていたこともあって復帰後6試合ゴールがなかった。終盤にかけてようやく調子を取り戻したものの、チームは最終的に17位で終わり、自身にとって二度となるJ2降格を経験する。

ヴィッセル神戸

2007年1月、移籍金3億円でJ1リーグに復帰したヴィッセル神戸全移籍。背番号は13。ちなみに移籍を決めた理由を後にセレッソから「J2に落ちたから若手中心に切り替える。チームに残っても試合に出られない」と方針を告げられたからと明かしている(当時25歳だが)。当時の神戸ではレアンドロと強力な2トップを組んでいたが、前線になかなかパスが来ず、苛立つことが多くなっていた。そこでシーズン途中に自ら松田監督に進言し、左SHにポジションを移し、パサーとしてチャンスメイクする側にコンバートする。守備意識も高くなり献身的にプレスバックを行う場面になり、コンバートによってプレーの幅も広がっていた。それでいて得点感覚も衰えておらず、31試合で14得点を決めている。

2008年からは前年に退団した国見高校先輩である三浦の後を継ぐ形でキャプテンに就任。この年の神戸は怪人が多く、成績も低迷していたことから再びFWへ戻り、ストライカーとしての仕事に専念するようになる。チームも終盤に5連勝を記録するなど調子を上げていき、J1残留を果たす。なかなかいい形でボールをもらえないことも多かったが、それでも2年連続二桁得点となる11ゴール記録している。

ヴォルフスブルク

2009年1月、当時のフェリックス・マガト監督から熱心なオファーを受けたことでドイツブンデスリーガVfLヴォルフスブルクへ移籍し、二度海外挑戦を決断する。なお、当時のヴォルフスブルクには長谷部誠が在籍していた。移籍した2008-09シーズンヴォルフスブルクは初のブンデスリーガ優勝を果たしたが、当時のヴォルフスブルク前線にはタレントっていたことで満足な出場時間を得られなかった。次の年にワールドカップを控えていたことに加え、マガト監督シャルケ04へ移籍したこともあり、わずか半年で退団することになる。

ヴィッセル神戸

2009年6月ヴィッセル神戸へ半年ぶりに復帰。だが、当時のチーム監督交代が相次いだこともあって低迷しており、自身も前年からオフしでプレーしていたことからコンディションが上がらず、一時はスタメンから外されることもあった。それでも徐々にギアを上げるようになり、最終的には途中加入にもかかわらずチームトップとなる8ゴールを決めている。

ワールドカップイヤーとなった2010年は、開幕前の代表戦で左膝内側側副靭帯損傷の負傷を負う。それでも全治6週間と診断されるが、リーグ開幕戦は膝に包帯を巻いて途中出場する。その後も強行出場を続けて代表メンバー入りをアピールするが、コンディションが上がらず、代表のチームメイトである中村俊輔から休むよう進言されるほどだった。ワールドカップからの帰後はFWとしてプレーするものの、燃え尽き症候群を発症。さらにはワールドカップ期間中に痛めた左膝の手術も行い長期離脱や不運な退場、筋肉系の故障など離脱が多く、17試合4得点という不本意な成績に終わる。

2011年は開幕からFWとしてプレーしていたが、シーズン途中から前線ポポ吉田孝行の2トップに固定されたこともあり、左サイドハーフとしての起用がメインとなる。8月6日J1第20節浦和レッズ戦ではJリーグ通算100ゴールを決める。この年の神戸は「よりボールを保持し相手を圧倒するサッカー」が浸透し、細かい怪はあったものの大きな離脱はなくリーグ戦30試合出場9得点を挙げ、クラブ初となるJ1でのシーズン二桁順位フィニッシュに貢献する。

2012年には自らの希望によって背番号を10に変更。さらにキャンプ中から再びFWとしてゴールを狙うことを希望し、開幕戦のガンバ大阪戦では2ゴールを決める活躍を見せる。しかし、新加入選手としてのコンビネーションがうまくフィットせず、前線で孤立することが多くなり、中盤に下がってプレーせざるを得なくなったことでゴール数が伸びなくなっていた。加えて第7節の柏レイソル戦で負傷したことを皮切りにコンディションが低下し、低調なプレーが続いていた。明確なビジョンが見えないチームを救うこともできず、26試合4ゴールというFWとしては不本意な成績に終わる。結局、神戸J2降格となってしまい、「大久保は終わった」と揶揄されるようになっていた。クラブからも出て行ってくれと言われたこともあり、通算5年半プレーした神戸を退団する。

川崎フロンターレ

神戸退団後は「もう日本プレーしたくない」という気持ちになり、アジアも含めた海外への移籍を模索していたが、2013年1月9日に熱心なオファーを受けていたJ1リーグ川崎フロンターレへ2年契約で移籍する。背番号は13。風間監督からはストライカーとしての役割に固定され、さらに中盤にタレント川崎では何もかも一人でやらなければならなかった神戸時代と違って、使われる側に専念することができた。特に大きかったのは稀代のパサーである中村憲剛の存在で、自分の動きを理解して欲しいときにボールを受けられることでストライカーとしての才が再び開シュート精度も向上して多得点パターンで相手DFを脅かし、第16節浦和戦でJ1通算100得点を達成。自身も風間サッカーと出会ったことでサッカーが楽しくなったと振り返っている。またこの頃には駄なファウルスタミナの消耗もなくなり、コンスタントゴールを量産することができた。結果、31歳にしてキャリアハイとなるリーグ戦26ゴールマークし、初となるJ1リーグ得点王のタイトルを獲得。さらには、これも初となるJ1ベストイレブンにも選出される。

川崎での2年となった2014年も相手からの厳しいマークを受けながらも中村憲剛とのホットラインは健在で、ゴールを量産。8月30日J1第22節名古屋グランパス戦でカルビー広告看板を蹴って損壊させたことで2試合の出場停止処分を受けるが、出場停止明けとなったJ1第25節大宮アルディージャ戦でC大阪在籍時以来となる10年ぶり2度ハットトリックを達成する。最終的に18得点記録して2年連続得点王を獲得、単独での連続受賞はJリーグ初の快挙となった。

2015年FC東京からオファーを受けたが、川崎との契約を延長し残留する。5月2日1stステージ第7節アルビレックス新潟戦でゴールを決めたことでJ1通算得点記録140得点記録し、キングカズこと三浦知良記録を抜いて単独4位に。140を決めた時はカズダンスを披露した。この年は本人が「歩きながらでも点を獲れる」と語するほど、得点感覚が研ぎ澄まされていた。9月18日2ndステージ第11節名古屋グランパス戦は通算3度となるハットトリックに加え、Jリーグ史上4人の通算150得点越えを達成した記念すべき試合となる。最終的には23得点記録し、3年連続の得点王獲得という偉業を成し遂げる。

2016年も例年どおりゴールへの嗅覚が冴え渡り、3月12日J1リーグ1stステージ第3節名古屋戦でのゴールによって佐藤寿人のもつJ1歴代最多得点記録に並ぶ通算158得点記録4月10日1stステージ第6節サガン鳥栖戦でアディショナルタイムでの劇的なゴールによってJ1記録159得点記録を塗り替える159得点記録する。通年ではリーグ戦33試合に出場。4年連続の得点王こそ逃したが、日本人選手最多タイとなる15得点記録。また、この年の川崎タイトル獲得のチャンスを迎えたが、リーグ戦ではJリーグチャンピオンシップ準決勝で敗れ、天皇杯でも決勝で敗れて準決勝に終わり、キャリア初となるタイトルを逃している。

FC東京

2017年1月4日FC東京全移籍することを発表。移籍の理由として「このまま王様でいたくなかった」と語っており、新たなチャレンジ希望しての移籍となった。移籍後初ゴールとなったのはJ1第4節・古巣である川崎との「多摩川クラシコ」だった。だが、川崎時代と違っていい形でパスが来ず、思ったようにゴールを決めることができずにいた。監督交代後はシャドーとして起用されることが増え、チャンスメイクする側を任されるが、結局28試合8得点という期待外れの成績に終わる。

川崎フロンターレ

2018年シーズン、わずか1年で古巣である川崎フロンターレに復帰。だが、監督木達に代わり、前年から小林が新たなエースストライカーとして台頭していたこともあり、名古屋戦と鹿島戦でゴールを決めたもののレギュラーの座はなく、ほとんどが途中出場となり、5月5日FC東京戦以降はメンバー外となっていた。

ジュビロ磐田

2018 FIFAワールドカップの中断期間中である2018年6月26日ジュビロ磐田全移籍する。すでに36歳となっていた大久保はこのとき「引退」も考えていたが、名波浩監督からラブコールを受けたことで移籍を決断した。8月19日J1第23節柏レイソル戦でゴールを決め、佐藤寿人に次いで史上2人となるJリーグ通算200得点を達成。同時に通算100イエローカードを貰うという非常にメモリアルな試合となる。J1第34節・古巣の川崎と対戦では先制ゴールを決める。しかし、得点力不足解消の切り札として加入しながらも17試合で3ゴールと期待に応えられた成績ではなかった。それでもチームJ1参入プレーオフで辛うじてJ1に残留する。

J1通算200得点標に掲げた2019年だったが、低迷するチームの中で自身も開幕戦から第7節までスタメン出場するも得点は決められず、徐々に出場機会が減少。さらに第16節を最後に名波監督が辞任し、その後監督交代が相次ぐなど混迷を極めるチームの中で満足な出場機会を得られずにいた。、負ければ降格が決まる重要な一戦となった第33節の名古屋戦ではシーズンゴールとなる決勝ゴールを決める。しかし、残留を争っていた湘南勝利したため、チームは降格となり、キャリアワーストとなる1得点シーズンを終える。シーズン終了後、契約満了により退団することが発表される。

東京ヴェルディ

2020年1月8日J2リーグ東京ヴェルディへ移籍することが発表される。若い選手が多いチームベテランとして牽引する役割が期待されるが、出場は19試合となり、PKを外すなどチームに自身の得点で貢献することが全くできず、自身初となるリーグ得点に終わってしまう。結局シーズン終了後にわずか1年でチームを去ることが発表される。

セレッソ大阪

2021年1月9日J1リーグセレッソ大阪に15年ぶりに復帰することが発表される。もっとも周囲からは戦力としての加入と見られておらず、引退後のキャリアを考えた移籍と見られていた。ところが、オフシーズンでの改造が功を奏し、キレキレの状態で開幕を迎えると、2月26日J1開幕戦戦にスタメンで起用されると、チームシーズン一号となるゴールを決める。リーグ3戦となった3月6日の第3節FC東京戦では3試合連続ゴールを含めた1ゴール1アシストの大活躍を披露。その後も開幕から5試合連続ゴールを決め、開幕前の下評を覆す活躍を見せ、代表復帰論まで出るようになる。ところが、チームでの新型コロナウイルスによる、第12節の大阪ダービーでの負傷による離脱もあって得点から遠ざかるようになっていた。もっとも小菊昭雄監督からは評価され、離脱期間以外は力として起用されていたが・・・。
11月19日クラブからは契約延長を提示されていたが、2021年シーズンを最後に現役を引退することを発表する。

日本代表

高校3年生だった2000年U-19日本代表に初めて選出。同年11月イランで開催されたAFCユース選手権のメンバーにも選出される。2001年U-20日本代表にも名を連ねていたが、左三角靱帯損傷によってFIFAワールドユース選手権の出場は果たせなかった。

2002年になるとアテネオリンピック出場をU-21日本代表に選出される。10月韓国の釜山で開催されたアジア競技大会2002では、全試合に出場したがゴールを決めたのはバーレーン戦の2ゴールのみでチームも決勝でイランに敗れ、準優勝となる。

2003年にはジーコ監督率いるフル代表に初めて選出され、5月31日韓国との善試合において代表デビューを果たす。この年は五輪代表よりもフル代表に優先的に呼ばれ、年内の代表メンバーにずっと招集される。21歳という若さもあって期待値は高かったものの、14試合に出場しながら初ゴールは生まれなかった。さらに2004年2月には代表合宿を抜け出してキャバクラどんちゃん騒ぎを起こした「キャバクラセブン」の一人であることがすっぱ抜かれ、代表からしばらく追放となる。

2004年オリンピックイヤーということもありU-23代表での活動が中心となるはずだったが、前述したキャバクラ事件がしたのか3月からのアテネオリンピックアジア最終予選UAEラウンドのメンバーから外れることとなった。日本ラウンドからメンバーに復帰すると、レバノン戦で決勝ゴールを決めれば、最終戦UAE戦では2ゴールを決める活躍を見せ、日本の3大会連続のオリンピック出場の立役者となる。
8月に開催されたアテネオリンピックの本大会メンバーにも選出。これが自身のキャリアで初の際大会となった。チームは1勝2敗でグループリーグ敗退となったが、自身は第1戦のパラグアイ戦と第3戦のガーナ戦でゴールを決め、この活躍が後のスペイン移籍の足掛かりとなった。

オリンピック後はフル代表に復帰したものの、結果を残すことができず、次第に代表に招集されなくなる。若さもあって待望論も出ていたが、結局2005年10月欧州遠征を最後にジーコ監督から呼ばれることはなく、2006 FIFAワールドカップメンバーからも落選した。

2007年8月22日カメルーンとの善試合でイビチャ・オシム監督から招集され、2年ぶりに代表に復帰。10月17日、かつての本拠地・長居陸上競技場では代表21試合にして待望の代表初ゴールを決める。オシム監督から岡田武史監督に代わった2008年からは代表の力としてコンスタントに選出されるようになる。2月6日2010 FIFAワールドカップ アジア二次予選のタイ戦で代表2得点記録するが、この試合で左膝半月を負傷する。6月7日二次予選の大一番と見られたアウェイオマーン戦では、相手GKアリアルハブシと接触した際に蹴りを見舞い、一発退場となる。これによって予選3試合出場停止となり、10人になった日本オマーン引き分けたことから大バッシングを受ける。さらにこのとき、岡田監督から「何をやったんや」と聞かれて「蹴ってしまいしました」と答えると、「アホ」と言われている。2008年9月からのアジア最終予選では、出場停止処分の解けた10月15日の第3節ウズベキスタン戦から復帰。最終予選でのポジションは左サイドハーフ戦場となり、ゴールこそ決められなかったが、チャンスメイクで貢献。

2010年6月南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップ本大会のメンバーに選出される。前年の海外移籍の失敗からその後所属する神戸で低調だったことから代表入りに暗が漂っていたが、標だったワールドカップ出場が実現することとなった。直前のテストマッチの成績が低調だったこともあって大会直前に岡田監督守備的なスタイルに変更。これにより、左サイドでの守備の負担が大きくなり、サイドをひたすら走る役割となる。大会では4試合全てにスタメンで出場し、逆サイド松井大輔と共に死にもの狂いで走り回って文字通りに毎試合限界まで戦い抜き、下評を覆すベスト16進出の立役者となる。

南アフリカワールドカップ後にアルベルト・ザッケローニ監督が就任してからの代表ではお呼びがかからなくなり、2012年2月アイスランド戦に1度だけ呼ばれて以降は全に遠ざかっていた。しかし、2013年川崎に移籍して得点王を獲得するなど再ブレイクを果たしたことでファンメディアからの代表待望論が日増しに高まっていた。その一方、本田圭佑が中心となった代表にの強い大久保を選出することを危惧するもあった。

2014年5月12日2014 FIFAワールドカップ ブラジル大会の最終メンバーサプライズで選出される。まさかの2年ぶりの代表復帰は大きな話題となり、大会直前となった6月6日ザンビアとのテストマッチで実に2008年以来6年ぶりとなる代表でのゴールを決める。本大会に入ると初戦のコートジボワール戦では、逆転された直後に投入され、第2戦のギリシャ戦では右サイドハーフ、第3戦のコロンビア戦では1トップとしてスタメンで起用されるが、結局ノーゴールに終わる。特にギリシャ戦では内田篤人の絶好のパスからのシュートを外すなど再三の決定機をモノにできず、決定力不足解消の切り札として期待されただけに大会後は批判を受ける。結局、この大会が日本代表としての最後の試合となるのだった。

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
2001 セレッソ大阪 J1リーグ 20 2
2002 セレッソ大阪 J2リーグ 29 18
2003 セレッソ大阪 J1リーグ 24 16
2004 セレッソ大阪 J1リーグ 22 15
2004-05 マジョルカ リーガ・エスパニョーラ 13 3
2005-06 マジョルカ リーガ・エスパニョーラ 26 2
2006 セレッソ大阪 J1リーグ 21 6
2007 ヴィッセル神戸 J1リーグ 31 14
2008 ヴィッセル神戸 J1リーグ 31 11
2008-09 ヴォルフスブルク ブンデスリーガ 9 0
2009 ヴィッセル神戸 J1リーグ 19 8
2010 ヴィッセル神戸 J1リーグ 17 4
2011 ヴィッセル神戸 J1リーグ 30 9
2012 ヴィッセル神戸 J1リーグ 26 4
2013 川崎フロンターレ J1リーグ 33 26
2014 川崎フロンターレ J1リーグ 32 18
2015 川崎フロンターレ J1リーグ 32 23
2016 川崎フロンターレ J1リーグ 33 15
2017 FC東京 J1リーグ 28 8
2018 川崎フロンターレ J1リーグ 12 2
ジュビロ磐田 J1リーグ 17 3
2019 ジュビロ磐田 J1リーグ 20 1
2020 東京ヴェルディ J2リーグ 19 0
2021 セレッソ大阪 J1リーグ 29 6

おもな個人タイトル

引退後

2015年からMr.Childrenナオト・インティライミらが立ち上げた芸能事務所であるエンジンマネージメント契約を結んでおり、2021年に現役を引退してからはタレントとして活動。スポーツコメンテーターとして、CSネット向けのサッカー中継解説のほか、スポーツニュース番組のメインキャスターバラエティー番組のゲストなどをこなしている。

2022 FIFAワールドカップでは、フジテレビ系列での放送のスペシャルナビゲーターに起用されている。

2025年4月より家族スペインへ移住している。

プレースタイル

日本を代表するストライカーというイメージが強いが、高校時代はトップ下がメインポジションプロになってからはFWのみならず左サイドハーフなどオールラウンダーとしてプレーしていた。川崎フロンターレ時代に導していた風間は「どこをやらしてもうまい」と評している。

パス、ドリブルを織り交ぜながらシュートまで持ち込み、面いようにゴールを奪っていくスタイルであり、「ボールをよこせ」という強気な姿勢でボールを受け、貪欲にゴールタイプ

もっとも多いゴールパターンワンタッチゴールであり、裏を狙うと見せかけてニアを突いたり、ニアを狙うと見せかけて裏を取ったりと「動き出しの上手さ」によって成り立っている。相手DFとの駆け引きもうまく、相手DFに捕まらないような動き出しを極めているのが強みとなっている。

またシュートへの意識が人一倍強く、ゴール前では強引にでも自分でシュートまで持っていき、エリア外でも前がいていれば積極的にミドルシュートを放つ。加えて、小柄ながらも球際でバチバチと戦えることができ、守備でも必死に相手を追いかけてハードワークをこなす。2010 FIFAワールドカップではサイドハーフとして攻守に走り回り、球際で戦えることが岡田武史監督から信頼をされた。

その反面、球際で熱く戦うが故に、つい熱くなり過ぎて報復行為をしてしまったり、判定に納得できず審に暴言を吐いたりと不必要なカードを貰ってしまうのが欠点となっていた。エゴイストが故に周りと噛み合わず、プレー選択を間違ってしまうことが多いのも欠点だった。

ヨシメーター

川崎に移籍した2013年サポーターが通算ゴール記録カウントする「YOSHI METER(ヨシメーター)」を製作元ネタ言わずもがなイチローの「ICHI METER(イチメーター)」)。

本家と違い、横断幕タイプ得点部分はマジックテープ式。フロンターレ戦の一種の名物となっている。

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大久保嘉人

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4 ななしのよっしん
2014/09/04(木) 10:32:51 ID: dkthOF00ZV
Q B K 大 久 保
引退してどうぞ
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5 ななしのよっしん
2015/03/07(土) 22:17:52 ID: sYnf9e2Xk3
アサシン前田の次はアサシン大久保だと言われてるが
ジンクスってのは大きく記事になった時点で普通崩れるよね
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6 ななしのよっしん
2016/04/20(水) 03:12:33 ID: yQYVzeYHVu
凄いのはわかったけどもう代表は諦めてくれ。
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7 ななしのよっしん
2016/06/18(土) 16:21:26 ID: qMOgzsNx1A
神戸の頃と川崎の今じゃ、ゴール前の落ち着きが全然違うな~と思う。

あと4年ほどかったら、世界の大舞台で活躍できたかも。
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8 ななしのよっしん
2016/11/13(日) 15:23:15 ID: qrM+Kdjwl8
大久保嘉人シーズンゴールを決めた相手と、その年間成績(11年以降)
11年:ヴァンフォーレ甲府→16位(降格)
12年:ガンバ大阪→17位(降格) ※前田遼一シーズンゴール相手でもある
13年:大分トリニータ→18位(降格)
14年:大宮アルディージャ→16位(降格) ※森脇良太シーズンゴール相手でもある
15年:横浜F・マリノス→7位(残留)
16年:湘南ベルマーレ→17位(降格)

大きく取り上げられた15年に起こらなかったが、翌年にまた起こったため、デスゴールは健在の模様。
ちなみに、06年の初ゴール相手の京都パープルサンガ(当時)もその年にJ2に降格した(18位)。
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9 ななしのよっしん
2017/07/01(土) 20:15:54 ID: gD5zOP1ZVU
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10 ななしのよっしん
2018/07/21(土) 00:19:53 ID: GAn8opNljV
気づいたけど13、14、15と3年連続で得点王取ってるけど
上記何れかの年で当時所属していた川崎が年間優勝していれば
最優秀選手賞」獲得出来た可性もあるんだよな
年間優勝所属チーム得点王は「最優秀選手賞」を獲得する事が多いからあり得ない話でもいはず
(例外は06年の当時浦和所属のワシントンのみ)
ただ中村憲剛に票が流れる可性も否定できないが
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11 ななしのよっしん
2025/04/27(日) 12:24:07 ID: IGrvNYDkv2
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